兄:後悔先に立たず
やめておけばよかった。
うたた寝から起きた直後だったのと、腹が空いてるからかいつもより感情的だった。
朋生の呆れたような眼差しを思い出して、また舌打ちしてしまう。
こういう時、嫌でも自分に『心』が戻りつつあるのだと自覚させられる。
少し前まで人の世で空っぽになった自分を持て余して、この世とあの世の境みたいなところに迷い込んでた。そこでは何も考えなくても良かったから、正直そちらに戻りたい気持ちもまだある。……多分、ある。
引き止めたのは朋生だ。だが、選んだのは自分。
記憶を失くしていたとはいえ、無邪気に兄と慕ってくる朋生が作る食事は、味も必要性も感じなくなっていた自分に変化をもたらすのに充分な役割を担っていた。
インスタ映えするようなものじゃない。普通の、なんなら手抜きの、家庭料理が。
“事故に遭った妹の健康を気遣う兄”は演じやすい役割だった。それを、じゃあ、あなたもと当然のように返されるのは、俺が失くした心を丁寧に拾い集めているようにも感じて。
勝手に、感じて……
記憶が戻っても、朋生はほとんど変わらない。どころか、拾い集めたものを俺に差し出してくる。押し付けがましくないように、少しずつ。次はこれ、あれはどうかなって、まるでパズルでも楽しんでるみたいに。
赤の他人だと分かったのに何故と戸惑う。
……いや。知っていたはずだ。朋生は簡単に情に流される。そこは不器用なくせに、器用な振りをして心を拗らせた。
まだ必要だと言われて、すがりつかれた腕を振りほどけなかった。
人の世になんて、戻りたくなかったはずなのに。
上手くやれないことがもどかしい。今更兄にもなりきれず、家では同居人以上に振舞わないようにしてるのに、朋生は変わらず“兄”を要求する。それは恋人を要求されるのより難しい。
恋人なら、心が伴わなくともそれなりに演じられるのに。世の中には小説も映画も溢れている。自分にだって経験はあったはずだ。手本には事欠かない。
それを見透かしているからか、朋生は外に恋人を作る……努力をしている。まだ長く続いたことはない。
今日もデートだったはずで、もっと遅く帰ってくると思ってた。
どんな気分だったかと恋愛小説を開いてみたけれど、俺にはやっぱり思い出せなくて。
恋人と別れた妹の慰め方なんてもっと分からない。面倒になって、寝落ちる前に読んでいた本のワンシーンを真似して“慰めのキス”を実践してみれば、冷たく見返されるだけで成果はない。怒って出ていくわけでもない。
本では頬に流れた涙を吸い取るようにしていたけど、引き寄せるのに勢い余ったから、妙な位置になった。
うっかり普通にキスすることにならなくて良かったのかもしれない。
いくら俺でも、それはやりすぎだと分かる。
朋生の言うように頭を撫でてやればそれで済んだことだったんだろう。でも、そうしたくなかった。あのまま、頭を撫でたりなんかしたら自分が変わってしまいそうで。“兄”になるのもそれ以外になるのも、その時は何故か嫌だったのだ。
* * *
「あっ、お兄、
朝食と弁当を一緒に作りながら、朋生が冷蔵庫を開けて何か言ってる。昨夜のことも何事もなかったかのようにいつもの朝だ。こういう時、彼女の大らかさに助けられているのだと少し反省する。
「食べて……ないな」
「もうっ! 冷蔵庫にあるからって言わなかった?」
「聞いてない」
「えー。言ったような気がしたんだけど……ま、いいや。じゃあ、これ食べて」
手にした皿をレンジに突っ込んで、ボタン操作する彼女の傍に立つ。
わざわざ作ってあったのか。ひとりだと買って食べることもしないと知ってるから……
「冷蔵庫さえも開けないって、どんだけ亭主関白なの?」
腕を組んでぶつぶつと呆れ声で呟くその頭を、俺は無言でそっと撫でた。まだ櫛も通されてない癖のある髪は柔らかいけど、少し絡んでいる。
驚いて見開かれた瞳が俺を見上げた。
「……今?!」
続けて何か言おうとした朋生を電子音が遮る。仕方なさそうに温まった皿を俺に押し付けて、彼女は弁当作りに戻って行った。
鼻歌なんか歌いだしたから、機嫌は良くなったのかもしれない。
ラップを外すと小振りのハンバーグが二つじゅうじゅういってて、付け合わせのキャベツもしんなりしてる。ソースがいるなとまた立ち上がったら、フライパンを持った朋生とすれ違った。中の目玉焼きはハンバーグの上に適当に乗せられる。別皿とか、考えないらしい。
自分で作る気のない俺は文句の言える立場にないから言わないが、その大雑把なところはもう少し直すか隠さないと貰い手は少ないかもしれない。
……まぁ、朋生なら貰われるなんて言わないで、自分から押しかけて行く気もする。
料理の腕は悪くないんだ。褒めたことなんて、一度もないけど。
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