第16話 秘湯の密かな噂

「ええと、点心のお店はまだ健在でしたので、とりあえずそこで食べながら休ませてもらえると有難いです」

「わかった。それでどの店だ?」

「あのお店です」


 手巾で鼻を押さえた素流が示して、二人で入店して過ごしたが、店内客や店員からは流血沙汰の素流を当初何事かと危ぶんだ目で見られたものだった。


「はー、血も止まりましたし、お菓子は美味しかったですし、一緒に来て下さってありがとうございます。旦那様のおかげで嬉しい思い出の上書きです」

「大袈裟だな」

「それくらいに嬉しいんです。懐かしさに寂しくなるだけじゃなくなりました」

「寂しく……?」


 素流は思わず口に出してしまった胸中に気まずくなった。

 一翔に気を遣わせそうな発言をするつもりはなかったのだが、うっかりしていた。


「あ、えっと少し宿の方にお持ち帰りできるか訊いてきますね!」

「あ、ああ」


 頷く一翔に見送られて席を立った素流は内心ほっとしつつ、ちょうど出て行ったお客の方卓を布巾で拭いていた手頃そうな女性店員の近くに寄った。


「あのーすみません。ここの点心をお持ち帰りって出来ますか?」

「はい? ああ勿論出来ますよ。品によっては少々お時間を頂きますけれども」

「あ、良かった。時間は全然構いません。今日はここに泊まる予定なんです」

「ああ、そうなのですか。でしたら、この温泉街の宿に限ってですが配達も無料で行っておりますので、よろしければそちらをご利用なさいます? 他にもご覧になりたい場所がある場合など荷物にならずに便利ですよ。お泊りの宿の受付に預けておきますので」

「へえ、そんな太っ腹なことまでしてくれるんですか!」


 素流が素直に喜べば、店員はにこにこして説明をくれる。


「これもここを訪れたお客さんに少しでも煩わしさなく買い物を楽しんで頂き、この温泉街を盛り上げていこうというサービスの一つなんですよ」


 なるほどと相槌を打つ素流は、そうしてもらう方向で幾つかの品を注文した。

 しかし、その流れで宿泊している宿の名を告げれば、店員は何故か表情を曇らせる。


「お客さんはあそこにご宿泊なんですか」

「はい、そこの秘湯にも入りに行く予定なんですよ」

「秘湯に……?」


 店員は、秘湯と聞いて息を呑んだ。


(え、何?)


 この態度はどう見ても尋常ではない。


(秘湯って聞いて余計に驚いたよね。何かあるの? もしも危険があるなら、知っておかないと)


 店員は不躾だとでも思ったのかもしれない。ハッとしてから取り繕ったように笑みを浮かべる。


「ああいえ、良いお湯ですからどうぞ楽しんでらして下さいね」


 しかし最早そんな様子は何かあると言っているも同然だ。

 きっとこの女性店員は素直な性格なのだろうと素流は感じた。隠そうとするのはきっと温泉街のためで、自分たちを騙そうとかそういう事ではないのだろう。

 話してくれるかは半々だったが、ここで疑問を残したままは嫌だったので意を決して訊いてみる。


「言いにくいことがあるようですけど、他言はしませんからよければ教えて下さいませんか?」


 素流の真面目な顔を見つめ、店員はちょっと逡巡したものの「お願いします」との念押しが効いたのか、元々の善良さ故か、小さく観念の溜息をついて口を開いた。


「いえねえ、初めに言っておきますと、温泉や施設自体の質には何の問題もないんですよ。ですがここ数日、秘湯で奇妙なものが目撃されるようになったんです」

「目撃? 一体何がです……?」

「――幽霊ですよ」

「幽霊!?」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった素流に慌てたように店員はあたふたとした。周囲からも視線が集まっている。無論一翔のもだ。彼は何事かと自分たちの方に来ようとしたので、素流は両手を振って問題がないとアピールした。


「え、温泉に入る幽霊なんているんですか?」


 こそこそと声を潜めれば、店員も店員なりに疑問に思っているらしく、


「ですよねえ。私もこの世にそんな贅沢な幽霊がいるとは思えなくて……」


 と、正直な意見を口にする。

 話を詳しく聞くと、予約制なために入浴客の立ち入りを制限しているので、当然時間外の夜更けには誰もいない。

 しかし誰も居るはずのない深夜の秘湯から湯の音が聞こえたり、湯気に紛れるようにして人影のようなものが揺らめいていたりしたらしい。更には湯の中で何かが動いていたとか、誰何をしたら呻き声のようなものが聞こえたなんて証言もあるそうだ。


 しかも昨日などは、管理のために出入りしている従業員たちだけではなく、時間外ではない頃合いの夜に宿泊者も同様のものを目撃したらしいのだ。


「そんなことが……」

「ええ、ですから秘湯に行く際はくれぐれもお気を付け下さいね」


 幸いまだ誰かが怪我をしたというような事態には至っていないらしい。

 既に知っている人は知っていて噂にはなっているようだが、温泉街の評判にも関わる事なのでなるべく外部の人間には言わないでほしいと、素流はお願いされた。

 あとは店員に注文の件を宜しく言って席に戻った素流は、早速と事情を聞きたそうな顔をしている夫へと、店を出てから掻い摘んで説明してやった。

 他には言わずとも、一翔だけには話しておかなければならない。


「幽霊……か。面白そうだな」


 話を聞いての開口一番の台詞に、素流はちょっと困惑する。


「ちょうどいい、果たして一体どんな枯れ尾花なのか、俺たちで見極めてやろうではないか」

「ええと……」


 現実的な一翔は、端から怪奇現象だとは信じていないらしく、素流に愉快そうな声でそう告げてきた。


「でも危険かもしれないんですし、今回秘湯は諦めた方がよくないですか?」

「いや、そなたと絶対に入りに行く」

「ですけど、もしも幽霊が襲ってきたら?」

「蹴散らす」

「幽霊は生身じゃ触れないと思いますけど……」

「なら何をしてこようと放置しておいて構わないだろう。痛くも痒くもないんだしな」

「それはまあそうですけど……」


 双方触れないとは言え、幽霊に周囲をうろつかれ脅かされながらの温泉入浴。


(何かそれってすっごく鬱陶しそうだよね)


 素流は想像して辟易とした。

 幽霊の存在の有無に関しては素流はどちらとも確信していないが、ここで恐怖に感じない辺り、彼女も現実的なのだった。


「それでは早い所土産を選んで、秘湯を満喫しながらの幽霊見物と行こうではないか」

「……」


 一翔は何やら上機嫌に素流の手を引いて歩き出す。

 素流はやはり気乗りしない顔付きだ。


「怖いのだろうが、安心しろ。そなたのことは何があっても俺が護る」

「旦那様……」


 勘違いされているようだが、何となく怖くないですとは言い出せず、それでも繋がれた手の暖かさに素流の憂欝な気分はいつの間にか晴れていた。

 素流の本音としては、一翔に危険さえ及ばなければ幽霊だろうと魔物だろうと温泉に一緒に入るのに抵抗はなかった。

 関係ないが、男同士で堂々と手繋ぎしている二人は結構注目されていたので、目立たないようにとの素流の配慮からの男装は、はっきり言ってかなり裏目に出ていた。





 温泉街の大通りを進む素流と一翔を、少し離れた場所から凝視する目があった。


「あれは……あいつなのか?」


 先程素流とぶつかった若者は、まだ彼自身どこか半信半疑な口調で小さくそう呟いた。





「それにしても博風の奴、事前調査も疎かで何をやっているんだかな」

「さすがに昨日一昨日の話では、事前に根回しを完了させていた博風さんの元にだって、情報が届いていなかったと思いますよ。ですからそう怒らないであげて下さい」

「……そなたはいつでも博風の肩を持つな」

「そんなことはないと思いますけど、博風さんは私たちのためを思ってくれていますし、悪く言うのは可哀想ですよ」


 一応は入浴の用意も持参し、素流と一翔は秘湯を目指してそれぞれ馬に跨って山道を上っていた。


 素流から見る一翔は、現在の引き締まった顔には出ていないが実に浮き浮きとしているように見える。

 幽霊見物をしたいなどと、物好きにも程があると彼女は密かに呆れたが、護衛もいるしで万一の際には彼を連れて逃げてもらうしかないと腹を括っていた。


 一方の一翔は実はさっきからこんな事を思っていた。


(素流が怖がって抱き付いてきてくれたらこっちのものだな)


 張り切っている彼は愛する少女の精神の強靭さを完全に甘く見ていた。


 そんな二人は山登り兼騎乗中という事もあり、鍛錬時にも着るような軽装だ。

 護衛たちも一緒だが、素流付きの宮女たちに限っては素流のゴリ押しで宿に置いてきた。

 礼装などのごてごてした服でもない限り、入浴後の着替えなどは元から人に手伝ってもらわなくとも自分できる素流なので、無為に宮女たちの手を煩わせたくなかった……というのは建て前で、それ以上に、日頃自分に仕えてくれている彼女たちにはゆっくりと休養を摂ってもらいたかったのだ。

 点心も彼女たちのために買った物で、皆とても喜んでくれたので心から良かったと自分も喜んだ素流だ。

 馬に乗れない者もいるので、徒歩の者を待っているとかえって時間も掛かり秘湯を楽しむ時間が減るという観点から出した結論でもある。

 彼女たちは今頃伸び伸びとして高級温泉宿を楽しんでいるに違いない。


「聞いた話によれば、幽霊のみならず秘湯には野生の猿も時々入っているらしい」

「えっ猿? そっちなら見てみたいです!」


 一緒に浸かりたいかもしれないと素流は好奇心旺盛にも思った。


「もしも入っていた時は、メス猿以外は叩き出すがな」

「え……あはは」


 野生動物にまで敵愾心を抱く一翔を傍で見ている限りは、彼が稀代の名君になるだろうと囁かれるような誉れ高い男には決して見えなかった。


(うーんまあ、人間いろんな側面から見るべきよねー)


 楽しい温泉旅行なのだ。素流は興が殺がれそうな事まで考えるのはやめた。


 何にせよ一翔は一翔。それでいい。

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