8
妹:あくまでも妹
夜中に寒さで目が覚めると、ソファの上だった。
お兄ちゃんを待ってたんだっけな? ってよくよく思い起こしてみて、高山さんと千早さんの顔が浮かぶ。
半分寝惚けて、千早さんに支えられながら部屋に入って、ベッドまで連れて行くと言う彼女を、大丈夫だからと敬礼の真似事をして追い返した……まではいいけど、結局ちょっとソファに座ったら、そのまま寝ちゃったらしい。
トイレに立ってついでにスマホを覗いたら、送信し忘れている『これから帰ります』と、かけた覚えのない通話のマークに画面を二度見した。
メッセージの方は消したけど、通話は結構長い時間繋がっていた様子に、間違ってかかったわけじゃないと気付かされる。そういえば、スマホは高山さんが返してくれた。「落としそうだったよ」って。
うっかりやいたずらでかけたなら、お兄ちゃんはすぐ切るだろう。
喧嘩腰みたいなところはあるけど、お兄ちゃんが素に近い様子で接してるのを見るのは、高山さんくらいかもしれない。高山さんもそれを受け止めてるし……
ふと、飲むピッチが速くなったきっかけを思い出した。
高山さんも千早さんも、あたしがお兄ちゃんを好きだと、男として好きだと、そう思ってるみたいだった。最近薄々そうかなって気付き始めたくらいで、ずっとそうだったわけじゃない。その辺の微妙な感覚は説明しても解ってもらえそうにないし、自分でもよく分からないというのが実情だ。
離れたくないけど、手を繋ぎたいとかキスをしたいとか、そういう欲求があるわけでもない。それを求めても、返ってこないと知ってるからかもしれないけど。
「好きかもしれないけど、今のお兄ちゃんとは、そういう関係になるつもりはありません」
だから、千早さんが、もしもお兄ちゃんの彼女に立候補するとしても、全然構わないのだ。あたしより千早さんの方が、お兄ちゃんの“何か”を取り戻してくれる確率は、高いかもしれない。
言い切るあたしに、二人はちょっと不服そうだった。
でも、その後にお兄ちゃんの“こういうとこあるある”な話になると、思った以上に三人で盛り上がった。わ、悪口じゃないからね?
千早さんとも連絡先を交換して、またご飯を食べに行こうと約束する。ゴールデンウィークに予定が合えば、どこかに行くのもいいかもね。とも言っていた。
タクシーに乗り込んだら、緊張が解けたのと、心地いい振動ですぐに眠気がやってきて、隣の千早さんもうとうとしているし、つられるようにスマホを握り締めたまま、眠ってしまったのだ。
荷物やコートは放り出したまま部屋に戻って、拭くだけのクレンジングで化粧を落とす。そのまま布団に潜り込んで、寝てしまうことにした。
お兄ちゃんはこの時間起きてるのかな? 暇過ぎて困る、なんて言ってたっけ。
何も無い方がいい。怖いものがないお兄ちゃんは、何かあれば躊躇なく動くに違いないんだから。
* * *
次の日仕事にはちゃんと行ったものの、連続でお酒に浸かった頭で、なんだかぼぅっと一日が過ぎた。小さなミスが続いてひやひやする。色々諦めて、キリのいいところで帰ることにした。
冷蔵庫の中身を思い浮かべて、献立を考える。なんとかなる、かな?
帰ってきているはずのお兄ちゃんに連絡して、どこかスーパーに連れて行ってもらうことも出来るけど、なんとなく顔を合わせづらくてバスに乗りこむ。昨日の朝までは機嫌悪く怒ってたくせに、話の向きが九十度くらい変わってしまって、今度は顔を合わせるのが照れくさいなんて。
高山さんが、お兄ちゃんに何の電話をしたのかも気になるし……失態を報告されていたなら、それはそれでまた気まずい。
帰り着くまで一問一答を頭の中で繰り返して、アパートが見えてきたところでお兄ちゃんからトークが届いた。
――迎えに行こうか?
昨日の通話について、一切触れないところがお兄ちゃんらしい。
――もう着く。お味噌汁温めておいて。
既読はついたけど、返事もスタンプも返ってこない。これも、お兄ちゃんらしい。
スマホを仕舞って
顔を合わせづらいなんて、誰が思ったんだっけ?
ただいまとドアを開けると、お味噌汁の香りがほわっとすり抜けて行った。
「そういえば、昨日あたし電話した?」
野菜炒めをつつきながら、わざとらしく切り出したら、お兄ちゃんは特に構えもせずに「いいや」と首を振った。
「高山がかけてきた。お前、ちょっと管理甘いぞ」
藪蛇の気配にぐっと言葉に詰まる。
「あんまり飲むなって、だから言ったのに」
呆れた瞳がちらりとこちらを向いた。
「そ、そんなには飲んでない、です」
「千早が運んでくれたのか?」
「い、一応歩いてきました。支えてもらって、ソファまで……」
「あいつらは酔っ払いの扱いに慣れてるけど、ちょっと気を許し過ぎじゃないか?」
「ええと……ちょっと、楽しくて……あ、そうそう! 千早さんが言いたいことがあるって。直接会えたらって言ってたから、今度お兄も行こうよ」
誤魔化したくて話を逸らしたら、それまで止まらなかったお兄ちゃんの箸と口が、ぴたりと動きを止めた。
「高山達にそう言えって言われたのか? ……行かない」
「え? 違うよ! あたしいるの嫌だったら、三人でとか、二人でとか……」
言ってるうちに、自分でも尻すぼみになっているのに気付いたけど、どうしようもない。
お兄ちゃんの溜息が、いやにはっきりと聞こえた。
「ともきがいないなら、尚更行かない。何を聞いたか知らないが、あいつらとこれからも付き合うつもりなら、俺の方はもう気にしてもいないし、放っておいてくれって伝えとけ」
「気にしてないなら、会ったっていいじゃん……」
キッと睨まれて肩をすくめる。
「俺は変わったから。以前の俺を求められても困る」
お兄ちゃんはきっとそれ程変わってないんじゃないかとか、高山さん達は、別に以前のお兄ちゃんを求めてる訳じゃないと思うとか、色々頭を駆け巡ったけど、結局言葉に出来ずに黙っていた。今のお兄ちゃんにはどれも言い訳臭く聞こえるんだろう。代わりに、一番訊かなくてもいいことが口をついて出る。
「……以前のお兄は千早さんのことが好きだったの?」
少しだけ、お兄ちゃんの目が泳いだ。
馬鹿な事を聞いた。そう思った時はもう遅かった。
「誰が、そんなことを?」
「高山さん」
一瞬、噤まれた口はすぐに開いた。
「そんなこと、ない」
ごちそうさまと、お兄ちゃんは立ち上がってお茶碗を下げに行った。
ここにきてどうして誤魔化すのか、はっきりと言われてもそうだったのか、もやもやと嫌な気持ちが湧いてくる。
「あたしに誤魔化さなくてもいいじゃん。そうなら、千早さんと会ってれば“心”の一部は戻ってくるかも。千早さん、今はフリーみたいだったよ」
「あいつに……お前が、あいつに戻してもらったからって、俺も一緒だと思うな」
背中越し、冷え切った声に言い過ぎたと気付く。
「涼はどちらかというときっかけをくれただけで……」
他のほとんどは、お兄ちゃんと暮らしてた中で返ってきた物で……なんて、自覚すると恥ずかしくなった。
あたしも片付ける振りでお兄ちゃんを振り返ると、シンクの中のお茶碗を睨みつけている姿が目に入る。
「……ごめん。お兄が決めることだもんね。千早さん、素敵な人だったから、つい。お
お兄ちゃんは、並んだあたしを少しの間見下ろしてから、自分の部屋の方へと足を向けた。
「……俺は妹だけで手一杯だ」
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