第10話 素流の心
「素流! 大事はないか? どこにも怪我はないか!?」
自らの妃へと真っ直ぐに駆け寄った一翔は、更に何度か同様の言葉を言い募った。
彼の後ろには宦官たちの姿もある。
対して、呆けたように突っ立ったままの素流は、瞬きを繰り返すばかりだ。
「へ…いか……? あ、やっとお仕事が終わったんですね。お疲れ様、です……」
「そなたこのような時に何を呑気に……! 痛い所はないのか?」
「あ、ないです……」
「本当か?」
「ホント…です……」
人間突如想定外下に置かれると、夢でも見たような気分になるのだなあとぼんやり思う素流は、変な言いようだがいつもやや不機嫌そうに落ち着いている一翔が、やけに感情も露わに安堵を見せるのをどこか不思議な心地で眺めた。
しかしそれも束の間、彼は険しいものへと表情を一変させる。
「そなたどうして助けも呼ばずにいた。刺客の攻撃を避けようともしなかったように見えたぞ! そなたは武芸を嗜むのだろうに抵抗の一つもせず一体何を考えている! 死ぬつもりか!?」
一翔の詰問に素流は瞳を揺らしたが、やるせない諦観のようなものを浮かべて目を伏せた。
「――はい、そのつもりでした」
一翔の纏う空気がヒリついた。
「何…だと……? 悪い冗談はよせ」
「冗談ではありません。そうなるはずでした」
「そなた……!」
そうだったから質問に偽りなく是と答えた。
なのに一翔は、素流がこの世で一番悪い人間だとでも言うような鋭い目を向けてくる。
「仮にも朕の妃の身で命を粗末にするでない! そなたは時に宮中での手本となるべく女人なのだぞ!」
そんな正論が今の素流にはとても痛い。
誰だって自分の命を粗末になんてしたいわけがないのだ。
だが、こんな最悪な出来事の直後、最低な気分の時に、どうしてこの男は自分を煩わせるのだろうと八つ当たり気味に腹が立った。
楊一翔は酷い男だと思った。
冷静そうに見えて自分にはよく怒るし、余り好かれていないのだろうとはわかる。
それもどこか悲しかった。
「したくてしたんじゃない……――そうするしかなかったから……っ」
悔しさを訴えるように叫んだ素流の様子に一翔はハッとしたようだった。
「私が死なないと弟たちが危ないの! 危害を加えるって言ってたのそこの男が!」
「何?」
「きっと家に刺客を向かわせた……!」
サッと顔色を変えた一翔は即座に背後へと目を向けた。
「何か
するとそこにいた宦官の一人が一歩進み出た。
常に一翔に付き従うその者は四十手前という年齢で、現在宦官の中で一番地位の高い者だ。一翔は彼に信を置いていて私的な案件の処理や履行なども時として任せていた。
「いいえ何も。ですので淑妃様におかれましてはどうかご安心下さい」
おそらくは幼くして宦官となったのだろうその者は、そういう宦官特有の高い声でそう言った。
しかしいきなり安心しろと言われても、素流は困惑するしかない。
「どういう、こと?」
「淑妃様のお身内方は、現在ご実家にはおられません。こんな事態も考慮し皆安全な場所にお移り頂いておりますし、移住先の警備も確かでございますので、その男の言葉はおそらくはハッタリでしょう。でなければこれは内々のことなので現状を知らないだけかと」
「ハッタリ……? そうなの? 本当に?」
素流は一翔を押しのけ、別の宦官たちに押さえつけられている刺客へと駆け寄ろうとしたものの、急く余り足が
更には一翔に後ろから腕を回され、それ以上近寄れなかった。
「放してっ! 詳しい話を聞きたいの!」
「放さぬ! 不用意に近付く必要などない! ここからでも声は届くだろう!」
負けじと叫んだ一翔にくるりと反転させられ、素流は正面から両肩を掴まれる。
「それよりもむざむざと殺されようとはそなたは馬鹿なのか? どうして少しでも嘘だと疑わない!」
「嘘じゃないかもしれないじゃない! 私にとって家族が全てなの! 何を置いても一番大事なの!」
「それは朕よりもか?」
「当たり前じゃない!」
「……っ」
一翔は息を呑み奥歯を噛んだ。
「それは、些か悔しいな」
手の力を緩められると同時にポツリと落とされた一翔の押し殺した低い声に、ようやく素流は我に返った。
顧みれば、今自分は敬語もなく、あまつさえ不敬も不敬な発言をしていた。
「あ、あのッ、私にとって家族は絶対なんです。皇帝陛下のことは国の至高のお方として尊いと思ってます。大事ではないと言ったわけではなくてですねッ」
「無理して取り繕っただけの一般論は聞きたくない。どうせなら朕はそなた自身の言葉がほしい。そなたは朕をどう思っておる?」
「え? ええと皇帝陛下は皇帝陛下です」
「そういうことではなく」
「ええと?」
「質問を変えよう。この先朕を家族として見てくれるか?」
「……見るも何も、私はここを出て行く身ですし」
沈黙があった。
「……景素流、今に見ておれよ」
「はい!?」
彼の目に何やら本気の色を見て取って、素流は怒らせたかとぎくりとして半歩引いた。けれど一翔はその分以上に身を寄せ、素流に接近する。
「え、え、あの、ええっと、陛下?」
「素流……朕はそなたを……」
またもや腰を抱かれて必要以上に顔を近づけられ、素流はとある思考を得て雷にでも撃たれたように動けなくなる。
親しげに名で呼んでもくるのだ。
まさかまさか嘘だろうと青くなって赤くなって、必死な形相で訴えた。
「こ、こ、こ、こんな外で子作りなんて無理です!! 他の人もいますし、石畳って冷たくて硬いんですからね!!」
「だっ……誰がこんな所でするかーっ!!」
叫んだことで冷静さを取り戻したのか、一翔は咳払いをするとあっさり素流の傍を離れ刺客の処遇も含めた指示を二、三宦官たちに命じた。
後宮の警備上無視できない騒動の後でもあるので、今夜は一人寝かなと思っていた素流だったが、予想に反し一翔は宦官たちの方から戻って来るなり、有無を言わさず素流の手を引っ張った。
そしてそのまま素流は彼から部屋に連れ込まれた。
「えーあのー怒ってますよね。さっきはみっともなく取り乱してごめんなさい」
「いいからそなたも座れ」
自分の部屋なのに何となく戸口に所在なく佇む素流へと、一翔は静かな眼差しで椅子を勧めた。
彼はもうすっかり落ち着いている。直前まで怒鳴っていた人間には見えない。こういう切り替えの早さが朝議や折衝の場では成果に繋がるのだろうと素流は密かに感心した。
「改めて、助けて頂きありがとうございました」
「うむ。間に合って良かった。太監が護身用の短剣を携帯していて幸いだった。怖い思いをさせて済まなかったな、まさか刺客を差し向けてくるとは……。完全にこちらの油断だ」
「い、いえ、謝らないで下さい。私の判断も軽率でしたし」
素流が椅子の上で殊勝に頭を下げれば、一翔は表情を苦いものにした。
彼によれば、遅くなったと急いでやってきた回廊の先の中庭に素流の危機を目撃し、お付きの宦官から急いで護身用の短剣を借りたのだという。
彼は教養としての武術の鍛錬時以外、城の中では基本帯剣しない。
皇帝の自分を護るのは武官や時に宦官の仕事だからだ。それはいわばそれだけ臣下たちを信頼している証であり、故に臣下たちも彼の期待に応えてくれている。
話を聞いた素流はこれも彼の有能さの一つだと内心素直に称賛を抱きつつ、最後にもう一度感謝を述べた。
しかし、その後はもう会話が途切れてしまって、卓子に掛けられた綺麗な布の上に意味なく視線を固定する素流は、多少の緊張を覚え始めていた。
布のしわの数でも数えていればまだ少しは気分も紛れただろうが、生憎しわ一つない。
(皆の仕事ぶりには拍手だけど、ちょっとのしわくらい残しておいてくれても……)
正直疲れたから早く休みたかった。
一翔はいつまでこうしているつもりなのか。
しかし露骨には「今夜は迫らないのでお休みなさい」とは言えない。
(そ、それにこういう、人が精神的に疲れ果ててる時に限ってその気になる人だったらどうしよう)
しかしそうならば、素流は応じるしかない。どんなに疲れていても。
「淑妃、心の声が全部駄々漏れているのだが」
「え!?」
「朕は断じてそのような偏った状況での無理強いが好きなわけではない」
「あ……あー、ですよね。ごめんなさい」
変な方向に分析しているのを本人に知られて実に気まずい思いで素流は俯いた。
(あれ? でも今の言い方だと普通の状況でなら無理強いはいいの? ん? んん? ……っていやいやそんなわけないよね。この人冷製スープみたいな性格だし、そんな情熱的には見えないもの。変に勘繰るというか余計なことまで考えるのはやめよう)
一翔に関しての思索を止め、素流はこの間をどう持たせようかという思案に切り替えた。
(よし、お茶でも淹れよう!)
即決し席を立とうとすれば「茶は要らぬ」と一翔からまるで心を読まれたように機先を制された。
素流はおずおずと浮かせた尻を椅子に戻す。
互いに何も話さず、卓子の上には居心地の悪い沈黙だけが存在している。こんなもの食べても飲んでも美味しくもない。
しかも彼は時折り素流の方を見ては何かを言いたそうにした。
(もう何なの? やっぱり今夜こそとか思ってたりする? だったらこっちも頑張って春画本を取り出した方がいいのかも)
少し悩み、その手の書物が積まれた別の卓子を一瞥して機を見計らっていると、一翔が
「そなたは、死ぬのが怖くはないのか?」
「そんなわけはないですよ」
さっきの素流の状況を思い出しているのか、一翔の表情はやや硬い。彼は今から説教でも垂れようというのだろうか。
「ならば何故助けを呼ばなかった。家族が盾に取られていたせいで下手に反撃できなかった気持ちは、まあ理解できなくはない。だが朕が間に合わなかったらそなたは一人で死んでいたのだぞ?」
「……私はこうして生きてますし、過ぎた話はやめましょう。命を救って頂いた御恩は健康な世継ぎを産むことでお返ししたいと思っています」
一翔はじっと素流を見つめて呆れと苛立ちを孕んだ息を吐く。
「恐ろしい思いをしたと言うのに、そなたは頑固なまでに気丈だな」
「頑固って……何ですかそれは。か弱く泣いて怖がって震えてればいいんですか? そういう女性が好みなのですか?」
「そうではない。もっと頼れと言っているのだ。今度このようなことがあれば必ず助けを呼べ。まあ、とは言え今後は同じことがないように見張りを強化するが」
素流は自嘲するように口元を緩めた。
きっと褒められない不格好で下品な表情になっているだろう。
「頼れと……? 誰も助けてくれないのに?」
「だから今のように朕が助けると…」
「私これでも応戦してたんですよ。あなたが来るまで」
「何?」
「その戦闘時間がなければ、結局は間に合わなかったと思います。無責任に頼れだなんて言わないで下さい」
「淑妃……」
「我が景家は、母さんはずっと昔に亡くなってて、父さんが私たちの中心でした。でも父さんも私が十二の頃に病で逝ってしまって、それからは年長の私が全てを取り仕切るしかありませんでした」
突如始まった素流の身の上話に、一翔はちょっと呆気に取られたような顔付きになったが、黙って耳を傾けた。
「ですが親戚たちに父さんの遺産はほとんど掠め取られてしまって、守れたのは家とあとさして広くもない荒れ地くらいでした。そこは今でこそ畑にしてますけど、当時は貧乏まっしぐらでしたよ。衣服や食べ物を融通してくれる優しい知人やご近所さんもいましたが、ずっと甘えるわけにはいきません」
だから素流は子供ながらに働き出した。初めは父親の同僚の伝手で軍の下働きなんかをさせてもらっていたが、それだけでは家族を養うのには足りなかった。
一年二年と経てば、当初は同情して手を差し伸べてくれていた者たちも、自分たちの事で忙しく、景家の遺児たちを気に掛けることもほとんどなくなった。
また、幼い自分たちを可愛がってくれた父親の部下たちも遠くの国境警備に回されていて、彼らが逐一素流たちの窮状を知ることは難しかった。
近くにいたならまた少しは違っていたかもしれないが、もしもを考えても意味はない。
素流が自らの培った武芸の腕を頼りに、用心棒や荷運びなどの幾つもの仕事を掛け持つようになっていったのも、自然な流れだった。
「誰かに頼るなんて、私の選択肢にはないんです。かえって自ら手綱を放り出すようで、無責任そのものにしか思えないから」
初めて聞く素流の心の内に一翔は言葉を挟まなかった。
何も言わないから、素流は話を続けた。
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