兄:連休とは

 千早の話が出たから、何か訊かれるかとは身構えてた。

 高山が、千早と俺を会わせたいんだろうってことも透けて見えてる。頑なになる方が不自然だってのも解ってる。だけど、あいつらと友達の仮面を被って付き合うような真似はしたくない。したくないのに、求められればいくらでも出来そうな今の自分が嫌だった。

 何か言いたそうな、そんな目でしばらく黙っていた朋生はどこから行き着いたのか、一番訊き辛いだろう質問をストレートに口に乗せた。


「……以前のお兄は、千早さんのことが好きだったの?」


 昨夜思い出していた過去を、朋生も一緒に見ていたのかと一瞬錯覚する。

 責めるでも、問い詰めるでもない、淡々とした言葉は、それが“変わった”ところなのかと訊いている。


「誰が、そんなことを?」

「高山さん」


 高山、が。

 病室の『まずい』って顔は、そっちの……

 今でもそうなんじゃないのかと、高山の声が頭の奥に囁く。


「そんなこと、ない。……ごちそうさま」


 逃げ出すように立ち上がり、食器をシンクに下げる。

 高山は気付いていた? だから、言い訳をさせろなんて。どちらにしても、言い訳なんていらない。俺は、自分の気持ちに気付いてさえいなかった。


「あたしに誤魔化さなくてもいいじゃん……」


 朋生の声に棘が混じる。受け答えに齟齬があったと気付いて、「違う」と口にしかけたけど、続く千早が今はフリーだという発言に引っかかる。

 朋生は自分がそうだったように、惹かれていた人間に会うことで“心”が戻ってくると思っているのか。俺が、千早を好きだった気持ちが戻ってくると?

 新しい彼女の目の前で、あいつに惹かれていたことをように? それで、フリーな千早となら付き合えるだろうって?

 シンクの縁に乗せた手に、変な力が入った。


「――俺も一緒だと思うな」


 腹の底で何かがぐるりと蠢いていた。怒りに似ている、怒りじゃないもの。

 朋生。“何か”は戻ってるんだ。これは、見極めたくないものだけど。

 俺は代わりにシンクの中の茶碗を睨みつける。白地に、濃い青の細い縦縞模様。線と線の間に何も見えないことを確認するかのように。

 

 あいつはきっかけをくれただけだと、朋生は食器を持って隣に立った。「ごめん」と謝る声に、茶碗から視線を外して彼女を見下ろす。謝ってほしかった訳じゃない。朋生が俺も戻したがっているのは知ってる。努力もしてないのは、俺の方だ。


「お義姉ねえさんになるなら、ああいう人がいいなって」


 朋生の中では未来が見えてる。俺よりもだいぶ現実的に。

 その未来では、朋生はもう結婚してるんじゃないのか。俺より後になるとは思えない。朋生が誰かに嫁いだ後、俺は――どうするんだろう……


 そのまま、洗い物を手伝っても良かった。

 でも、なんだか、隣に並んでいたら、余計なことをしでかしそうで、自分の役割を思い出すためにも口に出す。


「……俺はだけで手一杯だ」


 家事も手伝わない兄貴は、さっさと部屋に退散して――ままならない感覚を、肺の奥から細々と吐き出した。



 * * *



 大型連休も始まろうという週末、朋生が冷蔵庫に貼ってあるシフト表の前で難しい顔をしていた。


「……お兄、全然連休じゃないんだけど」


 不満気に口を尖らせても、間の平日まで休みになって、十連休とか十一連休とか言ってる奴等とは違う。


「非番と休みが続いてるとこがあるだろ」

「だって、非番は……たまに、二日連続で休みだったりするじゃん。それがこの平日のとこだったら良かったのに」

「それは言えるな。平日出勤は休日手当がつかうまみがない」

「そうじゃなーくーてー」


 はぁって大袈裟に溜息をついて、朋生は恨めしそうにこちらを見ながら、ソファで薄めのハードカバーの本を開いている俺の隣に腰掛けた。


「温泉でも行こうかと思ったのに」

「今からじゃ取れないだろ?」

「日帰りだよ。一泊にするなら二部屋とるんだろうし……そうしたら一人で行くのと変わらないし。ドライブがてら、砂湯すなゆ川湯かわゆならいいかなって」

「……? 別に、それなら一日あればいいだろ」

「お兄、運転代わってくれないし! せっかく温泉入るのに、ずっと運転してたら疲れ取れないじゃん。だから、次の日も休みの方がいいかなって……」


 ぼふっと音を立てて背もたれに寄りかかり、そのまま天井を見上げている。

 朋生の運転なんて、怖くて隣に座ってられない。


「別に、運転は苦じゃない。風呂上りに仮眠時間くれるなら、非番の日に行ってもいい」

「ホント?!」


 ぱっと明るくなった顔がこちらを向く。


「どこか行こうって言ったらいつも渋るのに! 言質取ったから! 気が変わらないうちにカレンダーに予定書きこんじゃうからね!」

「温泉なら久しぶりに行きたい」


 ばたばたとカレンダーまで駆け寄って、その日に大きな花丸をつけてる。

 日勤だけじゃなくなったから、朋生との休みの兼ね合いも悪くなって、出掛けることも激減していた。朋生も非番の日は悪いと思うのか、誘われる回数も減って、断らずとも近所のスーパーくらいにしか行ってない。

 友達は友達で色々忙しいようで、今は彼氏もいないから、俺が通勤に車を使ってしまうと朋生ひとりではなかなか動けないのが現状だった。大型連休中にどこにも行けないというのは、俺でもさすがにちょっと可哀相かなと思うというものだ。

 温泉ならほぼ別行動でいられるし、温泉地のある弟子屈てしかが町までは車で一時間半程度。悪くない提案だった。


「お昼何にしよ。温泉もどこか調べなきゃ」


 うきうきとソファに戻ってきて、スマホを取り出す朋生。画面に走らせる指先もどこか楽しそうで、ここ最近浮かない顔ばかりしていたのが嘘のようだ。現金だな、と思うと同時に少しほっとしている自分に気付く。他人の機嫌なんて、どうでもよかったのに。

 煩わしいものならまた押し込めたのだろうが、そういう感じでもなかったので、まあいいかと本に意識を戻して文字を目で追う。ほどなくして朋生がよっと身体を寄せ、スマホを本の上に差し出した。


「ここは?」

「……いいんじゃないか」

「って、思うでしょ。こっちもねぇ……」


 一旦スマホを引いて、違う画面に変えると、再び差し出す。


「お昼付きなんだって」

「……へぇ」


 というやりとりをその後数回繰り返して、文字を追えなくなった俺は、差し出されそうになるスマホを手で押しとどめた。


「わかった。どこでもいいから、決まったら教えてくれ」


 そのまま立ち上がって部屋へ避難する。

 前言撤回。どっちにしたって、煩わしいに変わりはない。

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