第17話 幽霊の正体

「陛下、本当の本当に幽霊なんて出たらどうするんです?」

「そなたは心配性だな。朕たちの時間を邪魔するようなら、先も言ったように排除するだけだ」


 素流が馬を寄せて訊ねれば一翔はしれっとして言う。

 苦笑する己の妃を横目に見やり、自身も馬に揺られる一翔は小さく呟く。


「幽霊などより、生身の人間の方が余程厄介だ。……まあ、わざわざここら一帯の深山幽谷を抜けてくる変わり者がいれば別だが。麓から通じる道もここが唯一であるし、警備はしっかりしているようだから大丈夫だろう」


 秘湯への道行きは、各所を瞠る人員以外は当然他の観光客の姿など皆無だった。

 整備道を一歩逸れれば、大自然そのままの暗闇が静かに控えてもいる。


 見つかれば捕まる危険を冒し、尚且つそこを登ってまで入りに来るような観光客は滅多にいないだろう。


 土産を買って支度を整え麓の宿を出たのが夕方近く。


 今はもうほとんど昼の名残は山の端に消えかかっている。


 道に沿って松明が煌々と明るい。

 そんな馬上で感じるのは夜に向かう山の匂いだ。

 昼間よりも涼しい空気、それが妙に心地良い。


 幽霊が出なければ当初の予定通り素流たちは秘湯を満喫するつもりでいる。


 さすがに秘湯なだけあって馬で目的地まで行くのは困難らしく、ここより先は徒歩という場所まで来て馬から降りた。


 後は護衛を引き連れ徒歩で秘湯までの狭い石の階段を上った。


 目的地付近で一度足を止め、先んじて見回ってきた護衛たちから異常なしとの報告を受けてようやく一翔は素流を促して再び歩き出す。


「ふん、やはり何も居ぬか。つまらぬな。時間がまだ早いからかもしれぬがな。素流、どうだ深夜にまた入りに来てみるか?」

「嫌ですよ」


 そんなやり取りと共に一歩一歩と近付く先に見えるのは、湯上がり休憩のための小さな四阿あずまやだ。

 事前の説明によれば、四阿の奥に脱衣所がありその更に奥に秘湯があるらしい。

 因みに岩の間から温水が湧いて出ている露天風呂だと聞いていた。


 ここからは二人の領域、護衛が居ては野暮なので四阿に彼らを待機させ、護衛から着替え一式の入った布包みを受け取ると、素流は一翔と共に建物に入った。


 着替えの荷物は馬を降りた当初は自分で抱えていたのだが、一翔から荷物くらい持ってもらえと言われ、渋々命じたものだった。


(未だに日常のあれこれで誰かに命じるのは苦手だけど、私も少しは淑妃が板についてきたかなあ)


 さすがに付け焼き刃同然の自分の挙措が洗練されているとは思わないが、高い地位にある者の振る舞いとして多少なりとも様になっていればいいとは思う素流だ。

 入浴一式や着替えと肌着入りの布包みを解きながらそんな事をつらつらと呑気に考えていた素流だったが、自分の隣に一翔がいるのにはたと気が付いた。


(え、そう言えば、どうして陛下が一緒にいるの……?)


 そんな疑問顔でぼんやりと夫を見やっていると、上着を脱いでいた彼女の麗しの夫は視線に気付いたようにちょっと彼女の方を見てくる。

 その切れ長の目がふっと細められた。


「そなたは服を着たまま入るつもりか?」

「へ? え、そりゃ脱ぎますけれど、でも……?」


 戸惑っていると、一翔は一度脱衣所の木戸の向こうの露天の温泉へと思いを馳せるようにした。

 そしてその優雅な横顔が素流が訊きそびれていたというか、そもそも思い至っていなかった事実を告げてきた。


「何、遠慮するでない。この秘湯は――混浴だ」

「え……」


 素流は我知らず口を間抜けにも半開きにしてしまった。


「こ、こここ混浴なんですか!?」

「ああ。知らなんだか?」

「ええと普通に男女で分かれているものとばかり……」

「まあそういう事だ」


(まあそういう事ってどういう事!?)


 素流は急に羞恥が込み上げてきた。


(そそそそっか、混浴なのかあ……混浴っ)


 もたもたしていると、帯を緩め胸元を肌蹴させた一翔が素流をすぐ傍で見下ろして、意味ありげな流し目を送ってきた。


「朕が脱がせてやろうか?」

「えっ……!?」


 思わず反射的に胸元を掻き合わせ一歩後退した直後の事だった。


 温泉の方から何かが飛び込んだような水音がしたのは。


 ばっしゃーんと表現して然るべく激しい水音だった。





「な、何でしょう今の音は?」

「さて、何であろうな」


 一翔はハア、と何だか面白くなさそうな溜息をついた。


 素流はこの先は誰もいるはずのない秘湯の湯だと警戒心を強める。


 常の流水音ではない音がしている時点で異常だろう。


 それとも自分たちが知らないだけで、実はこういう音を立てる温泉なのだろうか。

 警備上の観点から、護衛が先んじて見回ってきたばかりだと言うのに、こうも早々に変化が起きるとは、やはり秘湯には本当に幽霊か妖怪の類が出るのだろうか。


「陛下、本格的に入浴する前に、少し下見がてら様子を見て参ります!」

「待て、どうしてそなたが率先して行こうとするのだ。護衛を呼ぶ。彼らに彼らの仕事をさせよ」


 気を引き締めて出陣前の武官のような勇ましい様相で告げる妃へと、襟を合わせて緩めていた帯を閉めた一翔が少し表情に窘めの色を滲ませる。


「ですけどついさっきは異常なしだったようですし、もし本当に幽霊だとしたら護衛の皆さんが居てもスカスカして役に立たないと思いますよ」

「スカスカ……」

「それに安心して下さい、こっそり見てくるだけです」

「なれば朕も行く」

「いいですよう、天下の皇帝陛下が幽霊に取り憑かれても困りますし、ここで待っていて下さい」

「そなたは……」


 全く、と眉間を揉む一翔は無言で素流の手首を掴むと、温泉へと通じる戸の方へ近付いた。


「あの、陛下!?」

「しっ、そう声を大きくするでない。気付かれる。そなたと一緒に見に行くのは勅命だ」

「勅命って……狡いですよー」


 声を抑え呆れ気味に返せば、職権濫用などどこ吹く風と言った面持ちの皇帝陛下は微かに唇を緩めて、その視線を細く開けた戸の向こうへと向けた。

 極力音を立てないように二人で静かに出た露天風呂は、一面が湯気だらけだ。

 点在する明かりが湯気で光を散らされて余計に幻想的に見える。

 素流は小さく感嘆の溜息をついた。


「滑らないように気を付けよ」


 先に出た一翔の注意喚起の通り、足元はそこにあった大きな岩をそのまま削った物や、滑らかにした石を敷き詰めてあるために、湯気で結露したそれらは濡れていて滑りやすそうだ。そして地熱のためか総じて温かい。

 その上を素足の二人はそろそろと進み、これこそ秘湯というべく天然の岩の浴槽の前まで辿り着く。


 聞いていた通り、温泉は白く濁った独特の湯だった。


 岩槽はその湯を留めるだけでなく、温泉自体をごつごつと剥き出しのそれらが囲んでいるため周囲の山野からは余り目立たないが、それでも猪や鹿、或いは兎などの野生動物の侵入を防ぐためにか、見た感じ一応周囲をぐるりと板壁で囲んであるようだった。


「予想よりも奥行きがあるんですね」

「そのようだな」


 秘湯は広く、ここからでは湯気とそして陰になって見えない岩の先にも水面は続いているようだ。


 所々板壁の上から張り出す木の枝があるが、高さ的に入浴客の邪魔にはならないのでそのままにしてある。


 二人が息を潜めて周囲の物音に耳を欹てていると、ちゃぽん、ばしゃばしゃと最初の音よりは控えめだが、湯気の向こうから確かに水音が聞こえてきた。


 どう聞いても何者かの立てた音だ。


 素流は一翔と顔を見合わせた。

 ゴクリと我知らず咽が鳴る。


「陛下、お湯の中に進んで正体を見極めた方がいいですよね」


 この温泉街のためにも得体の知れない音の正体を突き止めてやりたいと、素流は義侠心のようなものに駆られて白い濁り湯へと爪先を伸ばした。服が濡れても構わないと思っていたが、


「待つのだ素流」


 一翔から腕を引っ張られて止められてしまった。

 背中から夫の両腕の中にすっぽりと過保護なまでに抱きしめられてしまい、素流はこんな時だと言うのにドギマギした。

 これでは緊張感が薄れて仕方がない。


「もう少し様子を見てみよう」


 慎重な一翔の声に我に返った彼女は、一人で場違いな思考に陥っていた自身の破廉恥さに赤くなりつつも反省した。

 素流も何だかんだでそっちの方面を意識してはいるのだった。


(こっちに来てから何となく、陛下からのスキンシップがいつにも増して多い気がするし……)


 一翔の言葉を容れて大人しくしていると、水音が何とこちらに近付いてきたではないか。


(な、何か来る……!?)


 高まる緊張に、自分の前に回されている一翔の腕をギュッと抱きしめる。

 彼の方も素流の強張りが伝わったように抱く腕を硬くした。

 既に湯気の向こうにはゆらりと人影のようなものが浮かび上がっており、それは飛沫を伴って接近してくる。


 果たして目の前に何が現れるのか、二人は息を殺して固唾を呑んで見つめた。


 そうして程なくして現れた正体に、二人は呆気とした。


 白い水面に付いて水気を含んだ紗がゆらゆら揺れる。


 その下には乾いていれば豊かなふさふさの薄茶の毛皮だろうそれが、いまは濡れて色を濃くして体に貼り付いている。


「ウキキッ!」


 湯気の中に薄らと姿を浮かべるその相手が一鳴きした。


「「…………」」


 水際とは言えなるべく目立たないように端の方に寄って突っ立っている二人は、揃って言葉を失くしていた。


 現れたのは、何と頭から紗を被った――猿だった。


 どこからどう見ても、猿だった。


 猿の幽霊ではなく、生身の猿だった。


 きっとどこかの宿か民家辺りから盗んできたのだろう。猿はその適度な大きさの紗布をいたく気に入っているようで、広げて頭に被っていたかと思えば、あたかも温泉に浸かる人間のように器用に折り畳んで頭に乗っけたりと、楽しそうにしている。もしかしたらこの秘湯に来る人間たちを観察していての見様見真似なのかもしれない。

 そのまま見ていると、猿は素流たちには気付かずにちゃぷんと湯に沈み水中を泳いでまた湯気の向こうに消えて行った。その際紗が流されないようきちんと掴むのも忘れない。


 幽霊の正体見たり……猿、だった。

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