10
妹:熱に浮かされて
休憩室に入ると、お兄ちゃんはもうぐっすりと眠りこんでいた。
傍に行っても目を覚ます気配はない。
疲れてたんだなぁ、とちょっと申し訳ない気持ちになって、押しつけられたテーブルに向かって座り、スマホで時間を潰す。
そのうちに目が疲れてきて、あたしもテーブルの上に突っ伏した。
少し眠っていたようで、冷たい風を感じて目が覚める。と同時に、身体がぶるりと震えた。誰かが窓を細く開けて、そのままにしていったらしい。空には夕陽の色を映したグレーの雲が絵画のように連なっていて、差し込む外の空気は冷え込み始めていた。
そっと窓を閉めたら、小さ目の音量でどこかでアラームが鳴り始めた。
きっとお兄ちゃんのだと、音源を探す。
よく見ると、枕代わりの座布団の端からお兄ちゃんのスマホが覗いていて、小さく規則的に震えていた。お兄ちゃんが起きる気配はなく、でも、アラームをかけていたのだから、もう起きるつもりだったのだろう。膝をついて、お兄ちゃんの向こう側へと手を伸ばす。アラームを止めてしまって、もう少し寝かせておいてあげるつもりだった。
不意に、伸ばした手を掴まれる。
閉じていた瞳がゆっくりと開いて、色違いの瞳があたしを見た。
ぼんやりとしていたそれは、焦点を合わせてじっとあたしを観察する。
掴まれた腕に、なんとなく涼と園子の結婚式の時を思い出して、寝惚けて仕事モードになってるんだったらヤダなと焦り始める。
「お兄? 寝惚けてる? ちょっと……辛いんですけど。盗もうとか思ってないから、放し、て」
前傾姿勢が辛くなってきて、身体を戻そうとしたら逆に腕を引っ張られた。
投げられる!
咄嗟にそう思ったけど、お兄ちゃんの上に落ちた身体に腕を回され、え。と思う間もなく視界がぐるりと回転した。
密着した身体はすぐに離され、何事も無かったかのように、お兄ちゃんはスマホのアラームを止める。
「すまん。寝惚けてた」
全然すまないと思ってなさそうな声と態度。泥棒だと思ったみたいなこと言ってるけど、目がちょっと笑ってる。驚かそうとでもしたんだろうか。
どきどきが治まらない。
それを誤魔化すように、いつまでも髪を整え続けているあたしからわざとらしく視線を外して、暮れていく空を見上げ、小さく息を吐くお兄ちゃん。
明るいうちに帰りたかったのかもしれない。
「あたし、運転してこうか?」
「いい」
短く言うと、お兄ちゃんはてきぱきと帰り支度を始めた。
* * *
次の日はのんびり過ごすことにして、お兄ちゃんを放っておく。洗濯して掃除して、夜は冷蔵庫整理も兼ねて作れるものを考える。明日、ウィンドウショッピングのついでに、ひとりで買物に行こう。
洗濯物を畳みながら、効率のいい店の回り方を考えていたら、くしゃみがひとつ。ふたつ、みっつ。
たらりと鼻水の気配も感じて、慌ててティッシュを取りに立ち上がった。
埃かな? なんて思っていたのも束の間、だんだん鼻水の出る間隔が短くなってくる。風邪ひいたんだと自覚したのは、夕方になってからだった。
「……朋生?」
部屋から出て来たお兄ちゃんが、マスクして包丁を握っているあたしに怪訝な顔をする。
「鼻水、止まんなくて。詰めてるの隠してるだけ」
「風邪か? 飯、何か買ってくるか?」
「薬あった気がするし、鼻水だけだから大丈夫。ちゃんと手も消毒したし!」
ご飯を食べて、薬を飲んだら早々に部屋に引っ込むことにした。普通に仕事のあるお兄ちゃんに、うつすわけにはいかない。お兄ちゃんも、洗いものはやっとくからって言ってくれたので、甘えることにする。
パソコン開いたりしてたけど、薬が効いて眠くなってきたので、おとなしく早めにベッドへと潜り込んだ。
――朝。
鼻の調子は昨日より良くなっているものの、体が怠い。
自分を誤魔化しつつ、朝食とお弁当を作ってしまう。
テーブルについたものの、箸の進まないあたしにお兄ちゃんは眉を寄せた。
掌が近付いてきて、額と首筋に当てられる。
「高くはないが……少しあるな」
連休中だし、近所の病院はやってない。
「どうせ休みだし、寝てるよ」
「何かあったら……友達でも、千早、でも、連絡して使え」
「大丈夫だって」
仕方なさそうに千早さんの名前を出すお兄ちゃんが、何だか可笑しくて笑ってしまう。
出ていく時に玄関まで見送ろうとしたら、怖い顔で寝てろと言われた。
はいはいと頷いたけど、冷蔵庫には何もない。お兄ちゃんの車が見えなくなってから、コンビニまで足を運んだ。
スポーツ飲料と、アイスやヨーグルトを少し。必要な物だけ買って、そそくさと帰る。
朝の残りは冷蔵庫に入れて、宣言通りベッドに入った。横になっていればさほど怠さは感じなかったので、スマホで暇を潰していたら、そのうち寝落ちてしまったようだった。
ぞくぞくとした寒さに目を覚ます。布団はちゃんとかかっているのに寒い。
まずいかもと起き上がって体温計を探した。脇に挿してスマホで時間を確認すると午後三時前。
電子音が鳴ったのでチェックすると、三十八度を超えていた。
慌てて薬箱から解熱鎮痛剤を探す。持ち上げた箱の軽さに不安を覚えて、中身を確認したけど、一回分しかない。
薬局は歩いて行くにはちょっと距離がある。
鈍くなっている頭で考えて、知り合いに声をかけてみることにした。
ベッドに戻ってスマホのトークアプリを開く。
――誰か暇じゃない?
――残念! 旅行中!
――じーさんちだわー。
――休みだったけど、仕事で呼び出されて
等々、返ってくるのは出掛けている報告ばかり。元々高校卒業後はこの街を離れてしまっていたから、こちらでの友人は多くないのだ。
諦めかけて、お兄ちゃんの言葉を思い出す。『千早、でも』。
ちょっと躊躇って、聞いてみるだけ、とメッセージを送った。
――千早さん、今日お休みですか?
しばらく反応が無くて、本当に諦めかけた頃、返信が来た。
――休み……じゃないんだけど、どうかした?
――あ、お仕事なんですね。じゃあ大丈夫です。すみませんでした!
――なになに? ご飯とかは無理だけど、聞いたら力になれるかも
どんとこい! なんてスタンプが追加される。優しいなぁ。
――……ちょっと、熱出て来ちゃって。薬の在庫切らしちゃってて、解熱剤、何か買ってきてもらえたらと思ったんですけど、お仕事中に無理は言えないので大丈夫です。一回分はあるので、なんとかします!
――え?! お兄さん、いないの? わかった。待って。届けるだけなら、浩二に行かせるから
――えっ。た、高山さん?
――玄関先に置いて、連絡入れれば顔合わせないで済むでしょ。鍵だけ開けておいてあげて。他に欲しいものあったら遠慮なく言って
悪い笑顔のスタンプに苦笑しながら、ありがたくお願いすることにする。
――スポーツ飲料何本かも、できれば
朝のうちは油断してたから、五百ミリ一本しか買ってこなかった。あれば助かる。
――了解! 転送しておくから、後は浩二と直接やりとりしてね
――ありがとうございます
ほっとしたら力が抜けた。そのまま一時間ほど寝てしまったらしい。トークアプリの着信音にびっくりして目が覚める。
高山さんだった。
――熱出たんだって? 大丈夫? なるべく急ぐけど、七時くらいになるかも。届けたらまた連絡するから、それまで寝てて
『ありがとうございます』と返して、まだ治まらない寒気に毛布を引っ張り出す。トイレに行ったついでに玄関の鍵を開けた。
身体を起こしているとふわふわする。
よろよろとベッドに戻って、また布団をひっかぶった。
次に目が覚めたのは暑さを感じてから。
どうやら熱が上がりきったみたいなので、薬を飲んでおこうと起き上がったら世界が大きく歪んだ、気がした。あちこち手をつきながら身体を支え、冷蔵庫に向かう。
朝少し食べたきり、ほとんど口にしていない。スポーツ飲料とヨーグルトを出して椅子に座った。
食欲はないけど、冷たいヨーグルトは口当たりが良くて半分くらい食べられた。残りはラップをして冷蔵庫に戻し、解熱剤をスポーツ飲料で流し込む。
外は暗くなっていて、時計を見ると六時を過ぎたところだった。
凍らせていたジェル状の枕を持ってベッドに倒れ込むように戻り、体温を測る。三十九度を越えていた。
ふぅ、と息を吐き、目を瞑る。
ひとりは、心細かった。
うとうとしていると、チャイムが鳴って玄関の開く音がした。
一瞬、お兄ちゃん、と思いかけて高山さんが来るのを思い出す。がさがさとビニール袋の音が静かになると、またドアの開く音がして誰かが出て行った。
トークアプリの着信音が響く。
寝返りを打って、スマホに手を伸ばす。動いたら気持ち悪くなって、画面を確認しながら口元に手を当てた。
「ありがとうございます」の最初の三文字だけ打ったところで、吐き気が酷くなった。駄目だ、とベッドから降りる。這うようにして玄関まで移動した所で動けなくなった。トイレはそこなのに。動くと吐いてしまいそうで、ぐっと堪える。
そうしていたら、玄関が開いて冷たい風が髪を揺らした。反射的に、新鮮な空気を吸い込む。
「朋生ちゃん?!」
高山さんの声にも顔を上げられない。
「大丈夫? ……わ」
そっと肩に添えられた手が、驚いて一度離れる。
「だいぶ熱いよ? 動けない? ベッドに戻る?」
あたしはどうにか、トイレを指差した。冷たい空気を吸い込んだので、支えてもらえばいけそうな気がしたのだ。
高山さんは素早くトイレのドアを開けて戻ってきた。それから「少し起こすよ」と言いつつ両脇に腕を通す。ゆっくりと起こされた身体は思ったよりも力が入らなくて、一度高山さんの肩に頭を預けられる。
すっと血の気の引く感じがして、続けて胃がきゅっと縮まった。
「あ……だ…………め」
「え?」
囁くばかりの警告も、高山さんを押し返そうとした手も全然役に立たなくて。
あたしは高山さんの肩越しに今まで我慢していた物を吐き出してしまった。
「ごめ……なさ……」
「大丈夫大丈夫。気にしないで。俺も悪かった。吐き気があるってちょっと考えればわかったのに」
高山さんは背中に吐きかけられながら、あたしの背中をさすってくれて、さらにトイレで吐き切ったあたしの背中をまださすってくれてる。
ジャケットはもちろん、襟足の髪の毛とか、中に着てる丸首のシャツとか……もしかしたら背中にも直接流れ込んで汚しちゃったかもしれない。
申し訳なくて深い溜息が出る。
「あの、出してスッキリしたんで、高山さんはシャワー浴びていって下さい。その辺にかかってるお兄の服、着ていいですから」
「え? あー、うん……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「タオルは洗面所の棚に。汚れた服は明日洗いますから置いといてください」
「ああ、いい、いい。さっと濯いで持って帰るよ。気にしないでゆっくり寝てて。それとも、救急行こうか?」
「たぶん、大丈夫だと……」
「薬飲んでも吐いちゃうなら意味ないし……じゃあ、シャワーも借りるし、少し様子見よう。これ以上吐くようなら連れて行くよ」
「……はい」
ふらふらしているあたしに部屋の入口まで手を貸してくれて、高山さんはシャワーに向かった。
そのままうとうとして、何か悪夢のようなものを見て、嫌な汗をかいて目が覚めた。とりあえず着替えてしまって、枕元に置いていたスポーツ飲料を口に含む。吐き気を誘発しないように一口ずつ。
人の気配が無くて、高山さんはどうしただろうと居間に出てみると、ソファでうたた寝する姿が見えた。
日付が変わってる。起こすのも忍びなくて、毛布を持ってきてそっとかけてあげた。お兄ちゃんの服を高山さんが着ているのは、なんだか不思議な気分だ。
電気も消してベッドに戻る。山は越えた感じがするけど、まだ少しふらふらする。
うとうとと熟睡できないまま、夜が明けた。
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