四天王寺ロダンの足音がする / 『嗤う田中』シリーズ 

日南田 ウヲ

第1話

(1)



 大阪湾に向かって下るなだらかな坂が四天王寺夕陽丘界隈から天満橋付近まで南北に続いている。

 この地形は遥か昔、大阪が海に浮かぶ台地だった名残であり、それが現在においては世間一般に「上町台地」と言われていることは良く知られている。また発見されているものや無い物を含め、寺社や路地奥等には戦国の頃、大坂城から逃げる武者の抜け道もあり、歴史の風靡を感じることができる。

 その台地沿いに歩くと大阪のちょっとした建築の変遷や集まりを見ることができる。ちなみにこの台地上を天王寺から天満橋まで縦に走る幹線を寺院が並ぶ谷町通りと言い、斯く言う僕はこの沿線が大変好きである。それは寺院が立ち並び、古めかしさを感じさせるのもあるが通りから少しK町へ向かうと、昭和の初期の頃に建てられたと思われるような趣のある長屋が疎らに点在するからだ。

 長屋の入り口にある小さな門から中を覗けば二階建ての格子窓の長屋がまるでうなぎの寝床みたいに長く奥まで伸びて、先がL字型に折れて行き止る。

 長屋という、人間が集合して壁一つで生活している、この生活様式。息一つさえ漏れ聞こえそうな、何ともいえないプライベートがあるようで無い様なそんな建物。

 僕はそうした人間情景と少し懐古趣味を思わせる建物が好きで、だから少し貯金と金銭に余裕ができた令和の今日この頃、思い切って今では古風めかしい二階建ての長屋へと五月薫る頃、このK町界隈の引っ越しをした。

 この自慢の棲み処(僕は「住処」をこの妖怪のような「棲み処」と言う漢字を当てるのが非常に気に入っている、住人には気の毒だが洒落である)についてもう少し述べたい。

 此処は元々、明治から大正にかけてちょうど真上の坂上にある大宗派の寺門に住み込みで働いていた手伝い用人たちの為に作られた長屋だったが昭和の初めに建て替えられた。当時は古木の門を潜れば土道を挟んで向かい合わせに軒を並べて長屋が建っていたのだが、昭和六十年ごろに住人の不始末による火災があって片方の長屋が全焼した。その為、被災した長屋を取り壊して庭にして、現在は片方のだけが残るL字型の長屋である。

 その長屋の奥にはちょっとした祠がある。その祠には苔むした顔無き水かけ地蔵がひっそりと立っている。

 なんでもこの地蔵はここで再び大きな火災が起きない様、火災の後どこからか運び込まれたものだと言う。

 だからかもしれないが今もこの地蔵に誰かが願をかける為に水掛けに来ているようで、日曜のまだ夜も明けきらぬ頃に訪れる人の足音が僕の寝床にも聞こえてくる。

 ちなみに僕も最近はそんな人に倣って週末の休みの日にだけは履き鳴らした下駄音を立てて、いくばくかの清廉な気持ちで地蔵を拝んでいる。

 そんな自分にとっては非常に良い長屋だが、唯この住居で不便と感じるのは、風呂が無いということだった。

 埃にまみれる都会の片隅に棲まう日々ではあるが風呂が無いのは不便だ。

 特にこれから梅雨時、夏は考えるまでもない。

 しかしながらである。

 こうした独身のどこか気楽で趣味に没頭できるこの享楽的な生活が今の自分には非常に合うと思っていたから、どこか日の終わりは銭湯の湯船で一人佇むのも乙な気暮らしだと思って近所を歩いていると、偶然、都会の空に聳え立つ銭湯の煙突を見つけたのである。

 都会とはなんとこのような人間にって便利な棲み処であろうと、その時、僕は大変心躍った。


 さて、大分自分の事を申し遅れた感があるのだが、改めて自身の事を簡単に言いたい。

 僕の名は田中良二。

 年は四十六、独身。

 こうした住居を好むことから自然と建築が好きな性分もあって今は棲み処から少し離れた松屋町にある小さなリフォーム会社で働いている。

 趣味はというと先に述べた様に建築を見たりするのも好きなのだが、実は古書を探し集めるのがそれ以上に好きで、休日には大阪の様々な古書街や古本市を回り、本の中身というより本独自の装丁や独特の雰囲気があるものを手にとってはそれらを美術品のような感覚で買い漁っている。

 そうして買い漁った古本をこの新しい棲み処に持ち込んでひとり酒を飲みながら、本を開いては色んな時代を想像して、ひとり悦に入りが一番の楽しみなのである。

 以上が自分としてはこれ以上のないほどの自己紹介である。


 さて…、それで、である。

 そんな趣向の強い自由気ままな何も不満が無い様な生活ではあるが実は僕は今、少し困ったことになっている。

 その困ったこととは自分の古書集めが高じて起きたことなのであるが、それではここにその話を述べていきたい。

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