第12話 大仏さまと思い出

群がる鹿に少しばかり恐怖を覚える頃、鹿せんべいは尽きた。

食べるものが無いと判れば狂暴化するのではないかと危惧したが、俺達に興味を失ったように散っていった。

「お兄」

「どうした?」

七菜香の声は弱々しい。

「所詮、物欲だけで我らは持てはやされていた」

「ま、まあ、人に慣れてるとはいえ野生という立場みたいだし、アイツらも生きるのに大変なんだろう」

ヘンなことで落ち込む七菜香をうながして、大仏のある方へと向かう。

教科書でもお馴染みの金剛力士像の横を通り過ぎ、大仏殿へと──七菜香?

隣に七菜香がいないので振り返ると、多くの観光客に紛れて金剛力士像を見上げていた。

やはりちょっと口を開いて、ポカンとしたあどけない表情は、七菜香の好奇心や感性が豊かであることを表しているようにも思えた。

七菜香はハッとしたように辺りを見回し、俺の姿を見つけると駆けてきた。

「お兄が迷子になったかと思って心配した」

「すまんすまん」

俺は笑っていた。

もっとちゃんと、コイツの隣にいよう。

コイツの目線で、コイツの見る世界を見てみよう。

そう思えたことが、何故か嬉しかった。


「お兄」

「ん?」

「大仏さまは座っていても十五メートルある」

「そうなのか」

「立てばモビルスーツよりでっかい」

「そ、そうか」

比較対象が斬新ざんしんだ。

「手のひらと七菜香の身長が同じくらい」

「へえ」

俺は大仏を見上げる。

「握り拳にすれば私の身長が勝つ」

「そ、そうだな」

くだらないことを言っているみたいだけど、七菜香の目線というものを意識してみる。

……?

七菜香は大仏さまの顔の方、暗がりに目を凝らしているようでいて、どこか遠くを見ていた。

それはいつもの七菜香と違って、可愛らしさとは別の、何か透明感を思わせるような綺麗さがあった。

七菜香の、俺の知らなかった表情。

兄妹になって半年では、まだまだ何を見て、何を考えてるかなんて判らないか。

「お兄」

「ん?」

「お腹空いた」

「そ、そうか」

遠い目をしていたから、思いは俺の考えなど及ばないところへ達しているのかと思ったが、考え過ぎだったようだ。

「志賀直哉が」

別ベクトルで考えの及ばないところに達していた!

「奈良に美味いものなしと」

なるほど、お腹空いたと繋がっていたのか。

「正確には、食ひものはうまい物のない所だ、と随筆に書いてる」

そっかぁ、文豪が随筆に書いちゃったかぁ。

でもまあ今の時代、名物や特産品はともかく、一般的な食べ物に大きな差は無いだろう。

「コンビニでいい」

「いいのか?」

遠慮しているのだろうか?

「コンビニならおにぎりとコンポタがある」

遠慮じゃ無かった!

……でもまあ、今日は比較的暖かいし、公園に座って食べるのはいいかも知れないなぁ。


日の当たる芝生に座っておにぎりを頬張ほおばる。

本当は温めた弁当にしたかったのだが、七菜香のすすめでおにぎりになった。

と言うのも、弁当だと鹿に囲まれた時に逃げにくいかららしい。

なるほど、鹿に囲まれるのは想像に難くないし、弁当を奪いに来られても逃げるのに手間取りそうだ。

そう言えばフン食い虫の話をしてた時も、以前に来た時は、って言ってたが……。

「経験談か?」

「七菜香は経験豊富な女」

コイツ、意味判ってんのかな。

「七菜香はおにぎりで、お父さんがお弁当だった」

……そうか、お父さんと来てたのか。

「私達を包囲した鹿は、だんだんその輪を小さくしていき、気が付けばボスのようなヤツがお弁当に顔を突っ込もうとしていた」

弁当を死守するか放りだして逃げるか、ちょっと迷ってしまうところだな。

しかしその逡巡しゅんじゅんが手遅れに繋がるのだろう。

「慌てふためいたオトンはつまずいて地面に手を着き、その手は鹿のフンまみれに……」

手遅れになるところまでは想像できたが、まさかそのような敗北の形が待っていようとは……。

鹿のフンはコロコロして嫌悪感は少ないが、それでも食事中にしたくはない体験だ。

食事中に聞きたい話でも無いけれど。

颯爽さっそうと先に逃げた私が笑い転げていると、笑う子はいねがーと言って、手のひらを向けて追いかけてきた」

手のひらでつぶれたフンは、元の状態より忌避きひしたいものがある。

「鹿より怖かった」

まあ確かに、鹿は追いかけてきたとしても、フンで攻撃はしてこないからなぁ。

「人は、汚れてしまうともう元には戻れない」

何を言ってるんだろう?

「すばしっこく逃げ回る私に、オトンはその辺に転がっているフンを拾って、弾丸のように投げつけてきた」

オトン! あんた何してんだ!?

「フン弾はふんだんにあるぞ、と高笑いしながらオトンが言った言葉の意味を、まだ幼い七菜香が理解したのは、それから一年後のことでした」

どうでもいいことを理解するのに、一年を費やしてしまったか……。

「今ならフン害に憤慨ふんがいすると返せたものを」

いや、それが成長のあかしってどうよ?

「オトンはコンポタが好き」

え?

「幕の内弁当を食べながら、コンポタを飲んでた」

また七菜香は、俺の知らない表情を見せた。

ポカポカとした日差しは、柔らかくて暖かいのに、それでも足りないとでも言いたげに空を見ていた。

「大仏さんの大きさも、ルリセンチコガネのことも、琵琶湖の島の名前も、電車の形式も、時刻表や地図の読み方も、みんなオトンが教えてくれた」

それはきっと、知識だけではなく、大切なことや優しさも包含ほうがんして、七菜香へと伝えられたのだろう。

「まだまだ知りたいことが沢山あった」

まだまだ教えてほしいことが一杯あっただろう。

「まだまだ連れて行ってほしいところが沢山あった」

まだまだ一緒に歩く時間が欲しかっただろう。

「七菜香はバカだから、今度はお兄が色々と教えてくれたら嬉しい」

……俺に、何が教えてやれるだろうか。

いや、教えられることの方が多い気がする。

「お兄もバカだから、一緒に歩いていこうな」

早歩きでなく、歩幅を合わせて。

何も、七菜香の父親と同じようにすればいいというわけじゃないと思う。

「あい」

七菜香はそう返事すると、いつものように「へらっ」と笑った。

個性豊かでヘンな妹が笑えば、俺も釣られて笑顔になる。

一緒に、笑顔になれるのだ。

それは、かけがえのないものだ。

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