第4話 琵琶湖県
「お兄ちゃん」
今日はお兄ちゃんだ。
時刻は八時で、七菜香としては異例の早起きなので眠そうだ。
両親は既に出勤している。
「日本一でっかい湖は逃げないので二度寝する」
「うぉい!」
「一時間だけ……」
そう言っている間にも、七菜香の瞼が眠そうに下がってくる。
どうせ昨夜、遅くまでゲームをしていたか、本でも読んでいたのだろう。
「判った、一時間だけだぞ」
別に一時間遅らせたところで、日本一でっかい湖を見るという目的だけなら問題は無い。
「お兄、絶対起こして」
「判った判った」
「絶対だよ」
意外と切実な口調で言う。
切実に眠いけど、切実に行きたいのだろう。
「心配せんでも、叩いてでも起こすから」
「叩くなら頭と顔と手足とお腹と背中以外にして」
どこを叩けと!?
……まあ、実際に叩くことなんてないだろうが。
今日は平日だから、一時間くらい遅らせた方が電車も空いてるかも知れない。
まあアイツのことだし、先頭車両で立つことになるのは変わらないけど、同じ立つにしても混み合ってるよりマシだ。
ただ、この余った一時間をどうするかなぁ、と思って台所を見ると、何やら弁当箱のようなものが二つ。
……アイツめ。
引き籠りで、家の手伝いもしないくせに無理しやがって。
俺は嬉しいような、申し訳ないような、そして何故か、悔しいような思いに
七菜香のくせに生意気な、なんて呟きながら、俺は弁当箱のフタを開けた。
「空っぽかよっ!」
そりゃそうだ。
カップ麺を作るだけでメンドクサイと言うヤツが、弁当なんて作れる
でもまあ……作ろうとは思ってくれたんだよな……。
いつも昼頃まで寝て夜は趣味に没頭しているアイツが、たとえ気まぐれだとしても、夜中にこっそり一人で弁当を作ろうと思ったんだ。
たぶん弁当箱を探すだけでも、カップ麺を作るより大変だったんじゃないかな。
だったら、その気持ちだけで嬉し──あ。
……そうか、気持ちだけじゃなく、ちゃんと努力したみたいだ。
俺はゴミ箱から、何かが入っているレジ袋を取り出した。
焦げた卵焼きやウインナー。
他に得体の知れないものが幾つか。
……随分、格闘したんだろうなぁ。
俺は一人で苦笑してみせたが、ホントは嬉しくて、微笑ましくて笑っているのだ。
そういや朝飯がまだだった。
まあ食べ物は粗末にしちゃ駄目だしな。
アイツを起こすまで五十分ほど。
兄として、ちょっくら格闘するとしよう。
「お兄」
予定より一時間遅い電車に乗り込んだものの、七菜香はまだ眠そうだ。
「今日は座る」
しかも
よっぽど眠いのだろうか。
幸い、途中の駅で人がどっと降りたので、二人掛けのシートに腰を下ろす。
「いいの?」
七菜香を窓際の席に座らせると、小首を
「私は電車に乗ってるだけで楽しいけど、お兄は景色が見えないとつまらないのでは?」
「いいよ。俺も眠いから寝るかも知れないし」
「そか。じゃあ七菜香の肩をオススメ」
「おう、サンキュ」
お礼を言うと、七菜香が笑う。
別に俺は、景色なんて見えなくてもいいんだよなぁ、なんて思う。
七菜香が笑って、七菜香が楽しんでくれるなら、俺も楽しい。
実際にもう、運転席の後ろじゃなくても七菜香は窓にかぶりついているのだし。
本当に寝るつもりは無かったのだが、いつの間にか眠ってしまったようだ。
気が付けば、窓の外は雪景色に変わっていた。
雪は降ったり止んだりで、窓の外を白く霞ませたかと思うと、薄日が差したりした。
白い風景の向こうに、冬空を映した湖面が見える。
「大きいなぁ」
初めて見るわけじゃないが、海と見紛うような広がりに、思わず呟いてしまう。
俺が目を覚ましたのが嬉しいのか、七菜香は喜色を
湖面に遠く霞む島の名前や、反対側に見える山の名前など。
「随分と詳しいんだな」
「何を隠そう、私は琵琶湖県の出身」
琵琶湖県……。
「琵琶湖は確かに広いけど、県の面積の六分の一だろ?」
「なっ! き、きさま、何故その国家機密を!」
滋賀県は、いまだに近江国だったらしい。
「いやまあ、地理は得意な方だし」
「じゃあ次の問題に答えられるかしら」
何故か七菜香は澄ました口調で挑発してくる。
地理が得意といっても、滋賀県の地理に詳しいわけではないが……まあそういった出題に答えるのは好きな方だ。
「よし、言ってみろ。兄ちゃんの博識ぶりを見せてやる」
「では、琵琶湖は滋賀県の面積の六分の一ですが」
やはり琵琶湖がらみか。
しかし、他に面積で比較対象になるようなものは無いし、かといって面積を答えろなどと言われても無理だ。
「その事実を初めて知ったときの滋賀県民の気持ちを答えなさい」
「国語かよっ!」
「滋賀県民にとっては一般常識なのです」
「そもそも個人によって感じ方は様々だろうが」
「琵琶湖に対する思いはみんな同じ」
「独裁国家かよ! 思想統一教育してんのか!?」
「母なる湖を、朝な夕なに眺めていたら、みんな気持ちは同じになる」
いや、琵琶湖が見えない地域の方が多くね?
「まあいい。で、なんて思うんだ?」
「え? 一分の一じゃなかったの?」
「滋賀県民は魚類かよ!?」
「お兄、いま滋賀県民をバカにした?」
「お前が自慢なのか自虐なのか判らんことを言うからだ」
「ここで私が滋賀県民を代表して、決めゼリフを放つ」
いや、お前は元県民なのに代表してしまうのか?
「琵琶湖の水を止めるぞ」
……果たしてその決めゼリフは、決まっているのだろうか?
「これでタカが千二百年の都ごときは黙りおるわ」
「そ、そうか」
どうやら京都市民の命の水は、滋賀県に
「あ、お兄、着いた」
電車が駅のホームに差し掛かっていた。
漠然と琵琶湖が見たいというわけではなく、どうやら目的地があったようだ。
ここが七菜香の育った場所なら、俺は七菜香のことをもっと知れるのだろうか。
いつものように瞳をキラキラさせて、七菜香は待ち切れぬように扉の前に立つ。
電車が止まり、扉が開くや否や、七菜香は雪の積もったホームに勢いよく駆け出て──滑って転んだ。
転んでも笑っているその姿が、俺の知らない頃の七菜香を見るようで、少し嬉しくなって俺も笑った。
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