兄:そういうタイミング
警察関係者が引き揚げて、倉庫の片付けなんかを手伝っていると、本社からお偉いさんが何人かやってきた。
状況説明とこれからの対応――主に報道機関への――をレクチャーされ、昼飯にありつけたのは午後もかなり回ってからだった。
帰り間際、俺の弁当を覗き込んだ一人の男性が、感心したように話しかけてきた。
「自分で作ってるの?」
「いえ。妹が」
「へぇ。いい妹さんだね……って、君か」
顔を上げた俺の瞳を見て、その男性は指をさした。
面接の時に、居たような気もする。
「元、警察官だよね。即戦力だなって思った記憶がある」
「……ありがとうございます。採用していただいて、助かりました」
「もう金髪はやめたんだ。あれ。じゃあ、稼ぎのいいとこがいいって夜勤希望した人? 連休も出来るだけ仕事入れてくれって無茶言うって噂が……給料増やしたいなら、研修でも行ってキャリアアップ目指してみる? 急遽空きが出来てさ……考える時間はあんまりないんだけど」
ポケットを探って名刺を取り出すと、その男性は裏に明日の日付と『13:00〜』とメモをした。
「明日本社までおいで。受け付けに出したら取り次いでくれるはずだから」
「はあ」
受け取った名刺には『人事部 副部長
* * *
直接のお誘いに断る道はなく、勤務明けで半端な時間を一度帰ろうか迷って、帰ってしまったらきっと面倒になってしまうとネットカフェで時間を潰した。
仮眠もとれたので良かったのかもしれない。
時間に合わせて本社に行くと、秘書なのか、ただの係の子なのか、若い子が迎えに来て、会議室のような所に案内される。
そのまま二時間くらい待たされた。
お茶やコーヒーを淹れて持ってきてくれる女の子がだんだん恐縮していくのが分かる。仕方のないこととはいえ、彼女も胃が痛いだろう。
「呼びつけておいてすまない! 会議が長引いて……食いながらでいいかい?」
うんざりした様子で部屋に入ってきた永瀬さんは、隣に座るとサンドイッチを頬張りはじめた。
パンを咥えながらファイルの中から書類を一枚抜き出して、俺の前に滑らせる。
『夏季海外研修要項』
見出しにはそう書いてあった。
「特技の欄には書いてなかったけど、ロシア語と、英語ももしかして分かるんじゃないか?」
「……何を言ってるかくらいは解りますが、それだけです」
「うん。それが分かれば、苦労はしないと思うんだよね。ほら、最近やたらグローバル化ってうるさいでしょ。ちょっと海外の同業者がどんな感じか学んでこっちでも生かそうって。言葉覚えられれば、空港警備とかにも着けるし、幅広がるよ」
書類に目を通す俺を、永瀬さんは黙って待っていた。
最後まで読み切って、小さく吐息を漏らすと彼は顎を撫でながら苦笑する。
「時間なくて、すまないね。折角だから、空きは作りたくなくて。明日までは、何とか待つけど。ご家族とも相談したいだろうし」
家族、と聞いて朋生の顔が浮かんだ。
今の自分には死んだ両親ではなく、朋生がそうなのかと改めて驚く。それでも、朋生に相談する気は起きなかった。
きっと反対される。やめてって言われたら、従ってしまいそうになる。でも、これはきっといい機会だ。離れてみれば、見えるものも変わるかもしれない。そのまま帰ってこない選択肢も……ある。
「いえ……行きます。参加させて下さい」
研修期間の日付を指でなぞりながらそう返事をすると、永瀬さんは一瞬驚いた顔をして、それから笑って俺の肩をパンパンと叩いた。
研修期間は約一ヶ月。出発日は十日後だった。
「よし! じゃあ、待たせた詫びも兼ねて今夜は俺が奢ろう。去年参加したヤツの話もしてやるよ。終業まではちょっとあるけど、このままここで待っててくれ。上手くいけば早めに切り上げられるから」
断る隙も与えず、永瀬さんは出て行った。
俺は色々と諦めて、研修先のシンガポールや飛行機の時間なんかを調べることにしたのだった。
* * *
普段電池の残量なんて気にしないから、珍しくネットをあちこち調べたり、少し動画を見たりしただけでカツカツになってしまった。
気付いた時には画面が消えて、充電して下さいと警告が出る。
朋生に遅くなると言ってないことに気付いた時は遅かった。今日はなんだかそういうことばかりだ。
車ですからと自分は断ったものの、酒の入った永瀬さんは饒舌で、自分も警察ドロップアウト組だとか、OBも結構いるよと話に熱が入る。
お陰で帰るタイミングも逃し、永瀬さんを家まで送ってからようやく家路につけた。
日付けが回ってしまっている。朋生の怒った顔が目に浮かんだ。
そっとドアを開けて、静かな室内に入り込む。一目見た感じでは誰もいなくて、もう寝たんだろうかとシャツの首元のボタンを外す。
何気なく覗き込んだソファの上に朋生が倒れ込んでいて、またかと回り込んだ。
こんな風に待っていなくともいいのに。
肩を揺すろうとして、顔にかかる髪の毛が濡れているのに気付いた。服装から風呂に入った様子はない。
そっとその髪を指で除けると、涙に濡れた顔が現れた。目尻から筋を引く涙は、頭の下で潰れているクッションに、小さくいくつかの染みを作っている。よく見ると、スマホを抱え込むようにして握っていた。
「……ともき……?」
呼びかけたつもりの声は、掠れて、辺りに拡散されてしまった。
一度身体を起こして無意味に辺りに視線を投げる。
高山と何かあったのか? それとも……それとも、俺が……連絡を入れなかったから?
急いでスマホを充電器に繋いで、気付かないふりで朋生に声をかける。
「ともき、こんなとこで寝るな。ほら」
「…………ん……」
ぎゅっと眉を顰めた拍子に一粒涙が零れ落ちる。反応はあるけれど、起きる気配はない。
どうしようと、しばらく迷って、ようやく電源が入るようになったスマホをチェックしてみる。SNSの無料通話で続けて二度、時間を空けてその後も何度かコールされていた。
体の芯がぎゅうっと音を立てる。
泣きながらコールするのに、どうして俺のものにはなってくれないんだ。
どうして……
やや乱暴に彼女を抱き上げ、部屋まで連れて行く。うっすらと開かれた瞳は、何も映さずにすぐに閉じられた。
ベッドの前で足を下ろし、抱き合うようにして彼女の体重を支えながら片手で布団を捲る。夏用の薄いもので助かったかもしれない。
さすがにジャケットは脱がせないと、と袖を引き、軽く声をかけて腕を抜くよう促す。反応の鈍い朋生と格闘すること数分。お互いの体温でじんわりと汗をかいていた。
身じろぎした朋生の髪の毛が流れて、白い首筋が目に飛び込んでくる。
目を離せなくなりそうで、慌てて彼女をベッドに横たえた。身体を離そうとして、今度は乱れて開いた胸元に視線が行く。まずいと思ったけれど、そこにちらりと見えたのが、朋生が熱を出した時に洗濯をしたあの下着で。目を離せないまま彼女にゆっくりと手を伸ばしていた。
お腹から脇腹に手を滑らせ、そのままゆっくり膨らみの方へと指を這わせていく。
ぴくりと身じろぎした朋生が小さく口を開いた。
「……か、やま……さ……?」
弾かれたように手を離して、一気に冷えた頭を振る。
「……違う」
適当に布団を引き寄せ、部屋を出てドアを閉めた。
その場で頭を抱える。
高山の名前が出るのは当然だ。
分かっているのに、酷く傷ついていて叫びたくなる。
あと十日。たった十日なのに、朋生、すまない。もう、一緒にいられない。
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