第15話 懐かしの温泉街

 翌日、朝から出発して到着したのは秘湯があるらしい山の麓の高級温泉街だった。


 例の秘湯は素流たちの宿泊予定の高級宿が管轄しており、その宿の背後の山中にあるのだが、知る人ぞ知る名湯でもあったらしい。


 麓の温泉街までもそこの原泉を引いていて、同じ湯に浸かれる各宿備え付けの温泉だけでも顧客満足度は上々だそうだ。


(ここって……)


 地名だけではピンと来なかった素流だったが、街に到着して初めて目に映る風景に見覚えがあると気付いた。

 どうやらこの温泉街には昔父親と来た事があったらしい。

 何泊かしたので賑やかな大通りや入った店などを少しは覚えていたものの、当時はまだ幼く地名や地理的な場所までを大して意識していなかったので、博風から話をもらった時点ではわからなかったのだ。


 ただ、さすがに秘湯までは入れなかった。


 しかし今回は違う。


 秘湯は事前予約が必要らしくその予約も立て込んでいるそうだが、今日泊まる高級宿に限らずここいら一帯の宿屋店屋は、一貫して蓮家一門が開業資金の大部分を持ったという経緯から、色々と融通が利くらしかった。

 素流たちの日程をぶち込める辺り、さすがは牛耳っていると豪語していただけはある。

 お忍びではあるが、施設管理者には訪れる者が皇帝陛下一行と前もって内々に知らせてはあるので、きっと宿の中でも過ごし易い環境が用意されている事だろう。


「さすがは博風が選んだだけはあって建物の造りも立派だな」


 馬車の窓から到着した高級宿の建物外観を見やれば、なるほど太い柱で組まれた大きな建造物で、四階建てという壮観さだ。

 朱塗りの太い柱や透かし彫りの連なる明り取りの窓、軒先にぶら下がる提灯の模様や色彩も鮮やかで、見た目にも飽きない。

 今も素流たち以外の馬車や輿こしが前庭を途切れる様子もなく行き来していて、評判に違わない人気のほどが窺える。


「そうですね。博風さんって小物の趣味とかも良いですもんね」

「……そなたは洒落者が好きな口か?」

「いえいえ特にそういうわけではないですよ。……もう、いちいち博風さんに妬かないで下さいよ」

「それで少しでもそなたの朕への好感度が上がるなら、いくらでも妬く」

「はいはいヤキモチ妬かれてしっかり嬉しいですから、もうこの話は終わりにして馬車から降りましょう。早く温泉に入りたいです!」


 浮き浮きとのたまう素流を見据え「ヤキモチより温泉に夢中か……」とか、あしらわれた一翔がどこか敗北感を滲ませて渋々馬車から降りた。

 無論、後から降りてくる素流の手を支えるのも忘れない。


 秘湯は山を上った場所にあり、途中まで道も整備され馬で行けるとのことだった。


 皇宮を出発当初は、宿に着いたら荷物を下ろして宿泊予定の部屋でまったりとお茶をして時間を潰し、夕方近くに麓の宿を出て秘湯に向かう予定でいた。

 けれど素流は懐かしくもあるこの温泉街を少し見て回りたく思った。


「あのー陛下、お願いがあるんですけど」


 付き人たちが荷物を運んでくれた豪華な宿の部屋で、素流は改まって一翔へと声を掛けた。

 何かのチェックか室内を興味深そうに眺めていた一翔は、素流からの不意の上目遣いに内心うっとたじろいだが、彼はこれまでに培った不動の忍耐であからさまに頬を染めるような失態は犯さなかった。

 さも平静を保ったような顔で見下ろして何食わぬ声を出す。


「何だ?」

「温泉街を見て回ってきてもいいですか? 実はさっき気付いたんですが、以前父さんとここを訪れたことがあるんです」

「そうなのか?」

「はい。なのでその……前に来た時に美味しかった点心のお店があったんですけど、そこがまだ健在なら食べたいなあ、と」


 父親を偲んで歩きたかったと言うのが本音だが、楽しい温泉旅行にしんみりした話をするのは気が引けた素流だ。

 そんな頼みを口にすれば、一翔は短く思案して頷いた。


「それなら一緒に食べに行くか」

「えっ一緒にですか!?」

「……そなたと楽しむためにわざわざ来たのだ。どうしてそなただけで楽しませると思うのだ?」


 素流からやや意外そうされたのに彼は内心で拗ねた。

 だからちょっといじけたような物言いになってしまったが、彼の最愛の妃は嬉しそうにした。


「ふふっ天下の皇帝陛下と一緒に街の散策ができるなんて光栄です」


 楊一翔は皇帝なのだ。

 故に巷の恋人たちのようにデートができるなど、素流は思っていなかった。

 素流から素直に嬉しそうにされ、一翔はちょっと反省した。

 彼女に関しては誰よりも器の小さな男に成り下がってしまうため、もっと男として余裕を持たなければいつか愛想を尽かされてしまうのではと思う一翔だったりする。ただし例え素流が彼に愛想を尽かそうが彼は彼女を解放する気はないのだが。


「でも、警備上の観点から言って大丈夫なんですか? 今回はお忍びなので地方への視察と違って手薄なんじゃ……」

「何、ここでは朕の顔を知っている者などそうそう歩いてはおらぬよ。それに護衛は精鋭揃いだ。中央の城下町を歩くより余程安全と言えよう。まあ一応は気を付けはするがな」

「なるほど。でもそうですか、じゃあ私……――男装しますね!」

「そなた、何故にそうなる」


 一翔が腰に手を当て大いに呆れて見せれば、素流は小首を傾げた。


「何でそんな顔するんですか。男女で歩くより、周囲にはどこかの若様とその下男か何かとでも思わせた方が、あなたが皇帝陛下だって気付かれる可能性は低くなると思うんです」

「だから男装をすると? 朕のために?」

「はい!」

「……本当にそなたは直球しか投げて寄越さぬな」

「ええ? まあ後宮に入る以前は男みたいなナリをしていましたし、実際男装もしましたから抵抗はないんですよね。ですからしっかり男役をこなせますよ」

「……。しかし、男装か……」


 意気込む素流を頼もしいと思っていいものか微妙な心境の一翔は溜息をつきかけたが、その動作をピタリと止めた。

 よくよく考えれば、彼女に綺麗な恰好をさせて連れて歩くよりも、男として認識させていた方が余計な虫が寄って来なくて済むかもしれないと思い直したのだ。

 そんなわけで素流の男装用の服を調達するようにと、彼は控えていた護衛の一人に命じた。

 たった今器を広げよう的な決意をしたにもかかわらず、この楊一翔という男の器はどんどん狭まるばかりのようだった。


「あ、ついでに弟たちにお土産を買っても良いですか? 渡してもらえるんですよね?」

「勿論だ。では朕は朕でそなたの弟妹たちに選ぶとしよう」

「えっあのそんな気を遣わなくていいですよ。どうせなら陛下は博風さんへのお土産を選んであげて下さい」

「不要だ」

「そうですか? じゃあ私が陛下の分まで博風さんのを選びま…」

「不・要・だ」

「……えと、ホントにいいんですか?」

「いい。皇后が望めばこの街の特産物など実にあっさりどっさりと後宮に届くだろうからな」

「あー、なるほど」

「……俺といるのに他の男のことなど考えるな」

「え?」

「いや」


 その後、護衛が調達してきてくれた服に素流が着替えるのを待って、二人は温泉街へと繰り出した。


 軒先で風に揺れるいくつもの提灯、軒先を競うように通りに並ぶ露店、そしてしっかりとした建物を構える地元の名店たち、誰に贈る物か購入した荷物を手にまだ何かないかとそれらの店をゆったりと覗いて回る人々。

 かつて皇帝に即位する前の太子時代、一翔も城下町での祭りには内緒で行った事がある。

 この蓮家の地盤の一つでもある温泉街は、その祭りを年中開催しているようなものだなと彼は思った。


 素流は最初こそ一翔の横を歩いていたが、次第にここそこあそこと気になる物を見つけては足を止め興味深そうに眺めたり、駆け寄って店の者から話を聞いたりと忙しくした。


 一翔は、この素流の姿はきっと困窮はしていても市井で伸び伸びと生活していた頃の素流同然なのだろうと思い、どこか新鮮さと共に両目を細めて見守った。


「確か……あっ、こっちです陛……じゃなくて、旦那様!」


 現在、一翔の恰好も勿論身分がもろバレするほかない龍袍などではなく、どこぞの良家の公子、つまりは風流な若様風なので、彼のお付きと言うか下男というか、そんな服装をしている素流は彼を「旦那様」と呼ぶ事にしたようだった。


 旦那様という言葉には主従以外の意味もある。


 一翔は何だかこれはこれで奇しくも妻が夫を呼ぶのにはピッタリではないかと大満足だったりした。


 幼い頃の記憶にある点心の店を見つけた素流は、一翔を一度振り返って促すと、頬を喜びに染めて弾んだ足取りで小走りに駆けて行く。


「余りはしゃいで走ると人にぶつか…」

「――ぶっ!」

「素流!」


 一翔が注意しようとした傍から角を曲がって出てきた男にぶつかった素流は、ぶつけた鼻の痛みを堪えながらも先に相手へと頭を下げた。


「す、すみませんすみません! 前をよく見ていませんでした、大丈夫ですか?」


 気遣う眼差しで顔を上げれば、相手の若者は不意打ちに一歩後方へと多々良を踏んだようだったが、素流を見て一瞬目を瞠ったものの、概ね何事もなかったかのように「いや大丈夫」と小さく呟いて去っていく。

 少し離れた場所に仕事関係なのか「ああこっちこっち」と彼を手招いて呼ぶ人間がいたせいもあって、余りかかずら合ってもいられなかったのだろう。

 ぶつかった胸板は鍛錬場の兵士のように硬く手には剣を持っていたので、大方旅の人間か護衛などの職業の者なのだろうと素流はそう分析した。


「素流、大事はないか?」


 それでも何故か相手は肩越しの視線だけは後ろ髪を引かれるようにしていたが、その男と入れ違うように追い付いてきた一翔から顔を覗き込まれて、微かな疑問は霧散した。

 大丈夫と首を振る彼女へと、一翔は何故か顔色を変える。


「え? どうしたんですか?」

「鼻血が出ている。おそらく今ぶつかったせいだろう」

「えっ鼻血!?」


 濁点の付いた「えっ」を叫びながら鼻を触れば、素流の手には鮮やかな赤い物が付いた。

 一日目から間抜けさ極まる姿を見せてしまい、素流は内心涙を流す。


 これでは博風の気遣いも台無しになりそうな予感がする彼女だった。

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