兄:告げたくない名前
水滴をおざなりにはらって郵便受けを覗いた朋生は、嬉しそうに白い封筒を取り出した。
彼女の友達同士が結婚するらしい。片方は彼女が記憶を取り戻すきっかけとなった人物だ。その場に居合わせたから、顔は知ってる。
テーブルに封筒を置いてさっさと着替えると、朋生は晩飯の支度を始めた。といっても、今日は出来合いのものを温めてもう一品作るくらいだが。食器を並べるくらいは手伝わないとうるさいので、言われる前に動く。濡れたから、風呂も洗っておこうか。
* * *
「連休の前の週だよ」
片付けが終わった後、返信を書きながら朋生が言った。
何のことか分からずに、風呂に入ろうと移動しかけた身体を止める。
「何?」
「式」
「ああ。行けばいい」
「一緒に、行くんだよ」
「は?」
呆れたような視線に、何故そんな目で見られるのか解らない。俺の友人じゃない。そいつらは、俺が朋生の本当の兄じゃないと知ってる。
「なんで、俺が」
「是非、ご一緒にって」
「社交辞令だろ」
「あたしに社交辞令言う意味が解らないけど。お兄も関係者だからね。っていうか、実は
何がおかしいのか、あははと笑う。
「旦那の方は、違うんじゃないか」
「
何で、俺が、あいつを安心させなきゃいけないんだ。
顔に出たんだろう、朋生がちょっと困った顔をした。
「一緒に行ってくれれば、ご飯の心配もないし」
「……勝手にしろ」
「いや、勝手に連れてくのって無理だし。髪、それまでに揃うかなぁ」
つと伸ばされる手を避ける。
それまで脱色していたような色の髪は夏以降普通に伸び始めて、金に近かった茶の部分をどんどん押し出している。染めるのも面倒で、伸びたら切るくらいにしていたのだが、まだ毛先と前髪は半分くらい茶色い。
「さあな。みっともないから、置いていけばいい」
「やだって。その時は前の日に染めればいいか」
ふぅ、と一息ついて朋生はまた招待状に向かい合った。
風呂に浸かると、あの時のことがフラッシュバックした。
「
あいつは、朋生のいない間に別の友人を彼女にしたくせに、思い出させてどうするつもりだったのか。また朋生の心が壊れたり、失くなったりする可能性だってあったのに。
だから自分はあの男が気に食わない。例え、全てが上手く回っているのだとしても、自分の仕事を邪魔された上に、朋生の心にまだ悪い影響を及ぼすかもしれないあの男を、祝ってやりたくなどない。
どうせなら、あの女と別れて朋生と生きてくれれば良かったのに。そうすれば、俺も――
俺も?
俺も、自由に出来たのに?
自分で思ったことがしっくりこなくて、俺はお湯をすくって顔を擦った。
――今が、嫌なわけじゃない。悔しいけれど、朋生との生活はそれなりに馴染んでる。でもそれは本来無かったはずの生活だ。朋生が心を取り戻したら、俺は彼女の前から速やかに消えるはずだった。事故に遭うのか、海外に行ったっきりになるのか……そんな感じで。
朋生が全てを思い出したのに、以前の生活に戻してやれない責は俺にもある。上手く、導けなかった俺にも。
だから、その分も彼女は幸せになるべきだ。
それを見届けるまでは……こんな俺でも、いなくなると困ると言ってくれる彼女を誰かに託すまでは……兄を演じ続けるくらい、しなければいけないのかもしれない。
「お兄? 寝てる?」
ドア越しに朋生の気配。
「……いや。もう、上がる」
「上がったら、名前書いてほしいんだけど。同伴者のとこ。教えてくれれば、自分で書くんだけど……」
小さく舌を打って、勢いよく立ち上がり、ドアを少し開けた。
「わ。ちょ……テーブルに置いとくから、頼んだからね!」
慌てて踵を返して洗面所を出ていく朋生を確認してから、風呂を出る。
スウェットに着替えて居間に戻ると、腕をがっしりと捕まれた。
「書いてよ? 聞かないから」
「……わかった」
ボールペンを渡されて、渋々返事をすると、ようやく朋生は離れていった。
名前なんて別に秘密にしなきゃいけない訳じゃない。自分でも解らない。どうして朋生に教えたくないのか。ここまで教えなくてもどうにかなったから、今更気まずいだけなのかもしれない。朋生も無理に聞き出そうとはしないから、そこに甘えてるんだろう。
イラスト付きのお祝いの言葉は華やかでキラキラしてる。
本心だろうか。恋までいかなくとも、心を寄せかけた相手の結婚を本当に喜べているのだろうか。本当はまだ辛いから、それで一緒になんて……
俺じゃない方がいい気はすれど、本人の指名もある。
そのまま、空欄にしておくことも出来たのだが、シャワーの音を聞きながら、結局俺は名前を書いた。ひとつの、要望と共に。
「お兄、書いてくれた?」
ノックと共に自室のドアが開けられる。鍵がかかってるなんて微塵も疑ってない。こうやって開けられるたびに次はかけといてやろうと思うのだが、一度も実行に移せずにいる。
まだ濡れている髪をバスタオルでわしわしと拭きながら、疑いの眼差しを向けている朋生に軽く溜息をつく。
「書いた。明日出しておくから、心配するな」
「スケジュールも空けておいてよ?」
「わかって……あ。来月から配置換えになったから、勤務体制変わる」
「そうなの?」
「夜勤が入るから、帰ってこない日ができる。シフト出たら教える」
「了解」
仕事については朋生がどうこう言うこともない。ただ、遅くなる時に連絡を入れてないと起きて待っていたりする。帰ってこないんじゃないかと思うらしい。
問題がなければ今まで通りと決めたのだから、それを違えるつもりはないのに、その辺の信用は無いようだ。
明かりの無い家に帰るのに慣れていたから、そこに誰か待っていると不思議な気分になる。こんなことがいつまでも続くはずがない。そう思っていても、
それで大丈夫だろうか。
それに慣れても、いいんだろうか……
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