第21話 想定外の風向き

「……にしてもお前随分痩せてんな。男のくせに肩とか全然細いし。成長期だろ? きちんと食ってねえのか?」


 この日程は皇帝陛下のお忍びとは言え、何か間違いがあれば施設管理者の首が飛ぶのは避けられない。

 よってブッキングというのも有り得ない。男はどう見ても正規の手続きを経ていない侵入者だ。素流があたかも過去の妄執に囚われたように呆然としていると、彼はそんな素流の二の腕を遠慮なく引っ張った。


「あっ……!」


 慌てた声を上げ掴まれていない方の腕で咄嗟に胸元を遮るも時すでに遅し。

 辛うじて上だけだったが、素流の素肌は温泉の夜気に晒された。

 相手が大きく目を剥いた。

 その視線がどこに向けられているのかは言わずもがな。

 片腕で覆っているので丸見えというわけではなかったが、女性特有の膨らみの一部は確実に見えているはずだ。


 あたかも全身の血が顔に集中するように真っ赤になった素流は、「放せ変態っ」と鋭い声を上げ掴まれていた手を即座に振り払った。


 自由になった腕も使って胸を隠すと素早く湯に沈み、一応は頭の手巾も取って体を隠すために使った。

 相手も動転したのか、思った以上に簡単に手を振り払えたのは幸いだった。

 自ら一翔に迫る大胆さがあろうと、さすがに素流にも女子としての一般的な羞恥心はある。


「復讐したいからってこんなやり方は卑怯じゃない!」


 素流は後退しつつ、それ以上は理不尽な目に遭った怒りの余り涙目で奥歯を噛みしめて男を睨み続けた。

 この罵倒に暫しポカンとして口を半開いたまま間抜け面を晒していた相手は、ようやく我に返ったのか素流を指差しして素っ頓狂な声を上げた。


「…………は!? はあああああ!? おまっ、お前っ、女だったのか!?」

「人を指差してくるなこの変態痴漢っ、さっさとどっか行って!」


 素流がほとんど水面と平行に腕を鋭く振って、勢いよく水飛沫を飛ばす。

 ビシャアアアッとやや痛そうな音を立て、大半の水は相手へと命中した。


「いてッ! いやっ、オレはっ、そのっ、お前が女だなんて知らなかったんだよ!」

「いいから早くどっか行けーーーーッッ!!」


 普段の入浴客たちはきっとゆっくりと温泉に浸かってのんびりほっこりほんわかとして静かに時を過ごすだろう夜の秘湯も、今夜だけは確実に賑やかだった。





 湯面に掛かる葉っぱから結露がぽちゃんと湯に落ちる。

 そんな小さな音さえ耳に届くくらい、秘湯はいつもの静寂を取り戻しつつあった。

 先の一段と大きかった素流の絶叫を聞き付け、外で待機していた護衛たちが心配したように声を投げて寄越したし、幾人か同行してくれている女性武官たちは脱衣所の方に踏み込んできたようだったが、素流は「大事ない! 変な虫が居ただけよ!」と叫び返して彼らを下がらせた。

 一翔が知ったら心配するので、下手に騒ぎ立てられるのは都合が悪かったのだ。

 素流としては目の前の青年には早い所さっさとこの温泉から去って欲しいのだが、彼はまだ素流に何か言いたいようで、留まっている。


「なあ、おい」

「何?」

「いや……」

「そう……」


 ぽちゃん、とまたどこかで結露が落ちる音がした。


 双方温泉から上がるに上がれず、また護衛たちが来ないよう抑えた声が届く距離を保って浸かっている。


 何にせよ、素流にとっては青天の霹靂にも似た再会だった。


 彼は祖国を出たと言っていた。


 ――素流に復讐するために。


 出国して探すくらい自分が深く恨まれていたのだとわかれば、自然気持ちは沈んだ。


 彼が再戦を望むなら応じる用意はあるが、今ここでというのは心情的に難しい話だ。


 しかし普通、復讐に相手の都合など考えない。


 よって向こうがどう出てくるか次第でもあった。


(もしも戦えっていうなら……無になって晒すしか、ないっ!)


「言っておくけど私、謝らないから。あれは戦場での出来事だったんだし」

「はあ? 謝れなんて一言も言ってねえだろ。オレだってそれくらいの分別はある。流れが違えばこっちがお前に一太刀食らわせてたかもしれねえんだし」


 そう言った青年は、肩まで浸かる素流を一瞥いちべつしてどこか苦い顔付きになった。


「くそっ、完全にやる気が失せた!」

「だったらさっさとどっかに行ってよね」

「まだ温泉に入ったばっかなんだけどオレ」

「そんなの関係ないわよ。大体あなたどうやってここに入ったの? 不法侵入もいいとこじゃない。ここは予約した人しか入れないんだけど。入りたかったなら宿の予約取って入りなよ」


 博風がやったにしろ自分たちのぶち込み日程は棚上げし、素流はさも常識を諭すようにした。


「はあ~? 予約? 面倒なことすんなあ。宿になんざ泊まったら金が掛かる。冬でもねえうちは野宿で十分。ここはそもそも見た感じ元々は自然そのものの温泉だろ。ここ何日か前にやっと山を越えてきて偶然ここを見つけてラッキーって思って使ってたんだ」

「えっまさかあなたずっと山の中を来たの?」

「そうだ」


(ま、まさか険しい山を踏破して秘湯を見つけるなんて、そういう反則技もアリなのね……)


 もしかしたらこの秘湯を一番最初に見つけた者は山登りが好きな人間だったのかもしれない、と関係ない事まで思いつつ、彼の奇想天外さには最早無賃入浴だと非難する気も起きない。


「まあここに来てからは麓まで下りて飯食ったり日雇い仕事したりしてたけどな。夜はまた登ってここに入ってたけど、別に良いだろ。所有物にして囲い作った方が勝手なんだよ」

「……この街の根本に喧嘩を売ってるよねそれ」


 素流が大いに呆れて言えば、相手はふっと嘲りを込めたように口の端を上げた。


「この国の民でもねえオレがこの街の温泉の仕組みに従う義理はねえよ」


 敵国の男となし崩し的にどうしてこんな幾分緊張感さえ欠いた会話をしているのか、素流は自分でも頭を抱えたくなったが、何とか堪えて話題を元の道筋に戻す。


「あなたは私に復讐しにきたのよね。呑気に喋っている暇はあるわけ?」


 多少辛辣ではあるが、素流だって自分を害そうと意思表明した相手に優しくなんてできない。

 すると、どうした事か彼は「あー、それな」と歯切れ悪く言葉を濁した。


「そうしたかったのはやまやまだ。けどやる気失せたって言ったろ。だってお前あれだろあれ」

「あれって何? こっちだって思う所はあるけど、すぐにでも戦いたいなら私は拒まないけど」

「はあ!? 馬鹿かお前女だろ!」

「相手を女だからって侮ってると痛い目見るわよ」

「別に女だって侮ってるわけじゃねえよ。状況を考えて物を言えってんだよ」

「状況……ああ」


 素流自身も重々留意している点を気にしていたのかと納得の声を出せば、青年は短く嘆息した。


「わかったろ。服も着てねえのに戦うだあ? よく言うよ。ったくオレらは裸族か?」

「裸族って……――ぶふっ」


 全く以って虚を突かれたそんな言葉に、素流は素に戻ってついつい噴き出してしまった。


 これでは一翔から緊張感や警戒心に欠けると言われても反論できない。


 それでもツボに入ってしまいくすくす笑っていると、彼は不思議そうに素流を見つめた。


 予想外にも彼が紳士的かつ純情な面を見せたのも、素流から余計に警戒心をはぎ取っていた。

 それにしても山越えとは、むしろ裸族というよりも野人ではないかと素流はちょっと可笑しく思ってまた少し笑ってしまった。


(う、何か変な顔されてる……)


 相手からの不可解な視線にようやく気付き、敵相手に何を和んでいるのかと、素流は自分を窘めコホンと咳払いする。


 そんな素流を、湯の中で少し体の向きを斜めにした青年は黙ったまま横目で見ていた。


 それきり会話もなかったが、素流はずっと心にこびりつくようにしてあった遠征時の記憶の中で、彼は最も気にしていた相手だった。


(本当に呆れるくらい元気そうで何より)


 だからこそそんな相手のピンピンした姿を目にして、本音を言えば些か安堵していた。

 冷えかけた体も今はもう温まっている。

 いくら殺るか殺られるかの戦場で出会った敵国の兵士だったとは言え、自分が唯一大怪我をさせた相手を忘れる事は中々に難しい。

 実際に湯から見えている左肩の傷痕を見ていると、自分の肩まで今にも痛むような気さえする。


 しかし、罪の意識は過去にとうにねじ伏せた。


 ただ今夜は油断した隙に再燃した、それだけだ。

 だからまたねじ伏せる。

 でなければいちいち戦場になど赴いていられない。

 戦場の過酷さは武芸を嗜む素流の方から願って、亡き父親から嫌という程話を聞かせてもらっていたのだ。


(まあ現実は、不快な臭いも音もあって想像以上の酷さだったけど……)


 ただ、自分がした非情を忘れないとだけは心に課していた。


 気持ちを落ち着けている素流の前で、一方の青年は何かを真剣に考え込み始めたようだった。


(どうしたんだろう……?)


 その様子に再び警戒を強めていると、相手がふと顔を上げ素流をジッと見つめた。


「基本オレは女だろうと敵は敵として容赦も贔屓ひいきもしない」


 おもむろに口を開いたかと思えば、彼はそんな事を言い始めた。


「わかってるわよ。私はだからあなたとの決闘を拒まない」

「当たり前だ。拒むなんて卑怯だ。オレが今までどれだけの時間と情熱を復讐に注いできたと思ってんだ」


 素流は自分にそんなものを斟酌しんしゃくする義理はないと面倒になったが、口には出さない。


「でも考えてみれば今更なんだよな。ホントマジで気が乗らない。きっと満足に戦えそうにない」

「え、じゃあ復讐を諦めるってこと?」


 それは願ったりだと思って表情を少し明るくすれば、彼は何を思ったか、


「裸族」


 と言った。

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