第6話 落ちる波紋

 政略結婚にも似た後宮入りに、素流はくれぐれも情を持つなと釘を刺された。

 それは了解している。

 せめて一日でも早く後宮を出られるようにと、だからご近所の奥様方から男女の秘め事を学び、その際のとんでもない羞恥を呑み込んで、そして健康維持を心掛けた。

 そうしての婚礼初夜だったが、折角知人から春画本まで借り受けたのに目論見は外れた。

 その後も大胆に風呂場までやって来ておいて皇帝は何もせずに退散した。まあそれは自分が怪我を負わせたのが一因だったから文句は言わない。

 しかも腫れて酷いにもかかわらず、彼はそれを悟らせないようにと頑張ってくれていた。素流にとって怪我なんて日常茶飯事だったので、あの強さで叩いて彼の腕が平気なワケがないとわかっていただけに、そんな気遣いには感謝もした。

 しかし、それとこれとは話が別だ。

 一翔の腕の怪我を一応気にはしていたが、まだ治らないのだろうかと気を揉んだものだった。


 素流は早く世継ぎを産んで後宮を出たいのだ。


 大好きな弟妹たちは本当に今頃どうしているだろう。

 きちんと食事は摂っているだろうか。

 寂しがって泣いていないだろうか。

 一番上の弟はきちんと下の子たちを纏めてくれているだろうか。

 諸々の心配事は尽きない。

 早く会いたい。

 だから乙女の恥じらいなんてかなぐり捨てて今に至るというのに。

 この日の鍛錬もつつがなく終わり、また見に来ていた一翔は引き上げて行った。

 そして夜にまたやってくる……のだが。


「皇帝陛下、今夜も庭をお散歩ですか?」

「ああ。東の庭に蛍が沢山いるというからな」

「そうですか」


 初日の子作り道具宣言なんぞ本当にどこに行ったのか。

 近頃では夜に限ってやれ花が見頃だの灯篭を池に浮かべようだの見事な歌舞団を招いただのと誘われては応じるも、それだけだった。


 これが一月も続けばさすがに素流も限界にくるというものだ。


 自分は皇帝の暇潰しに付き合うためにここに来たのではない。


「陛下、今夜こそは子作りしましょう」


 だからそう言ったら、一翔に難しい顔をされ溜息までつかれた。


「……女性の方から恥じらいもなくそのように言うものではないぞ」

「ですが、そのために私はここにいるのです。陛下もそれをご承知でしょう? 私だって早く世継ぎを産んでここを出たいのです」

「城の外に誰か会いたい男でもいるのか?」

「それはまあ、男もいますけど」

「なっ……」


 憮然とした間があった。


「興が殺がれた。今夜はもう戻る」

「では私もご一緒に」

「そなたはそなたの寝所に戻るが良い」

「陛下、話聞いてました?」

「聞いていたが、何か?」


 いつになく冷めた目の皇帝直々にそう反問されては反論も出来ず、素流は不承不承引き下がった。


(どうしていきなり不機嫌になるの? ホントもう意味わかんないあの人!)


 素流が子を産むのが延びれば延びるだけ、弟たちと会える日も遅くなるのだ。

 お付きの宦官を引き連れ口元を引き結んだ一翔と別れた素流は、宮女と共に帰り道を歩いていたが、心なしというかどんどん歩調が荒くなっていく。

 自分付きの宮女たちの「淑妃様?」というやや戸惑った声が後ろを追いかけてくる。


(気まぐれ、暇人、理解不能! 私だって自分から催促するようなこと言いたくなんてなかったわよ)


 きっと自分だけが焦っている。

 向こうにも理由があるように、こっちにも理由があるのだ。

 それを全部理解しろとは言わない。

 でも全く無視されるのは不公平と思ってしまう。

 彼にとってやはり自分は道具なのだろう。

 素っ気なくわされたついさっきの顔を思い出せば、少し悔しくなった。


(そりゃ私には健康以外取り柄がないけど、だからってあんな風にあしらわなくたっていいのに)


 そんな風に一人で思い詰めてしまえばとうとう我慢できなくなって、素流はピタリと爪先を止めた。


「淑妃さま?」


 怪訝に思った宮女からの遠慮がちな問いかけに、素流はくるりと振り返って拳を掲げる。


「もうこうなったら皇后さまに直訴するわ」

「え? え!?」

「淑妃さま!? お待ちを! 一体何を直訴するおつもりです!?」


 この縁談は皇后たっての願いだと聞いた。

 だから自分では役不足だと、他の娘を後宮に入れてほしいと願ってみようと思った。

 そうして持ち前の行動力を総動員し、憤った勢いのまま初めて皇后の宮に足を運んだのだった。

 まだ夜も早い時間だったので躊躇いも薄かった。

 とは言え、きちんと前もっての報せを送ってからにすべきと止める宮女たちを振り切って廊下を進んだ素流は、ちょっと自棄になっていたのは否めない。

 誰か強く止めてくれる相手が居れば良かったが、ここで冷静になった所で今更もう引き返せなかっただろう。何故なら庭に面した廊下の先から一人の身なりの良い女性が素流の倍以上の宮女を従えしずしずと歩いて来たからだ。因みに今夜行動を共にしていた素流の侍女は二人だ。現在は俊足の素流が彼女たちを引き離した形になってしまったので、今頃焦って追いかけてきているに違いない。


 一翔には姉がいるが、その姉公主たちは既に皆嫁いでいる。


 よってここで暮らすそんな待遇の若い女性は、素流の他では一人しかいなかった。


 夜を涼みに出てきたのだろうか。

 素流は初めて目にする相手が誰かを的確に推察するや、運がいいと内心喜々として足を急がせた。


「皇后さま、突然の無礼をお許し下さい! お世継ぎに関わる大事なお話があるのです! どうかお聞き届け下さい!」


 素流の顔を知る相手方の宮女たちがギョッとして、「淑妃さま!?」と咎めるような声を上げ立ちはだかろうとしたが、驚いたように目を丸くしていた皇后が「良い、構わぬ」と制した。


 彼女が景素流か、と初めて淑妃たる娘の姿を目にした偽皇后蓮博風は、まじまじと上から下まで少女の姿を眺めやる。


 絶世の美女ではないが確かに健康的で、普通に可愛らしい娘じゃないかと彼は思った。

 一翔は可愛いと思ったことがないと言っていたが果たして本当はどうなのか。

 一方の素流は速度を緩め適度な距離で止まろうとして、しかし、長い衣服の裾を踏ん付けてつんのめった。運動神経には自身のある素流としては恥ずかしくも、三日に一度はこれをやる。股別れした簡素な男物の下穿きに慣れていた彼女にとっては、未だに裾の長い服は違和感があるし苦手なのだ。


「わあっ!?」

「淑妃!」


 素流と皇后、両者の焦った声が上がり、派手に素っ転ぶと覚悟した素流はしかし、気付けば素早く動いて腕を伸ばしたらしい皇后に抱き留められていた。


「大丈夫ですか? 景淑妃?」

「……へ?」


 しかも皇后からはとてもいい匂いがした。

 素流は昔から母親を恋しいと思うせいか、歳上の女性には滅法弱かった。

 しかも美人だと余計に照れる。過剰に恐縮しどぎまぎした。


「わわわわっごごごごめんなさいごめんなさいごめんなさい皇后さまっ!」


 赤くもなってこの上なく焦って慌てた素流は、思わず離れようと突き出した両手が何か平坦なものに当たるのを感じて軽く目を瞠った。

 咄嗟とは言え失礼にも触ってしまっているのは、部位から言って間違いなく皇后の「胸」だ。

 胸の、はずだ。

 しかし……。


「ぺ、ぺったんこ……?」


 いくらまな板にしても女性ならもう少しくらい何か膨らみがあるはずだ。

 だがしかしそこは鍛錬した男の胸板のように固く凹凸がない。


 いや、そのものだ。


 そう確信が持てる。


(だってこの感触知ってるもの)


 小さい頃から鍛錬中に転んだ際には、父やその同僚たち男性の胸によく手を突いていた。

 年頃になって以降その逆は極力ないように努めてきたが、ともかく、男性たちはほとんどが胸タッチには無頓着だったので、素流も遠慮なく体当たりなり何なりを食らわせていたのだ。己に染み付いたその感覚を疑うべくもない。


「お、男……」


 中途半端に腕を回されたまま、放心したようにやや掠れた声で呟けば、皇后がさっと顔色を変えた。

 幸い二人以外に聞こえた者はいないようだったが、それよりも、顔立ちは美しいのに、やはり男性的な空気というかそういうものを素流は敏感に感じ取ってしまった。


「――素流!」


 その時だ。

 今まで後宮にいて素流の名を呼ばれたことなどなかった。景淑妃か淑妃と呼ばれるのが常だった。

 それが、およそ一月ぶりに誰かに名を呼ばれたことに、可笑しい話だが懐かしささえ感じてしまった。

 しかしこの声は……。


「どうして自分の宮に戻らぬのだ! それに宮女たちはどうした。供の一人も付けずに不用心ではないか!」


 まるで皇后から引き離されるように後ろに引かれ、ぽすんと別の男性の胸板に背中がぶつかった。よろけた所を逞しい腕に支えられる。


「聞いているのか?」

「へ……? あ、今の、皇帝陛下が呼んで……?」


 目を丸くすると、それが名を呼んだことへの驚きだと的確に察したようで、世の女性たちが憧れる麗しの皇帝陛下は居心地悪そうに咳払いをして「咄嗟に出ただけだ。他意はない」とぶっきらぼうに返した。

 周囲の者が灯りを手にしているとは言え光量が十分ではないせいか、彼の頬の赤みは素流に悟られることはなかったが、長年彼の傍で接してきた博風にはバレバレだった。


 しかしそんな博風も一翔のそんな様子にはちょっと驚きに目を瞠っていた。


「まさか……こんな展開になるとは」


 一人口の中で紡がれた呟きを聞く者はなかったが、些か予想外だった。

 偽皇后たる自分を男性だと一翔は知っている。

 その上で、転んだ所を受け止めた状態とは言え、自分の妃が他の男の腕に抱かれているのを目撃して平静を失しかけたのだ。


 惚れられることはあっても、彼の方から惚れることはないと思っていた。


 いや、一翔も皇帝である以前に普通の男だ、それなりに愛着は湧くかもしれないとは思っていたが、他者に嫉妬心を窺わせるくらいに執着するとは思わなかった。


「これは面白い……」


 彼の乳兄弟であり友でもある青年はさりげなく袖で表情を隠し、密かににんまりとした。

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