第7話 喧嘩のち、薔薇
「大事ないですか? 景淑妃?」
「は、はい」
博風がもう一度皇后として優しい声で問いかければ、一翔の腕の中にいる素流は大いに照れてあたふたして頷いた。
その後すぐに表情を引き締め、自分を支える一翔に短く感謝を述べ彼から少し離れて立った。
一翔に対する素流の態度はややぎこちない。
「ところで、皇帝陛下まで何故ここに? てっきり寝所に戻られたのだと」
「そなたたちの灯りが、違う方向に曲がったと報告を受けて気になって追って来たのだ」
「ああ、それで」
上機嫌ではない声で素流がこっそりと訊ねれば、一旦落ち着いた一翔は抑揚も乏しく答えた。
この時ようやく素流付きの宮女たちが追い付いて来て、彼女たちは素流の姿を見て安堵したが状況を見て目を白黒させた。
一翔は素流が彼女たちを振り切って来たのだと理解し呆れたが何も言わなかった。
それよりもどうして必要以上に離れて立たれるのかと、彼は無自覚にも不服そうにした。
そんな一翔をからかいたい気持ちを抑え、博風は会話の区切りを読んで素流に問いかける。
「ところで、淑妃はわらわに何の用です? ここまで来たからにはそうなのでしょう?」
「ああ、それなら朕も聞きたい。皇后に何用だ?」
素流はハッと思い出したようにすると、一度自らの期間限定夫を横目に見た。
さすがに本人の居る所で相応しくないという葛藤があったが、彼女は意を決した。結局こういう事柄は当人同士がいた方が話が早いと思ったのだ。
「実は一つ、皇后さまにどうしてもご考慮頂きたい事案があって参ったのです」
「わらわに? ……して、それはどのようなこと?」
素流は一度一翔の方へと視線をやってから、少し顎を引いて畏まった。
「はい、皇后さま。――私では皇帝陛下と世継ぎを設けるのは無理です。ですから他の人を後宮に入れて下さい」
「あらまあ……」
「なっ……」
大仰に驚いてみせる博風とは違い、一翔は珍しくたじろぎ、そして一転気色ばんだ。
「そなたは何を言っておるのだ? いや言っている意味がわかっておるのか?」
「わかってます。私じゃ皇帝陛下は手を出してくれないので、子供が出来ようがないでしょう。ですので後宮の女主人たる皇后さまにお願い致します。どうか他の方を側室となさって下さい」
「そなた……!」
懸命な訴えに糾弾するような声を上げたのは一翔だ。
彼は悔恨とも鬱屈ともつかない面持ちでいきなり素流の腕を掴んだ。
強く引かれてよろけながらも素流は彼に引っ張られて行く。
「ちょっと陛下、急に何するんですかっ、痛いですっ。まだ話は終わってませんし落ち着いて下さい!」
「朕は冷静そのものだ! そなたは世継ぎを産みたいのだろう!? ならば望みを叶えてやる!」
素流本人から責められて、一翔は更なる言いようのない苛立ちに襲われ、肩越しに吐き捨てるようにして怒鳴った。
声に慄いたように素流がビクッと震えるのを感じれば、それすらも無性に腹が立った。今日会ったばかりの博風には赤くなったりするくせに、どうして自分にはこんな態度なのだろう、と苦々しい思いにも囚われる。
この後本当にどうするつもりなのか自分でもよくわからないまま、けれど一翔は素流の手を放そうとは思わない。
「痛がっている娘の腕を強引に引くなど、感心致しません」
一翔の腕を掴んで止めたのは二人に追い付いた皇后だ。
反抗期の少年のような癇癪には内心呆れた博風だったが、彼はそれ以上に一翔の今の様子ではこのままもっと酷いことになるのではと危惧したのだ。だから止めた。
無理矢理でも何でも世継ぎが出来ればいいとは思えなかった。
抱き留めた素流からは、武芸を嗜む娘らしく細くも伸び伸びとしたしなやかさを感じた。
顔立ちだって決して悪くない。
眼差しは澄み、真っ直ぐで素直な気質を感じられた。
博風は一目で好感を持ったのだ。
そんな娘がよりにもよって大事な主君であり、かけがえのない友に酷い扱いを受けるのは見たくなかった。
「後宮の諸々は後宮の主たるわらわの管轄です。本当にどうかお怒りをお鎮め下さい」
その存外強く真面目な眼差しに、一翔はようやく自身の短慮を省みることができたのか、苦り切った顔をして少し乱暴に素流を放した。
「……悪かった」
「え……」
「朕はそなたを気に入らぬわけではない。ただ……」
その続きを口には出さず、皇帝楊一翔は踵を返した。
無意識に掴まれた腕を摩っていた素流は、戸惑いと意外感の中でその落ち込んだような背を見送ったが、しばしして皇后の存在を思い出せば慌てて平伏した。
「止めて下さりありがとうございます、皇后さま。私が至らないせいでご迷惑をお掛けしました。ですがその……どうして皇帝陛下はお怒りになったのでしょう……?」
「マジで?」
「はい?」
「ああいえ」
本心からわからないといった風情の素流へと皇后は皇后でちょっとこれも予想外といった面持ちになった。
彼女の嘆願の内容と、逆上した皇帝。
普通に考えれば容易に答えが出そうなものだ。いや巷の恋バナ大好きな娘ならばとっくに答えを導き出していたに違いない。そして良好な夫婦関係を築こうとするだろう。
蓮家は人選を間違ったのだろうか?
(いやそうは思わないな。むしろ……)
事前の情報以上に、景素流という娘は善良で堅実な性分らしい。
「淑妃、陛下はただそなたの
「え? ええと、いやいやまさかそんな情があるようには見えないのですが」
「あら、ふふふ。きっとそのうちわかるかと。陛下はわかりにくいお方ですから」
博風は素流にそっと耳打ちした。
「それから、わらわの事も秘密ですよ?」
「――っ、あ、は、はい!!」
それは素流の感覚が正しいと認めた発言だ。
皇后は、男。
その驚くべき事実を頭に入れた素流は、その瞬間、天啓を得た人のように全てを理解した……気がした。
いや、閃くように降ってきた悟りが脳みそに刻まれた。
だとすればこうして皇后が皇帝の肩を持とうするのも頷ける。
二人は、深く愛し合っているのだ。
男同士、尊くも禁断の愛なのだ。
「だ、だから私みたいな側室が必要だったのですね! 他言は致しません。応援します! 心から!」
「ええと、淑妃……?」
「皇后さまのためにも、もちろん皇帝陛下のためにも、この景素流、やり遂げてみせます!」
胸に拳を当て急にやる気を出し始めた少女の強い眼差しは本物だ。マジだ。
それは何とも頼もしいと思った博風は何か引っかかりを覚えたものの、素流が一体何に発奮しているのかとんと見当がつかなかった。
その夜以降、素流はこの喧嘩のような出来事をすっかりなかったことにして、初夜以上に積極的に春画本を手に一翔に迫るようになるのだが、一人自身の寝所に向かいながら自己嫌悪に陥る一翔が知る由もない。
景素流は取るに足らない娘だと、当初は誰もがそうみなしていた。
しかしその娘が頻繁に皇后と会っていると言う話を耳にすれば、彼女を側室に了承した臣下たちの中には面白く思わない者も出てくる。
「皇后と仲が良いなどと……。では景淑妃は蓮家寄りの立場を取るようになるかもしれん。これでは世継ぎを産めば何を言い出すかわからんぞ」
「確か推薦人は蓮家とは繋がりのない朱家ではなかったのか? 裏で繋がっていたのか?」
「さあな、そこまでは知らんわ。何にせよ、このまま皇后と親しいとなれば我々にとっての目の上のたんこぶになりかねん。早々に側室の首を挿げ替えてはどうだ?」
とある私的な宴席で、重鎮の一人が物騒な提案をすれば、同席者たちは戸惑いを見せた。
「さすがにそれは極論というものでは?」
「まだ時期尚早ではありませぬか? もう少し様子見をしてからでも遅くはありますまい。女同士と言うものは複雑でしょうから、必ずしも仲良しこよしというままで行くとは限りませぬ」
慎重な意見はそれはそれで一理あるが、提案者からは臆病風に吹かれて決断できないようにしか見えなかった。
「皆の貴重な助言は一つ心に留めてはおこう」
「明殿、まさか実行に移すつもりか」
「さすがにそれはまずいのでは、明殿」
その場の誰もが口々に「明殿」と諌めたが、彼は皇后擁立の際の蓮家の一層の台頭を許した前例を苦々しく思っていた。
あの時も上手く阻止できると思っていたのだが、まんまと蓮家出身の皇后は擁立されてしまったのだ。実力行使も厭わないという決断を寸前で渋ってしまった自らの失策であると彼は考えていた。
そして皇后の替え玉の真実を知らない男は、この夜、凶行を決意した。
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