第11話 惑う頑固者
世の中優しい人ばかりではなく、時に縋りついてもその手を振り払われ、優しい声に顔を上げてもそれは自分にではなく、期待しても目の前に差し出される手は一つもない……なんてことを何度も経験した。
素流が毎日不安で心が潰れそうだった頃、弟妹たちにもその気持ちは伝わっていたのか、いつも疲れて仕事から帰った素流の後をずっとくっ付いてきて、ある日などは眠るまで皆で袖を握って放さなかった夜もある。
またある日などは家の中を歩くのも難儀したが、弟妹たちの素直な求めには素流が随分と救われてもいた。
だからこそ、めげるわけにはいかないと思うことが出来た。
素流が平気な顔をしていれば弟妹たちも同じように平気な顔をするのだ。
笑えば一緒に笑ってくれるのだ。
いつも明るい顔でいてほしい。
そう願うからこそ、何だってできるような顔をして背筋を伸ばすことを心掛けていた。
たとえ本当は胸のうちにどれだけ不安の嵐が吹き荒れていようとも。
「皆が皆、必ずしもそうではないだろうに」
「そうかもしれません。世の中は広いですし」
一翔の言葉には同意できる部分もある。
「でも誰かに期待して何もなかったら虚しいって思い以上に、頼るのは駄目なんです。もしもしっかりと手を掴んでくれる人が現れて、頼っていいんだって安心したら、そこに脆さが生まれてしまうかもしれない。怖気付いて諦めて、自分がそこから先に進めなくなるかもしれないと、そうも思ったら余計に頼れません」
助けてほしいと口につつ、こんな主張は我ながら矛盾している。
愚かしいと思う。自分を。
素流は微苦笑を禁じ得なかった。
でもそれが今の景素流なのだからどうしようもない。
「せめて弟たちがもう少し大きくなるまでは、私は弱音など吐かず強くあらねばならないんです」
自分にそう課してきた。
きっとこの先も。
今まで誰にも黙っていたそんな心情を吐露し、自分を見つめる真面目な一翔の瞳にハタと我に返って思考を整理すれば、じわじわと後悔が強くなった。
だってそうだ、こんな愚痴、これこそまさに弱音ではないか。
「す、すみません今のは忘れて下さい。お願いします……」
自己嫌悪に項垂れ、卓子の上に置いた二つの拳を握り締めそれを無意識に睨んだ。一翔は呆れたのか何も言わないが視線が注がれているのはわかる。それが余計に素流を居た堪れなくさせた。
(はー……ああもう私この人相手に何言ってるんだろ。友人でも家族でもまして恋人でもないのに、こんなの聞いた方だって反応に困るよ。……うーんでも改めて考えるとこの人って私にとって何分類?)
落ち込みながらも中心からやや思考がズレたところで、拳に固定されていた素流の視界に一翔の大きな手が入ってきた。
その大人の男の掌は、素流の男性と比べれば小さい手を優しく包み込んだ。
剣だこがあるし、後宮に入って手入れをしても皮膚に残ってしまった小さな傷だったり荒れていた名残りは薄らある。
決して世の貴婦人たちのような白魚の手ではない、
けれど彼はそんな素流の手を撫でて、するりと指を絡めてきた。
(なっ、こここれって春画本にあった恋人繋ぎ!?)
「へ、陛下!?」
動揺を浮かべて顔を上げた素流は、自分を覗き込むようにした一翔からの、やけに真剣味のある眼差しとぶつかった。
「――それでも朕は、そなたに朕を頼れと言う」
「え?」
「ようやく初めて朕は本当の
そう呟いた一翔は別人かと思うようなとても優しい目をしていた。どことなく嬉しそうにも見える。
そんな顔もするのかと素流は純粋に驚いて、そしてその裏で自覚なく動揺した。
「そなたの事情はわかった。しかし何度でも、乞う。頼れと。そなたが心から朕を信頼しそうしてくれるまで」
素流は更に大きく目を瞠った。彼がこんな食い下がるような発言をするとは思ってもみなかったのだ。
「どうしてそんな……」
「そうしてほしいからだ」
「私に? どうして……」
一翔は怪訝にして全く意図を解さない素流に苛立つ様子もなく、ただ静かな目で見つめてくる。
「淑妃よ、いい加減ここではもう無理せずとも良いではないか。ここには少なくともそなたに護られなければならぬ者もおらぬし、むしろ皆そなたを護ろうと躍起だ。そなたはここで思う存分弱くなって甘えれば良いのだ」
「そ、そんなことできるわけないです」
「何故? この国で一番偉い男がすぐ傍にいるのだぞ。出来ないわけがない。朕の前でくらいは拒絶や否定を頑張らなくて良いのだ」
反論したかった。
なのに言葉が出て来ない。
心が疼く。
いくら素流が
「淑妃、そのように頑なでは、本来得られる幸せも気付かぬうちに逃がしてしまうぞ。もっと心で寄り掛かれ」
「やめて、下さい……」
「景素流、素流」
(また名でなんて……)
不思議と不快ではなかった。彼の滑らかな低い声で奏でられる自分の名前は心地良かった。握られた手もとても温かく、心の弱い部分の隙間を埋めてくれるようで、放してほしくないと思ってしまった。
――だからこそ、恐ろしい。
一翔の言葉や態度は皇帝が妃に対する義務のようなものだろうと、素流はそう思う。
でも自分はたったのこれだけでどこまでも弱くなりそうだった。
凍らせた心を解かすような熱を感じたくなくて、触れている面を小さくしようと、絡められていた指を引き、よりきつく自身の指先を握り込む。
しかしそうすれば、一翔の手は追うように素流の手を包み込んだ。
(……っ)
初夜で冷たい言葉を平気で放ったその口で、今では心を絆すような言葉を紡ぐなんて彼はズルいと思った。
(私を好きなわけでもないくせに。博風さんが好きなくせに……)
「陛下、手を放して下さい」
「素流、朕は…」
「優しいことを言わないで下さい。どうしてか心が揺れて胸が切なくなります」
「……」
うっかり小さな穴を開けてしまったがために、ずっと固く築いてきた頑なさの
応援しようと思う傍らで、博風を羨ましいと思うなんて自分は最低だと思った。
無自覚に恋する娘のような台詞を口走っていた素流は、一翔がどこか嬉しそうな表情を浮かべているのを見る間もなく視界がぼやけて、ハッとして乱暴に目元を拭った。
「……っ、今こっち見ないで下さい。みっともないことになってるので」
「気になどせぬ。泣きたいのなら泣け」
「そんなの、子供みたいで恥ずかしいですっ」
「朕の前でだけなら、どんな恥ずかしい姿だって構わぬ。朕が許す」
「……何ですかそれ」
許すだなんて、何て傲慢、何て尊大、何て自己中心的。
でも、何てホッとできて優しい響きだろう。
老若男女で頼れと言ってくれたのは彼が初めてではなかったけれど、弱くなれなんて強引にも言ってきたのは彼が初めてだった。
自ら
小さな頃、父親へと安心して思う存分に甘えていた頃の気持ちを思い出してしまい、どこか可笑しく思った。
(歳も性格も全然違うのに、童心に返りそうになる)
「ふふ、陛下は何だか父さんみたいです」
目尻を小さく光らせて、素流はいつしか淡く小さく微笑んだ。
「……父親か。まあ今だけは特別にそれでも良い。だが今だけだぞ」
一人勝手に頷いて念を押し、わざわざ素流の隣に椅子を寄せた一翔は、自身へと素流を引き寄せると自らの胸に素流の頭を傾けさせる。
突然の抱擁に素流は目を白黒させた。
「え、あの」
「巷の父親っぽく少しこうしていてやろう。怖いものがどこかへ飛んで行くようにな」
「怖いものって……」
「隠さずともわかっておる。庭先ではさぞ怖かっただろう?」
「……。へ、陛下って案外子煩悩のお父さんになるかもしれませんね」
図星だった素流が誤魔化すようにちょっと話題を逸らせば、一翔は存外真面目な面持ちで素流を見下ろした。
「ふむ、それも悪くないな」
「悪くないって……ふふっ」
幼子をあやす姿を想像すれば和んで、微笑ましくなった。
一翔への好感度は実は最近では自分でもよくわからなくなっていた。
自分は好かれていないと思っていたが、そうでもないのかもしれない。
そんな風に考えると、心がじわりと何か幸福なもので満たされるようだった。
「ではこの不肖景素流、皇帝陛下直々の命を頂戴致しましたので、今は胸を借りさせて頂きます」
「……そなたは難攻不落の城よりも厄介そうだな」
はあ、と何やら疲れたような大きな溜息をついた一翔の胸中はわからない。冗談を言えるくらいは機嫌が良いのかもしれないと素流は思った。
大人しく寄りかかっていたら、温かくてうとうとしてきて小さな
「今日は疲れただろうからもう休むがよい」
一翔の微かにふっと笑い含むような低い美声が落とされた。
その声も安心できて素流は彼を見上げる。
必然上目遣いになるのだと意識してはいない。
「一緒に、寝ます?」
「…………そなたは本っっっ当に朕の思慮と忍耐を何だと思って。疲れているのではなかったのか?」
「ええと、はい」
「ならば無理するな」
「わかりました。ですが私、これからは心も新たに陛下と皇后さまのために精一杯子作りを頑張りたいと思います」
「……おい、ここでどうして皇后が出てくる?」
「だって困難の多いお二人を応援したいって思ってますし」
一翔は疑問を浮かべた。
「困難? 応援? そういえばこれまでもちらほらそのような趣旨の台詞をそなたから聞いたが、朕と皇后の何をだ?」
素流は部屋を見回して念のため他者の有無を確認すると、更に念には念をと一翔の耳元に顔を寄せこそっと耳打ちした。
「皇后さまと陛下の、男性同士の恋愛をですよ。私これでも理解してます!」
どんと来いと胸を叩いた素流の激励に、一翔はやや俯いて無言になった。
喜んで然るべき所だろうに、唇を引き結んで不機嫌そうになった。
(折角陛下の幸せを優先したいって改めて決意宣言したのに怒ったの?)
「陛下? ええとあのーどうしたんですか、陛下?」
そうでなければ具合でも悪くなったかと心配すれば、彼は不穏な低い声を出す。
「……そなたは皇后が男だと知っていて毎日茶をしに行っていたのか?」
「そうですけど?」
「素流!」
一翔は威嚇のように声を荒らげ、素流を振り落としても構わないとでも言うように、ガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。
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