第26話 二人の嬉しい後日談と、龍靖のその後と

 博風のお膳立てが功を奏した夜から日が流れたある日。

 とある秘湯には変わった猿が出没すると話題になった頃。


「愛妃! 愛妃はいるか! 素流は部屋か!?」


 朝議に出ているはずの一翔が、珍しくも大きく慌てふためき血相を変えたようにして素流の部屋に駆け込んできた。宮女たちも驚き顔を見合わせている。

 素流も一瞬何事かとびっくりした。


「陛下ってばもう、そんなに息を切らせて、少し落ち着いて下さいよ」

「落ち着いてなどいられるか! 報せを受けてすぐに走って参った!」

「え、朝議は?」

「ほっぽって参った」

「ええと、参ったとかもっともらしく付けても、ほっぽったとか皇帝が口にするのはどうかと」


 一応は双方のお付きの者たちの目もあるので陛下呼びにして小言も口に出した素流だったが、嬉しそうな一翔から抱きしめられてそれ以上の言葉を収めた。

 因みに、彼が部屋に飛び込んで来て間もなく、お付きの者たちは空気を読んでそそくさと出て行った。


 一翔はきっとあの事を聞いて居ても立ってもいられず来たのだろう。


 素流も自然とにこにことして一翔の背に腕を回した。


「心からそなたの懐妊が喜ばしい。朕も父親になるのだな」

「はい、そうですよ」


 答えれば、腕を外され肩を抱かれる。

 まだ全然膨らんでもいない腹を素流が撫でれば、一翔がその手に手を重ねた。


「名は何としよう? 美しい公主となるような名が良いな」

「気が早いですよ。それにまだ女の子って決まったわけじゃ…」

「決まっておる」


 食い気味に言われて、素流は困ったような笑い声を立てた。


「まあ、本音を言えばどちらでも構わぬがな」

「え? そうなんですか? 本当に?」


 以前、男児は産ませないと豪語した一翔をキョトンとして見つめていると、にやりとされた。


「朕はそなたの意地には負けぬ。今日からはそなたをこれまで以上に甘やかす事に全力を傾けようと思っておる。博風からは外堀から埋めるのが良いと助言を受けたので、着実に埋めておる」

「外堀って、まさか弟たちに何か……」

「当然。そなたの弟妹たちとは既にマブダチだ。もう全面的に朕の味方だな」

「な……」


 彼はいつの間に弟妹たちと仲良くなっていたのか。

 というか、いつ会っていたのか。

 素流が会う時は許可を得てわざわざ後宮に呼び寄せてからでなければ会えないというのに。

 猛烈に狡い、と素流は開いた口が塞がらなくなりそうだった。

 弟妹たちが義理の兄と仲良くなるのは素直に嬉しいが、しかし素流がここに留まろうとすれば、権謀術数渦巻く皇宮で生き抜く海千山千の官吏たちとも、多かれ少なかれ関わり合いになるだろう。


 その時、彼らが素流の家族を取り込もうとするにしろ敵視するにしろ、穏やかではいられない。


 頭の片隅ではなるべくなら関わらせたくないとも思っているのは否定しない。


 以前の刺客の件もある。

 あの件は単純な構図だったから早々に解決できたのであって、あの黒幕の高官とは違って周到な犯人だったならもう少し面倒な事態になっていただろう。

 この先そんな危機に陥らないとも限らないのだ。

 自分だけならばまだいいが、弟妹たちまで危険な目に遭わせるかもしれないと思えば、やはり去るのが賢明なのだと結論が出る。

 それなのに、その点まで理解した上で、当の弟妹たちから後宮に留まるよう乞われては、素流はきっと突っ撥ねられない。


 決意と矛盾するが、素流は心のどこかで一翔の傍にずっと居続けられる理由を探していた。


(ああもう気持ちが揺らぐ~っ)


 動揺の大きさを物語るように、瞳が不自然な程に揺れた。


「ズ、ズルいです。そんなの反則ですよッ!」

「そなたを繋ぎとめるためにはどんな手だって使う。まあ、これで大きく朕の優勢だな。どうする? そろそろ降参してはどうだ?」

「……っ、絶対に負けませんもん!」


 そうか、と笑い含んで短く返した一翔は素流の頬に口付けを落とす。

 未だに素流は口付け一つにいちいち頬を染める。

 それがどうしようもなく堪らない一翔でもあった。


(ほ、本気で挫けそう……。だけど悔しいしもう少しだけ意地を張っておこうかな)


 密かにそんな風に思えば、少し余裕を取り戻し「ふふふ」と悪戯っぽく口元を緩めた。


「その顔、何を企んでおるのだ?」

「んーふふ、さーて何でしょうね? とりあえずは……」


 はぐらかしにも何故か楽しげに眉を上げた最愛の男の頬へと、素流はついと踵を上げて口付けを不意打ちする。


「ふっ、我が愛妃は朝から実に可愛いことをしてくれる。たっぷりと礼をしないとな」

「えッ?」


 余裕綽々にそう言った一翔はやっぱり一枚上手で、素流は朝から腰砕け必至の濃厚な口付けを見舞われたのだった。





「は~ああ、どうせ今も素流はあの色男とイチャイチャしてんだろうな。くっそ羨ましいぜ」


 二国の国境近くで一人の男が天を仰いだ。


 ――らく龍靖りゅうせいだ。


「ばーちゃんがオレの運命の相手はこの国に居るとか言ってたから、ついでに何か月か滞在してみたけど、結局ここでは素流以上の女には出会えなかったな。あーくそ、オレも可愛い嫁さんゲットしてえええ!」


 一人街道で叫んだ青年は、通行人の怪訝けげんそうな目をフンと鼻で吹き飛ばすようにして歩き出した。歩幅は広く、歩速も他の旅人の二倍はある。

 彼の祖母は草原の遊牧民族の出身で、天と通じるとされるシャーマンだ。

 その祖母から彼は先のように予言されたのだ。


「ま、ばーちゃんの予言は絶対じゃねえってことか」


 小さく嘆息し、気を取り直して顔を上げる。


「さてと、もうじき関所だな。……ん?」


 前を向いたところで、その時ちょうど前方から歩いてきた旅装の人物が何もなさそうに見える……いや確実に何もない地面につまずいて素っ転んだ。

 それは実に見事な転びっぷりで、綺麗な扇形に荷をぶちまけていて感心さえしてしまった。

 案外世話焼きな龍靖は性格上見て見ぬふりもできず、近付いて行って助け起こしてやる。


「大丈夫か?」

「あ、ええ、平気ですわ。転び慣れていますし」

「慣れ……へえ」


 転んだ拍子にやや深めに被っていた旅装の頭巾が外れたらしい相手は、二十代前半かもしくは半ばだろう若い女人だった。

 見た目通りなら十七の龍靖よりは歳上だがかなりの美人で、それ故こんな時折り追い剥ぎも出る国境付近を女一人で歩くには些か不用心だと彼は思った。

 こまごまとした物が多く、互いに無言で拾っていたがどことなく落ち着かず、龍靖はその一つ、手にした蓮を模した髪飾りに目を落とすと何となく問い掛けていた。


「姉さんは蓮が好きなのか?」

「ああそれ? 別段好きというわけではないですけれど、どこで何をしていようと自分が何者かを忘れ得ぬように持ち歩いているのです」

「何だそりゃ」


 何か裏がありそうな物言いに微かに眉を動かしたものの、余計な詮索はしなかった。

 このご時世、好奇心は猫をも殺すのだ。

 全ての荷を拾い終え荷物の口を縛ると彼女は頭を下げた。


「御親切にどうも。それでは先を急ぎますので」

「ああ、おう。あ、関所の方から来たってことは姉さんオレと同郷か? 商いでもしに来たんだろ。ここいらは追い剥ぎも出るから気ぃ付けろよ?」


 再び頭巾を被りすれ違い掛けていた女人はふと足を止め、龍靖を振り返った。


「いえ、わたくしは隣国の人間ではなくこの国の出身ですわ」

「ああ何だ。じゃあ帰ってきたわけか。里帰りか?」

「いいえ。けれどすぐにまた隣国に戻りますわ。あなたのご指摘通りわたくし商いをしていますし。もちろん向こうで」

「へえ、どこの店だ? オレ湖冬ことうに実家があるんだよ」

「あら奇遇ですわ。わたくしの店も湖冬です」


 偶然の一致に彼は目を丸くして、同郷のよしみにも似た親しみを覚えた。


「ははっマジか! これも縁だ、オレは洛龍靖ってんだ。姉さんは?」


 すると旅の女人は、急に無表情になってあたかも蔑むような眼差しになった。


「――どこの馬の骨ともわからぬ男に名乗る名はありませんわ」


「は…………ああ……ああそうかいっ! そんじゃあな、道中くれぐれもお気を付けてな!」


 きっとすこぶる気位の高い女に違いないと彼は腹を立て、言い捨てるや身を翻した。

 そのままもう見向きもせずズンズカ関所の方へと進んで行く。


 そんな背中を気のない目で見送って、旅の娘は小さく鼻を鳴らした。


「怒りながら赤の他人の心配までするなんて、随分とお人好しなのかしらね」


 彼女は、どこぞの皇宮で女装している弟とよく似た面差しで目を細め、朱唇に微かな弧を描いた。


「お人好し……と言えば、全てを知っていても戻らないわたくしを、博風あの子は許してくれるかしらね」


 本音を言えば危ない橋を渡っている……というか命がけの綱渡りをしている弟の元に駆けつけて、何馬鹿をやっているのかと耳を引っ張ってそのまま実家にぶち込んでやりたい。

 しかしそれをすれば自らが今度こそ後宮に押し込まれるだろう。それだけは絶対に受け入れられない。

 根本的に一翔と合わないという点も入宮を拒む理由の一つだ。


 此度戻って来たのは、噂で妃が一人入ったと聞いたので、その娘の為人ひととなりを一度確かめておきたく思ったからだ。


 没落した家の娘だと聞いていた。

 栄光の籠の鳥から困難の多い自由へと逃げ出した自分と、困難の多い自由から籠の鳥に収まった娘と、中々に好対照だと少し可笑しくなる。

 弟や蓮家の害にならないと安心できればさっさと国を出るつもりだ。


「あの子も、さっきの殿方くらいに野性味があれば、無理無理女装などせずに済んだでしょうにねえ。気の毒な星回りだこと」


 こればかりは人間それぞれが持って生まれたものなので、仕方がない。


 まだ見ぬ新しい妃がどうか善良であれ……と心から願う彼女、家出中の蓮家息女――蓮雪落せつらくだった。





 一方、しばらく歩いているうちに怒りが治まってきた龍靖は、ふと立ち止まって後方を振り返る。

 当然もう既に先の女人の姿はない。

 前に向き直って疲れたように腰に片手を当てた。


「はー……今年はオレ女運ねえのかも。ひとまずは実家に帰って少しのんびりするか。勝手に出奔したことを親父たちにどやされるだろうが、傷心の今はその声すら早く聞きてえよ……」


 台詞だけを聞けば泣き言だが、彼の存外強い眼差しはハッキリと見えてきた関所を、いやその向こうを、果ては彼自身の未来さえ真っ直ぐに見据えているかのようだった。


 何年も後、隣国には一人の王が封じられた。


 皇族の血縁でもないその者の名は、洛龍靖と言った。


 彼は王に封じられても満足はせず、自国の内乱を平定し、愚かなりとして時の皇帝を廃し、新たな王朝を打ち立てた。


 そんな彼には、密かにずっと支えてくれ、生涯を共にした一人の女人がいる。


 その者は来歴不詳で、後世に至っても多くが謎とされた。

 ただ一説では、商いを営んでいた経験があり、内乱時の交渉事では大いに手腕を発揮したとも言われている、世にも美しいそんな女人らしい。


 ……龍靖へは時々結構毒舌だったとも聞く、そんな女人だそうだ。

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皇帝陛下のお妃勤め まるめぐ @marumeguro

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