第10話

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 その日僕は思い切ったことをしたものである。

 仕事上がり同僚に誘われて市内の阿波座というところで飲んだ。

 そこで同僚と別れるとそこから地下鉄に乗らず、まだ五月の夜風心地よさにそこから南に歩き、鰹座橋という古風古めかしい場所から大阪市内を真横に横切るようにK町まで歩いて帰ったのである。

 途中、大阪らしい幾つもの「――橋」とついた地名を歩き、御堂筋を横に横切って、やがてやや坂上がりの谷町の地形に差し掛かると振り返る様に自分が歩いてきた道筋を思い出す。

 ここまで結構な距離だった。

 シャツが汗でびっちりと背に張り付いている。おかげですっかり酒が抜けてしまった。

 しかしながら気分が良い。

 やはり五月という新緑の風薫る季節が心を浮つかせ、自分に対してそういう気分にさせるのかもしれない。

 この気分をもっと今夜は味わいたいのものだ。

 あっと声を出した。

(そうだ…彼を誘おう)

 僕は急いで門を潜った。 

 平石の並ぶ土香りのする苔道を歩き、僕は彼の邸宅を覗いた。薄く奥から明かりがしている。

 僕は玄関を叩いた。

 しかし、なかから返事はしていなかった。寝ているだろうか?

 腕時計を見る。

 時刻は午後九時丁度だ。

 寝るには少し早いかもしれない。

 僕は再び玄関を叩いた。

 すると突然、予期せぬ方向から声がした。

「田中さんですか??」

 僕は振り返る。

 声がする方向はL字型の奥まったところからした。僕はそちらを凝視する。その奥まったところは薄暗い闇である。

 しかしそこから確かに僕を呼ぶロダンの声がしたのだ。

「おい…、ロダン君…かぃ…?」

 恐る恐る僕は薄暗い闇に声をかける。 僕の声に薄暗い闇の中でひときわ濃い影が揺れる。

「ええ…、僕ですよ。田中さん、ちょうどいいところへ来てくれました。少し助けて下さい」

 薄暗い闇の中で分からないが、困惑しているようだった。

 僕は声の方に歩き出す。

 灯りが消えている薄暗いL字型の角を手探る様に曲がる。角を曲がれば祠のなかで苔むした顔無き地蔵が立っている。

 僕は眼を凝らす。

 数本の蝋燭が地蔵の側に立っているが、その地蔵の背後の薄暗い闇の中で動く僅かな明かりが見えた。

 それも蝋燭の炎だった。それが僅かに揺れている。

「おーぃ…」

 僕はその薄暗い中に向かって声をかける。

 濃い影が水かけ地蔵の蝋燭の下で揺れている。

 それを見つけて僕は言う。

「ロダン君かい?…君ぃ…、こんなところで何をしてるの?」

 僕の声に蝋燭が揺れる。薄暗いとこでどこか気持ちがおどろおどろしく感じて来る。何か出てきそうな感じと言えば、そんな感じだ。

 汗で背に張り付くシャツが肌冷たく感じる。

「おーぃ…、ロダン君」

 その刹那、突然ロダンが地蔵の背後の暗闇から顔を上げてこちらを見た。

 蝋燭の炎ではっきりと見えた輪郭の照らし出された彼の顔はどこか妖怪のようだった。

「うわぁぁ!!」

 思わず悲鳴を上げる。

 それを抑えるようにロダンが僕の口を覆う。

「田中さん!田中さん!近所迷惑ですてっば!!そんな声を出しちゃ」

 僕は驚きで心臓がバクバクである。幸い僕の悲鳴で誰も出てこなかった。僕はやや落ち着きを取り戻し、辺りが静かになるのを待って声を出した。

「いや…驚いたよ。君が突然薄暗闇から出てきて、なんせ妖怪みたいに見えたからさ」

 息を整えながら僕が言うのを見て、彼が笑う。

「いやぁ…、そうでしたか。すいません。驚かすつもりなんか無かったんですが…」

 僕は手を上げる。

「いや君のせいじゃないさ。こっちが勝手に驚いたんだからさ。別にいいよ」

 彼は地蔵の側に置いてある蝋燭をおもむろに取ると、それで地蔵の下の台座を照らした。すると彼は台座の下を覗き込んだ。じっと覗き込んでいる。

「どうしたのさ」

 僕も彼の横で屈みこむ。

 見れば僅かに手が入る程の隙間がそこにあった。

「ん…?どうしたのさ、この隙間…」

 彼の手が動いて首をぴしゃりと叩いた。

「いえね、田中さん。僕ずっとさっきからこの隙間をこの蝋燭の乏しい炎で覗いていたんです。だから目尻がおかしくてそれで顔つきが狐みたいに妖怪じみて見えたんでしょう」

「覗いていた。どうして?」

 僕は彼に言った。

 彼は僕の方を向き直り、言った。

「ええ、実はここが例の『三四郎』にとってとても大事な場所だったんです。僕もこの一週間、とても迷いました。そうまるで主人公の三四郎が最後に呟いた迷羊ストレイシープのようにね」

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