第13話 冷めない二人の宣戦布告

「今、何と言った? 離縁だと?」


 一翔と博風が唖然とする中、素流は本気の目で相対している。


「ええと景淑妃、いきなりどういうことかな? 以前も他の者を側室にとは言ってきたけれど」


 博風が最早地声で控えめながらも問い掛ければ、素流は決然とした声で言う。


「私じゃ陛下のお役に立てないどころか、巷での陛下の株を下げる一方だからです。だから後宮を出て行きます。約束は果たせませんけど、私がここにいつまでも留まることが一番の害悪だと思うんです。あ、報酬はびた一文いりません。全然履行されていないので当然ですし」

「ちょちょちょ~っと待って素流ちゃん、どうしてそんな風に思ったの? 誰かに何か吹き込まれた?」


 もう素流ちゃん呼びに戻っている博風へと一翔は一睨みしたが、それどころではないとその点は大目に見ることにした。今だけは。


「ええとその、宮中外で流れているという噂を耳にしただけです。……陛下に関しての。それで自分で考え判断しました」


 博風はいくつかある噂の諸々を思い出した。


 ――皇帝と淑妃は清い関係らしい。


 これは別に今更気にするものではない。


 ――皇帝は淑妃を疎んでいるらしい。


 これも素流が離縁を申し出る程のインパクトはない。


 ――どうも、陛下は不能らしい。


「これだあああっ!」


 博風は思わず的中の叫びを上げてしまい、ビックリ眼のち怪訝顔になる二人の眼差しに我に返って咳払いした。さすがに外に聞こえていないといい。

 素流は一翔の株が云々と言っていたから、この噂を耳にして決意に至ったのだろうと思われる。

 もう笑うしかない。


「や、違うんだよ素流ちゃん。この状況には一翔なりの自論があるんだ。だから噂を気に病んで素流ちゃんが割を食う必要はないんだ。実に重要な理由のせいなんだ、重要なね」


 真剣極まる目で博風が撤回を促せば、素流はごくりと唾を呑んだ。


「い、一体どのような重要な理由が?」

「博風、いい。こういうことは自分の口で言う」


 博風が来てもそれまで一貫して文机の前に座していた一翔が腰を上げ、素流の傍まで歩いてくる。


「わかった。じゃあ私は退散するよ。くれぐれも相互理解に努めるように」

「それはわかっている」


 博風は「いやわかってないから」という小言は呑みこんで一人きびすを返した。

 素流は一翔と博風を断袖だんしゅうの相思相愛だと思い込んでいる。

 一翔も一翔で面倒なのか何なのか、何故か誤解を解いていないようだった。

 まずはそこの誤解を解かなければ、いくら一翔が後宮に居て欲しいと心を尽くして言っても本当の理解は得られないだろう。


 気持ちに気付いてもらえない。


 その上、素流は境遇だったり責任感が強い故に変なところで頑固だ。

 今も変わらず世継ぎ出産を仕事だと思っている節がある。

 これでは一翔に甘い感情など抱けるはずもない。

 彼女の念頭には報酬をもらって実家に帰るという思いがあり、自分がずっとこの後宮に留まる展望を抱いてもいないようだった。


 一翔にとって前途多難な恋だ。


 博風は本心から二人が上手く行けばいいと思っている。

 蓮家の人間として見ても、善良な素流は害にはならないだろうし、最早彼女の入宮の際の約束事など無視しても構わなかった。


 楊一翔、自分の姉の夫になるはずだった男。


 一翔とどこか気質の似ていた姉では、彼がごく自然と柔らかな笑みを浮かべている光景など、ついぞ目にする機会がなかったに違いない。

 昔から、同族嫌悪というのか、二人は折り合いがすこぶる宜しくなかったのだ。

 恋心は自覚しているものの、自身の表情にまで一翔は無自覚なようだが、彼が素流へ向ける顔は他とは明らかに一線を画し、蕩けるような幸福感を滲ませている。

 朝議の席での臣下たちは、二人が一緒に過ごす場面を見ていないから妃不適合だのと見当違いな発言を囁くのだろう。


「ほほっ存分にお励み下さいませ、麗しの皇帝陛下」


 書斎を出た博風は、即座に皇后の仮面を被るとそこに控えさせていた宮女たちを引き連れ、楚々として自らの宮へと戻るのだった。





 他方、皇帝の書斎内。

 素流は背筋を伸ばして立ち、同じく佇む一翔と向かい合ったままでいた。


「一つ訊く。そなたはそなた自身を朕の妃として足らぬと思っているのか?」


 思ってもみなかった問いに、素流は当惑し考え込んだ。

 しばしの後、見栄を張っても意味がないので感じたままの答えを素直に口に上らせる。


「足らないと思います」

「どうしてそう思う?」

「えっと、だってその……私たちまだ清い関係ですし」

「男女の仲は体の繋がりだけではないだろう」


 際どいというか最早そのまま、まっすぐ、まんま、あけすけ、直球な表現には素流も赤面した。

 だからついつい羞恥心に反発するように声が荒くなった。


「そ、それはそうですけどっ、ここは天下の後宮なんですよっ」

「そなたは、朕には巷の男女のように育むような愛情を抱く権利もないと?」

「そ、そういうことではなくてですねっ。あなたが手を出す気にもならない私では、皇后さまああいえ博風さんとの安泰な結婚生活を送れないじゃないですか。噂で陛下が不能とか何とかそんなことまで囁かれてしまって、全部私の不徳の致す所です、申し訳ありません!」

「ちょっと待て、不能……だと? 朕のそのような噂が?」

「えーと、はい……」


 一翔は深く眉根を寄せて一時黙り込んだ。


「百歩譲って噂はどうでも良いが、そなたも噂通りだと」

「へ!? そそそれは私にはわからない領分の話なので……ッ」


 赤くなってしどろもどろになって動揺を必死で堪えようとする姿に、意地悪にも少し和んだ一翔は、もう一つ浮かんだ問いを口にする。


「ところでそなたはこう思っておるのか? 朕が博風と愛し合っていると?」

「あ、はい! ですが男なのは内緒なので、つつがなく夫婦を続けるそのためにも世継ぎが必要なのでしょう? だから私みたいな娘が必要だったのですよね!」


 こうも自信満々に言われては、これまでのアプローチが全く微塵も通じていないのだと痛感させられて、一翔はガックリと落ち込みたくなった。


「朕はそなたを甘くみていたようだ」

「はい?」


 彼女の言うように、世継ぎの存在目的は間違ってはいない。

 この王朝と、そして蓮家のためだ。


 しかしもう、一翔が家族を欲する理由は違う。


「素流、今更だが朕に断袖の気はない。そう言う対象として博風を愛してはいない。断じて、違う」

「あー、はは……そんな無理に誤魔化さなくてもいいですよ。前に言いましたよね理解してますって」


「本当に、違う。――朕はそなたを愛している」


「えー、はは……冗談が過ぎますよ。手を出す気にもならない娘相手に何心にもないことを仰るんですか」


 素流がわざとらしく明るく笑い飛ばせば、一翔は苛立ちを隠そうともせず片眉を撥ね上げた。


「何故朕の言葉を信じない?」

「ええと、何でそんなに不機嫌なんですか?」

「そなたは、自分の懸命な言葉が誰かに届かない苦しさを知っていると思っていた」

「それは……」


 素流は口を噤んだ。

 勿論、よく身に沁みている。

 胸の中がざわめいて、その揺らぎが呼吸を詰まらせる。


 どうしようもなく、瞳を逸らせなくなった。


 何故なら一翔は、こんな時に素流の過去をふざけて持ち出すような人間ではない。


 一翔の声に偽りの揺るぎもない。


 だから、彼の言葉は素流の中で急速に真実味を帯びた。


 心臓の鼓動がいやが上にも早まる。


「う、嘘……本当に、私を?」

「そうだ」

「だったらどうして今まで……その……」

「そなたと寝ないのか?」

「そっ……うですけど、そんな露骨に言われるとさすがに恥ずかしいんですけど」

「曖昧に言ってそなたに通じないと元も子もないだろう。そなたは仙人級に鈍感だからな」

「仙人級って……。え、でも鈍感……ですか、私?」

「ああ、鈍感だ」

「そうですか」


 自覚のない素流はちょっと不服に思った。


「そなたは朕の子を生んだ後はどうするつもりだ?」

「え? 普通に家族の所に帰りますよ」

「だからだ。そなたに手を出さぬのは」


 一翔は見るからに仏頂面できっぱりとそう言った。


「ええと?」

「後宮を、朕の傍を去るつもりなのだろう、だから手を出さない」

「え、と?」

「だからこういう所が鈍感だというのだっ」


 一翔は大きく息を吸い込んだ。


「――朕はそなたをここから去らせるつもりなどない」


「ええっ!?」

「そなたを手放すなどもう無理だ」


 一翔からの思ってもみない告白とその本気の無茶ぶりを直に浴び、素流はまるで背骨に何か痺れるような強い刺激が走った気がした。


 そしてそれは決して嫌なものではなく、むしろどこか依存してしまいそうな誘惑さえあった。


(これ以上は何か駄目……っ)


 彼に――楊一翔に近付いてはいけないと素流の中の真面目な自分が訴える。

 その声に従って素流は小さく一歩片足を引いた。


「この期に及んで逃げるのは許さぬ」


 一瞬だった。

 素流の怖気付くのにも似た気配を鋭くも察したのか、下がった分以上に距離を詰めた一翔から腰を抱かれ、息継ぎさえ忘れるほどの深い口付けをされた。


「――ッ!? ……ふッ……んんッッ!」


 そのついばみは執拗で、いやらしくも濃厚で、これまでの清さが嘘のようだった。


「……ぁふっ」


 完全に息の上がった素流の腰が砕けそうになった所で、同じく呼吸を乱した一翔が顔を離し、二人は至近で見つめ合う。

 どうしてとびっくりはしたが、嫌悪も拒絶も湧かなかった。

 頬がこの上ない熱を持っている。

 体中の血が沸騰した蜂蜜にでもなったみたいだった。

 今も新たに生じる熱と胸の苦しさと悶えそうになる甘さに、瞳がついつい潤んでしまう。

 一翔がふっと両目を細めて自身の唇を嘗めた。

 そんな仕種にもドキリとして更に熱が駄々上がった。


(こ、この人は~~~~っっ!)


 何か文句を言おうとしたけれど、素流には的確な抗議の言葉が思い付かなかった。後宮の池にいるこいのように口をパクパクさせて一翔を見上げるしかできないのがとても悔しい。

 そんな素流の照れと動揺を間近で感じる一翔は、瞬き一つすると余裕さえ孕んだ顔をみせた。


「こんなのは序の口だ。いつもどれだけ朕が我慢していたか、そなたは知らぬのだろうな」

「わ、私を好きだから何もしないなんて、愚か過ぎます。私だっていつもどんな覚悟でいたと思って……っ」


 気付けば責めるように一翔の胸を叩いていた。

 本当は逃げ出したかったのを堪えていた。

 いつそうなるだろうと考えれば、堪らず顔を覆いたくなった。

 でもこれは家族皆と生きるための破格の仕事だと言い聞かせ、一翔の前だったから我慢してもいたのだ。彼が相手でなかったならとっくに放り出していただろう。


「一向に手を出してくれないから、私は役立たずなのかなって悲しくなったことだってあったんですよ。それなのに……」

「されどそなたは去るのだろう?」

「……去ります。弟たちが気掛かりなんです。私はまだあの子たちの傍にいてあげなくちゃ駄目なんです」


 譲れない瞳をとくと眺め、一翔がふと何かを呟く。


「……そなたが思うほど、弟たちも子供ではないかもしれぬぞ」

「え?」

「いや、そなたの家族は朕が責任を持って面倒を見ると言っても去るのか?」

「そこまで甘えられません」

「くくっ、頑固者め」


 笑われてムッとすると、


「怒るでない。その芯の強さは好ましい。素流、好きだ」


 飾らない素直な言葉と共に吐息がまた近付いた。


「朕はもう遠慮はせぬからな」

「も、元よりお話を受けた時点でそういう覚悟は決まってます」


 くっくっと一翔は低く艶美に笑う。


「そなたはそれ以上の覚悟をした方がいい」

「それ以上……?」


 訝りにちょっと目を瞠る素流の頬を指の背で撫で、一翔は囁いた。


「素流、朕はそなたに男児は産ませない」

「えっと?」


 次は耳元で。


「そなたが産む子が女児なれば、それが続けば少なくともここに留まらせることができるな。契約では世継ぎとあるからな」

「なっ……! で、でもそれは天意ですよ、どう転ぶかわかりません」

「なれば、たとえ今宵そなたが男児を懐妊しようとも、生まれるまでは十月と十日と言うだろう、その間に朕の……俺の傍から離れたくないと思わせてやる」


 俺、と楊一翔は言った。


 それは皇帝としてではなく、一人の男として素流を求める愛の言葉だと悟れば、素流の心臓はまたもやドキリととびきり大きく跳ねた。


「じ、自信家! そそそんなこと、できるものならどうぞ!」

「言ったな? そんな赤い顔で撥ねつけられても全然余裕だがな」

「なっ……、こ、これは仕事だと割り切ってますので、私は絶対に落ちませんから!」

「ほう? その強がりもどこまで続くか見ものだな」

「陛下にそのお言葉をそっくりお返しします」

「一翔」

「え?」

「先程から陛下陛下と……二人きりの時は名前で呼べと言っただろう?」

「……つ、つい忘れるんです」


(だって何だかまだまだ気恥ずかしいしっ)


 素流の誤魔化しに、一翔は僅かに両の眼を細くした。


「ではその都度そなたの耳に朕の名を囁くとしようか」


 いつしか壁際に追い詰められ逃げ場を失くした素流は、その壁に手を突いて自分を閉じ込め、前言通り耳元に顔を寄せてくる一翔に慌てた。


「えっあのっ別に今のは名前を忘れると言ったわけではっ」

「だろうな」

「へ? ――なっ……か、揶揄からか……っ!」


 肯定の意を含み楽しそうににやりとする男を、素流は膨れっ面でめ付けた。


(こ、この人何なのよもう! 本当はこんななのーッ!?)


 真面目かと思えばこうやって素流を手玉に取るような言動をするし、俺様かと思えば酷く甘口だったりする。

 だがそれも全部自分に向けられた気持ち故と理解すれば、素流は高鳴る鼓動を抑える術を持ち得なかった。

 彼は博風を好きだと思っていたから、素流は無意識にも密かに根付いていた自分の感情に気を向けないようにしていたというのに……。

 けれどこんな風に動揺する自分を顧みれば一目瞭然。


 自覚してしまった。


 情を抱かないと思っていたこの男に触れられるだけで、きゅうっと切なくなって痺れる我が身の心臓が、赤みを帯び一向に引かない頬が憎らしい。


 夕暮れだった外はもう暗い。

 室内にはもっと灯りが必要だった。


 だが彼はそうはさせないだろう。


(うう、見えない分、他の感覚が敏感になって余計にドキドキする!)


 耳朶から優しく首筋を辿る唇をくすぐったく感じて口元をむずむずと不格好に緩めつつ、――離れたい、と素流は半ば本気で思った。


 この男から離れたくないと思い始めている自分の心がこの先覆せなくなる前に、一刻も早く。


 とうとう自分を組み敷き、愛おしそうに見下ろしてくる線の美しい青年を挑むように見上げながら、額にまぶたに頬にもっと先にと降ってくる口付けと愛撫を受ける素流は、戦線開始だと覚悟して目を閉じた。


 この閨事さえも駆け引きとなる二人の間の決着がどう付くのかは、この国の誰も、本人たちでさえ、まだ知らない。

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