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妹:ラッキーデイ
「大空くん、なんだか機嫌がいいねぇ。いいことでもあったかな?」
定年間近の事務長さんが、コーヒーメーカーの豆を入れ替えているあたしに声をかけてきた。もう先が見えてるからか、全く毒気の無い人で、あたしとしては辞めてほしくなんかないんだけど。
「え? そ、そうですか? いえ、特には……」
えへへ、と誤魔化し笑いをすると、事務長さんもふふふと笑っただけでそれ以上突っ込まれなかった。プラスチックのカップにコーヒーを注ぐとそのまま戻って行く。
別れた彼は部屋が別だから、こんなやりとりを見られることもないんだけど、なんだか誤解を招きそうだからちょっと気を引き締めなくちゃ。両頬を軽くぺちぺちと叩いて緩んだ顔を引き締める。
思った以上に朝のアレが効いているってことは自覚してる。
昨日の慰めの延長なのか、晩御飯を用意してたことを労ってくれたのか、分からないけど、お兄ちゃんの“よしよし”は想像以上に気持ちを軽くした。
多分、気まぐれで、もう一度って迫ってもやってくれないんだろう。
って、いうか、きっと自発的にやってくれたのが嬉しいんだ。あの、お兄ちゃんが!
また顔が緩んでることに気が付いて、あたしは口元に力を入れた。
今日のコーヒーはブラックにしておこう。
周りの席の人達に今日はなんだか変な顔をしてると笑われながらも、仕事は順調に片付いていった。朝の占いは見損ねたけど、きっと上位だったに違いない。ほぼ定時で上がれて、ビルの出口まで来た時、予報に無かった雨に気が付いた。
幸運もここまでか、と何気なくスマホをチェックしたら、お兄ちゃんからトークが入ってる。
――早く終わった。迎えに行くか?
五分前だ! すごい! 本当に今日はツイてる!
ほっくほくでお願いして、外が見える位置で壁に背中を預けた。
あたしも免許を取ったけど、車をもう一台買う余裕はなかった。正確に言うと、お兄ちゃんの貯金なら買えた。でも断った。他人だということを思い出してしまったら、そこまで甘える気にはなれなかったから。買うなら、自分で貯めてからだ。朝は一緒に乗せてってくれるし、帰りは歩いて歩けない距離でもない。バスがある時は乗るし、こんな天気ならタクシーを捕まえることもある。つい昨日までは、彼氏に乗せてもらったりもしてた。
また、送ってくれる彼氏を探してもいいかもしれない。
そんな都合のいいことを考えたせいか、出口で一旦立ち止まって空を見上げる人の中に昨日別れたアイツも見つけてしまった。視線を感じたのか、そいつがこちらを向く。気まずい。
目が合ってしまったから、軽く会釈して視線を外した。そのままじっと見られているのが分かってそわそわする。
そいつがこちらに一歩踏み出しかけた時、ビルの前に黒のWRXが止まった。ほんっとに、今日はついてるかも。お兄ちゃんに感謝しながら、強くなってきた雨の中に駆け出す。
絡みつく視線を、お兄ちゃんの一瞥が断ち切ってくれた気がして、助手席でほっと息をついた。
「助かった〜。折り畳みも入ってなかったんだ」
「運が良かったな」
いつもの調子で後方確認しながら言うお兄ちゃんにうんうんと頷く。春近いとはいえ、いつ雪になってもおかしくない気温だ。凍結した道路が融け始める季節、がっちがちに凍った道路より実は滑って危ない。スポーツカー形無しだけど、お兄ちゃんの運転は安全第一。それが、あたしが隣に乗ってるからじゃないかって最近思う。
あたしに“心”が戻ったら姿を消すはずだったお兄ちゃんに誘惑は多いはず。少し走れば飛ばしたくなる道も峠も海もある。スピードの出し過ぎで……なんてニュースはうんざりするほどあるのだ。会社帰りに、休日に、お兄ちゃんは行こうと思えばいつでも行ける。それを踏み止まらせるだけの理由をあたしは提供できているのか、時々不安になる。
べったりぶら下がるだけの重荷にはなりたくない。匙加減は、難しい。
仕事から帰って、家に明かりがついていると安心する。お兄ちゃんも、そうであってほしい。
あたしが車を買わない理由はそこにもあるのかもしれない。
「あ。招待状来てるー!」
駐車場からアパートの玄関まで少しの距離を走って、雨をはらいながら覗き込んだ郵便受けには
さて、何を着ていこう。週末は買物かなぁ。
* * *
そんなホクホク気分は次の日、木端微塵に壊された。いいことばかり続かないのは世の常だけど。
昼休み、お昼を食べ終えて給湯室で弁当箱を軽く濯いでいたら、外に食べに出ていた先輩が通りがかりに渋い顔で耳打ちしてきた。
「大空さん、彼と別れたの? 二股かけられてたって、騒いでるみたいよ」
はぁ? と、うっかり声に出て、咳払いひとつ。
「別れたのは、別れましたけど……二股なんて、身に覚えは……」
「派手なスポーツカーに乗った男が迎えに来て、馬鹿にしたように笑われたって」
深く深く、溜息が出た。
あれが派手というのか知らないが、確かにスポーツカーだし、彼の方を見ていたのも確かだけど、彼を見たのかは分からないし、恐らく笑ってもいない。彼がお兄ちゃんの口角を上げさせたというのなら、あたしは喜んで彼をお兄ちゃんと会わせるだろう。それが、皮肉った笑顔だったとしても。そのくらいお兄ちゃんの笑顔は貴重なんだ。
「迎えに来たのは、兄ですけどねー」
「ああ! 二人で住んでるって言ってたもんね」
「たまたま早く終わったからって、連絡くれたんです。暗かったし、笑われたっていうのも勘違いかと。兄、彼のこと知りませんし」
「朝は一緒に来てるんだっけ」
「です。少し離れたとこで降ろしてもらうし、時間も早いので、知らない人は知らないかもですが」
隠してる訳でもないけど、言って回るような事じゃない。
「昨日の今日だから私もびっくりしたのよ。とても別れたようには見えなかったから」
「……ちょっと、別の嬉しいことがあったのはあったので……」
浮かれすぎてた昨日の自分を殴りに行きたい。
「そうかー。しばらく周りの目は鬱陶しいかもしれないけど、訂正できる場面では訂正しとくね」
「すみません。ありがとうございます」
「向こうも別れる度に騒いでるみたいだから、分かってる人は分かってると思うけどね」
同情の眼差しを向けながら、先輩はひらひらと手を振った。こういうのの面倒臭いところはいちいち訂正して回れないところだ。面と向かって言ってくれればいいのに、なんで周りに吹聴するかな? 別れて正解だと思うと同時に、しばらくは社内恋愛も無理だなと悟りを開く。
人の世は面倒臭い。今だけ、お兄ちゃんに全面同意する!
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