兄:兄としての痛み

 現実で時間が止まった感覚を味わうのは初めてだった。

 俺と千早は歩みを止めて、高山と高山にキスされてる朋生も微動だにしなかった。

 コンマ何秒とかいう世界だったんだろうけど、確かにその時、時間は止まって、それから急速に動き出した。


 頬を押さえて振り返る朋生を千早が少し引き寄せ、そうしてる間に俺は高山の胸ぐらを掴んで朋生から引き離す。慌てる様子も無い顔に一発、と腕を振り上げたら、反対側から千早の拳が先に入った。


「……っつ、え? 千早、も?」


 ちょっと情けない顔になった高山を見て、カッとしていた頭が少し冷える。平手で頭を叩くのにとどめて、高山を開放した。


「セクハラでしょう!?」

「……まあ、順番が狂ったのは認める。手順を踏めばいいんだろ?」


 いてて、と赤くなった頬をさすりながら、高山は朋生の前に進み出た。


「朋生ちゃん、俺と付き合わない? 今返事って言ったら拷問だと思うから、っていうか、すでに俺も? 後でちゃんと話そう?」


 朋生は何が起こったか分からないという顔をして、頬に手を当てたまま、二、三度俺と高山と千早を見比べていたが、みるみる顔を赤くすると、小さく「はい」と返事をした。

 千早は眉間に皺を寄せていたけど、それ以上は何も言わなかった。俺も、言えることはない。

 気まずい沈黙が流れて、気にしたのか、朋生が赤い顔のまま俺に向き直る。


「お、お兄、来ないって言ったじゃん。千早さんに誘われたの?」


 そう言われて、ここに来た理由を思い出す。

 ポケットからスマホを取り出して朋生に差し出した。


「忘れ物」

「あ」

「貴重品だしね。私よりお兄さんに届けてもらった方が安心かと思って」

「あ、アリガトウ」


 もごもごと礼を言う朋生から高山の前に手のひらを移動させる。


「……ん?」

「キー」

「は?」

「帰るから、キー寄越せ」

「は? やるか。俺はこれからゆっくり朋生ちゃんを口説……」


 はっとした高山の視線に振り返ると、千早が朋生を自分の車に乗せているところだった。


「なんで千早が連れてっちゃうかな。あー。もう。乗れよ。帰さないぞ。ここまで来たんだ。付き合え。寝ててもいいからさ」


 自棄になった高山に、仕方なく従う。言葉通り寝させてもらうさ。千早の運転よりは、寝られるだろう。




 神の子池に着いたと起こされたけど、そこまで付き合う義理はないと、俺はひとり残って寝ていた。行く時にまだ少し緊張気味だった朋生の声は、戻ってきた時にはもう普通に戻っていて、ぼんやりとこのまま高山と上手くやるんだろうなと感じる。

 ちりりとした痛みを、痛みだと自覚していることに溜息が出る。どうしてこのタイミングなんだと。もう少し早ければ、痛みも感じないで済んだはずなのに。


 ……いいや。良かったのか。どうせ俺は『兄』でしかいられない。

 兄としての痛みなら、感じてもいいはずだ。いつまでも居られないと、解っていたはずなんだから。

 戻ってきた高山が、カーステレオをかけた。

 懐かしい曲がかかる。告白も出来ないまま失恋した男が、海で叫ぶというストーリーの。


「叫びたいことは、早めに叫んだ方がいいと思うけどね」


 意識があると気が付いてるのか、独り言のように高山は言った。


「お前に殴られる覚悟はあったんだけどなぁ。平手じゃ、物足りなかったんじゃないか?」


 シートベルトの金具がカチャリと音を立てて、ゆっくりと車が動き出す。

 高山はその曲が終わるまで、一緒に小さく口ずさんでいた。


 いつの間にか本当に寝込んでいて、飯だぞと起こされる。

 どこだかよくわからないが、この辺りで評判の蕎麦屋らしい。オススメだという天ざるを四つ頼んで(俺に決定権はないようだ)おしぼりで遊び始めた高山の手元を、欠伸を噛み殺しながらぼんやりと眺める。

 三角に折ったおしぼりをくるくると丸めて半分に折り、手早く纏めたらヒヨコが完成。向かいに座っている朋生がもの凄く食い付いていた。

 ウサギだゾウだトトロだと披露して、次にくるくると丸めたところでぴたりと手が止まる。


「あれ、どうだっけ。ほら、ペンギン。ゴム使わないヤツ」

「千早、覚えてるだろ? さんざん見せられたんだから」

「私は観賞専門」


 覚える気はありませんと、両手を上げて冷たく言われる。

 高山が丸めたおしぼりを俺の前に押しやるので、仕方なく続きを作る。輪を作って長めに残した方を端を残すようにして輪に潜らせ、形を整えていく。


「お兄も出来るの!?」

「似合わないよな? そもそも、俺が知ったのも、こいつが宴会の隅でひとりでヒヨコ作ってたからだし」

「……ひとりで」

「なー? 絶対女子受けいいから、披露しろって言ってるのに、人前ではあんまりやらないんだよな」


 ほっといてくれ。お前も似合わないとか言ってんじゃないか。

 出来上がったペンギンを、ほいと朋生の前に置いてやると、持ち上げて確認するように上下左右から眺めている。


「えー。すごい。ヒヨコ! ヒヨコ覚えたい!」

「いいよ……っと、お蕎麦来たから、また今度ね」


 ペンギンは朋生の手から高山の手に返っていく。


「嬉しそうねぇ。頼られたいんだもんね。朋生ちゃんの反応は新鮮よね」


 呆れたように千早が箸を割りながら言うので、心の中で深く頷いた。そうだ。朋生の反応は高山がいかにも喜びそうな感じだ。


「同僚も後輩も、生意気な奴ばかりだし、友達は捻くれてるし。少しくらい年長者の気分を味わったっていいだろ」


 口を尖らせてそんなことを言う姿は、全然年長者らしくないけどな。


「朋生ちゃん、嫌いなものあったら受け付けるよ」


 天ぷらを指差しながら、高山はにっこりと笑った。


「あ、大丈夫です」

「それ、卑しいだけじゃない?」

「は? 千早は今日はピーマン自分で食うんだな?」

「……た、食べるわよ。食べれるんだから!」


 へぇ、と意地悪く笑った高山が、千早の残したピーマンの天ぷらを口に入れるまで、それほど時間はかからなかった。

 向かいで、蕎麦湯を注ぎながら、朋生がくすくすと笑っている。


「そういえば、昔、千早の作ったおにぎりをどっちが食うかで揉めたことあったよな」


 千早がぎょっとして顔を上げた。

 あれは、揉めたとは言わないんだが。


「ちょ……浩二?」


 高山は睨まれてもどこ吹く風で、にやにやと朋生に話を振った。


「どっちが食べたと思う?」

「……え? んー。はんぶんこにした?」

「はずれ。そういう手もあったね! その時はじゃんけんで決めて、大空が食べたの」

「じゃあ、高山さんは残念でしたね」

「そうだね。大空、米粒ひとつ残さなかったからね」


 ふうんってこちらを見る朋生の目が色々誤解を含んでる気がするけど、朋生の隣でそわそわしている千早の名誉のために俺は口を開かなかった。

 高山はそんなとこも見越してるんだろう。嘘は一つも言ってないのに話が違う。

 千早は料理が下手だ。

 ただ下手ならまだいいのだが、独創的すぎて妙なものが出来上がる。


 その『おにぎり』もそうだった。丸いボールのようなフォルムに海苔が巻かれてはいたが、何故か甘い匂いがしてる。本人曰く「デザートも一緒にしたら楽かなって」。

 食べたいならどうぞって差し出されたんだけど、さすがの高山もドン引きしてて、でも食えないとは言えなくて。怖いのは本人は平気で食べてるとこだ。


 千早の作ったものが食べてみたいって言ったのは高山だったのに(俺は千早の腕は知ってた)、何故か巻き込まれて譲り合う形に持ち込まれた。結局、じゃんけんで負けた俺が貰い受けたのだが、塩のかわりに砂糖を使っていて、具は小さなシュークリームだった。


 千早は自分でおかしいことは自覚してるみたいで、めったに何か作ることはない。

 俺も、もらったものを粗末にしたくないから、心を無にして食った記憶がある。美味いとは言えなかったけど、ごちそうさまは何とか言えた。あの時の千早のほっとしたような顔は、そういえば貴重だったかもしれない。


「朋生ちゃんは毎日お弁当作ってるんだよね? 俺、出汁巻き卵好きなんだ。今度作ってよ」

「手抜きも多いですけどね。じゃあ、機会があれば」


 ちょっと照れながら朋生は答える。

 そこに話を持って行きたかったのかと軽く息をついたら、千早が目で感謝を伝えてきた。

 高山のペースに乗せられるのは癪だが、まあ、仕方ない。俺は千早に小さく頷いた。

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