兄:目覚めると
車を降りた朋生が、自分を抱え込むようにして両腕をさすっている。
厚手のパーカーを着てはいるが、ショートパンツでは寒いんじゃないだろうか。
もちろん、素足じゃなくて、タイツみたいなものをもう一枚穿いているのは見て分かるのだが。
後部座席に放り投げてた上着を掴んで朋生を追いかけ、着てろと肩にかけてやる。山の上の空気は冷やりとしていて、展望台へと向かう道にも、まだ所々に雪が残っていた。
朋生が上着に袖を通してしまうと、ちょうどショートパンツが隠れる長さになってしまった。何も穿いていない訳じゃないのに、なんとなく気になって目線が行ってしまう。下りてきた男が朋生とすれ違ってから、ちらりと振り返った。
視線を遮るように前に出たところで、朋生が雪に足をとられて転びそうになる。
「馬鹿」
咄嗟に腕を取り、引き上げる。
上着を汚されたくないからと、そのまま朋生の腕を掴んでいた。
子供扱いされたと思ったのか、朋生は少し項垂れていたけれど、視界が開けると顔も上がった。湖の深い青色にうっとりと見惚れて、しばらくの間は、俺が隣にいるのも忘れているようだった。
ようやく口を開いたと思えば、「晴れた摩周湖を見ると婚期が遅れる」なんてジンクスの話。俺が知ってるのは「出世できない」というやつだけど、どちらも神秘的と言われている湖を目の前にしてするには縁起でもない話だ。別に、出世欲がある訳ではないのだが。
なんとなく顔を見合わせた後、朋生は「まあ、いいか」なんて言って、後ろポケットからスマホを取り出した。足を止めてからも、まだ彼女の腕を掴んでいたことに気付いて、そこでそっと手を離す。
よくなんかない。
朋生がいつまでも俺と暮らしていたら……
「……いつまでも面倒は見ないぞ。出世できないなら、なおさら」
遺産があったから、ほんの一年、二年のつもりで荒く使ってきたけど、少し考え直さないといけないかもしれない。
朋生が心配そうに「もう少し渡す?」なんて言ってるけど、そうじゃない。朋生はどちらかというと倹約家で、お金の使い方もきちんとしてる。
だけど、この生活が長く続くことになるなら、今までのように払ってやれない自分が、きっと嫌になる。兄らしいことが、そんなことでしか出来ないから。『兄』を望まれてるのに、できないなんて。
だから。朋生の婚期は遅れてはいけないし、その日のために、俺は少しでも出世したほうがいい。
「いらないから、早めにどうにかしろ」
「どうにかって……お兄が結婚したっていいんだけど」
「無理だ」
無理だ。左手に朋生の体温が残っている。
高山に言われたからというわけでもないが、俺が朋生を“妹”として見ていないのは気付いてる。
と、いうか、初めからそうだった。妹だなんて思ったことはない。兄を演じていただけ。すぐに他人に戻るはずだからと。それが……
今のこれは“兄”ではない。兄としての演技で振る舞ってる訳じゃない。
何をやってるんだ。
俺は兄でなければいけないのに。
晴れ渡った湖も、朋生も見ていられなくて、俺は駐車場へと戻り始めた。
半ばほどで、後ろから駆け寄る足音が聞こえてくる。また足を滑らせでもしないかと、歩を緩めてふり返りかけたところで、背中に軽い衝撃を受けた。
両肩に手を置かれて、朋生に飛び付かれたようだ。背中がじわりと温かくなる。
「やっぱり寒いんでしょ? ほら、返すよ。温泉でゆっくり暖まりなね」
俺が貸してやった上着を、俺がしたように肩にかけた後、一瞬だけ手を引いて、するりと朋生は前に出る。
「手も冷えてる! 風邪ひかないでよ?」
そのまま車まで駆けて行って、一度振り返ると、助手席に乗り込んだ。
引かれた指先に、少しだけ視線を落とす。すり抜けていった温もりを、俺は捕まえたかっただろうか。
兄になりたいのか、違うものになりたいのかさえ、今の自分ではよく判らない。
分かるのは……もう、全くの他人には戻れないんだろうということだけ――
* * *
グネグネとした峠道を下りて、目当てのホテルへと到着する。
途中うとうとしては、ぷるぷると頭を振って目をこじ開けてた朋生は、外に出ると大きく伸びをした。
寝てもいいぞって言ったのに、聞きやしないんだから。
シャンプーやらボディソープやら入ったカゴと、バスタオルを押し付けられて、休憩所の場所を確認したら、朋生は足取りも軽く女湯の暖簾を潜って行く。その姿を見送ってから、ゆっくりと男湯に向かった。
どれだけ時間をかけても、俺の方が先に上がるだろう。
広い浴槽は余裕があるけれど、洗い場はそこそこ混んでいる。冷えた身体にぴりっと熱い湯が心地良くて、しばらくの間何も考えずにただただ身を浸していた。
露天の岩風呂も堪能してから休憩室へと向かったが、案の定朋生はまだいない。
少し広いスペースを探して、座布団を二つ折りにして枕代わりにする。横になると、心地いい疲れと火照った体が、すぐに眠気を連れてきた。
遠くに、アラーム音とバイブの振動が聞こえた気がした。
同時に顔の上を人の気配が横切った気がして、目を開くより先に手が動いた。
何かを捕まえて、それからそれを確認する。
女性。少し驚いていて、困ったような表情を浮かべてる。柔らかな髪から、シャンプーの匂いが零れ落ちてきた。
「お兄、アラーム止めないと」
そう言われて、それが朋生で、座布団枕の下に半分埋もれている俺のスマホのアラームを止めようと、反対側から身を乗り出したところだと気付いた。伸ばした手を掴んでしまったので、身動きが取れなくなったようだ。
しばらくそのまま、朋生の顔を黙って眺めていた。
「お兄? 寝惚けてる? ちょっと……辛いんですけど。盗もうとか思ってないから、放し、て」
体勢を戻そうと引込められそうになる腕を、俺は反射的に引いていた。
ぎょっとした顔が一瞬だけ見えて、朋生が俺の上に落ちてくる。ちゃんと受け止めてから、彼女ごと転がって、ぐるりと体の位置を入れ替えた。
身体を起こすと、ようやく現実感が戻ってきた。手を離してスマホを探り当て、アラームを止める。
呆然と俺を見上げている朋生に、ちょっと肩を竦めてみせた。
「すまん。寝惚けてた」
「も、もう! 何だと思ったの?」
起き上がりつつ、乱れた髪を手櫛で直す朋生に、なんて言おうか少し考える。
「泥棒?」
「目ぇ開けてあたしのこと見たじゃん」
「だから、寝惚けてたんだって」
窓の外に視線を逸らして、そういうことにしてしまう。空には夜の気配が漂い始めていた。
初めは確かにそう思って体が反応したんだ。朋生だと分かったら、もう少し眺めていたくなっただけで……
気付かれないように、そっと息を吐く。
おかしくない。妹を驚かせて楽しむ兄は、きっとこんな感じだ。
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