第17話 でっかい村の吊り橋と木

七菜香とバスに乗るのは初めてだ。

二月最初の土曜日。

空は晴れているが、これから山奥に向かうので天気は変わりやすいかも知れない。

予想通りと言うか、当たり前のことのように、七菜香は進行方向に向かって左側、いちばん前の座席に座る。

一人がけなので隣に座ることは出来ないが、俺は七菜香の後ろに座り、その可愛らしい頭が右を向いたり左を向いたりするのを楽しむことにする。

「バスに酔ったりはしないのか?」

何でもこのバスは、高速道路を通らない路線バスとしては日本最長距離を走るらしい。

停まるバス停の数も最多、所要時間も最長という日本一づくしだ。

もっとも、終点まで乗るわけでは無いが、それでも結構な乗車時間になるし、カーブの多い山間部を走るから車に酔いやすい人には苦難の道のりになる。

「七菜香は乗り物に乗るために生まれた女」

そっかぁ、乗り物に乗るために生まれたかぁ。

じゃあ、いつか七菜香が男性と経験するとき、それはきっと騎乗──はっ!?

俺は何を考えてんだ!?

「お兄?」

「な、なんでもない」

すまん、七菜香。

アホなお兄を許してくれ……。


バスは深い谷間を走る。

窓に顔をへばり付けて、真上を見るようにしないと空が見えない。

どこまで行っても山また山で、民家が現れてもダム湖が見えても山ばかりといった印象だ。

七菜香は相変わらず熱心に窓の外を見ている。

時には運転手の見事なハンドルさばきに見入る。

都会だろうと田舎だろうと、七菜香は流れる景色が楽しくて仕方ないのだ。

このバスは終点まで六時間半をかけて走るが、三時間ほど乗ったところで下車する。

正直、疲れてしまったが、ここでまだ半分である運転手さんには頭が下がる。

七菜香も実際にペコリと頭を下げる。

運賃は一人二千五百円。

二人だと、バスだけで往復一万円か……。

親父の資金援助が無きゃ無理だったな。

「お兄、あっち」

七菜香が前に立って歩き出す。

やはり、来たことがあるのだろう。

琵琶湖から始まり、大仏さん、そして今回と、七菜香は思い出の場所を辿たどっているような気がする。

恐らくそれは、父親との旅路なのだろう。

「七菜香」

「あい」

「交通費のことなんだけど」

七菜香は俺がお金を出していると思っているだろうから、そこは正しておきたい。

「帰れない?」

「いやいや、下調べはしてるし余裕はある。ただ、七菜香と出掛けるお金は出すって、父さんが」

「……お父さんが、援助?」

あれ? いや、その言い方は何か良からぬものに聞こえるぞ。

「そっか……」

「勘違いするなよ。遠慮とかしなくていいんだ。父さんは子供の経験のために喜んでお金を出してるから」

「子供……経験……援助……」

おいおい、不穏になるようなワードを抽出ちゅうしゅつするな。

「七菜香は五千円持ってきた」

いや、だからそれを交通費に補填ほてんするようなことは、親父の本意では──

「これでお土産を買う」

……そっか、それはいい案だな。

「何か名物があるのか?」

「無いと思う」

……そっか、まあこういうのは気持ちの問題だからな。


バス停からわずかな距離で、り橋がある。

事前に調べていたので判ってはいたが、長いし高い。

今は違うらしいが、長らく歩道吊り橋としては日本一の長さだったらしく、三百メートル近くある。

川からの高さは五十四メートル。

写真で見ると、頑丈そうに見えるし、大したことは無いだろうなどと思っていたが、実際に渡ってみると足がすくむ。

遥か下方にある川面が丸見えで、しかも揺れる。

七菜香の軽い足取りが不用心にも見えて、それが怖くもある。

「な、七菜香、もう少し、慎重にだな」

そう言った矢先、対岸から地元のおっちゃんがバイクで渡って──バカな!? バイクだと!?

余裕で擦れ違えるような幅は無い。

当然、端っこに寄らなければならないが、柵はあるものの、崖っぷちに足を踏み出すような不安感がある。

俺は高所恐怖症ではないが、高所は危険だし怖いのは当たり前だ。

冷たい風が吹き抜けただけで揺れる橋が、バイクの重みで波打つように揺れる。

「ごめんよー」

地元のおっちゃんが悠々とバイクで通り過ぎる。

七菜香も「へらっ」と笑みを返す。

恐がっているのは、俺だけのようだった。


七菜香お手製のおにぎりを食べた後、タクシーを拾う。

どこを走っても山の中といった感じで、どこまで行っても十津川村といった広大さだが、更に山の奥深くにある滝に寄り、山の上の方にある神社にも行く。

樹齢三千年と言われる杉の大木があって、俺はその威容に目を見張ったが、七菜香は懐かしそうに目を細めた。

「紀元前からあるから、数年くらいじゃ何も変わらない」

そうか……縄文時代が終わる頃からここにあるのか。

それはたくましいようで、怖いような、途方もない存在だ。

「七菜香の方は変わったろ?」

変わるものと変わらないものがあって、どちらがいいとか凄いとかでは無いのだと思う。

「前はデッカイってはしゃいで見てた」

「今は?」

「歳月とか、無力感とか、希望を感じる」

相反する言葉が混じっているようで、でも、何となく俺にも判る気がした。

三千年の存在感は、人がどうあっても届かないものでありながら、遥か遠くを見る夢を連れて来る。

少なくとも、希望を感じる心が七菜香にあるなら兄ちゃんは嬉しい。


ただでさえ寒くて深い山中だったが、日が傾いて、より冷え込んできたようだ。

「お兄!」

「な、なんだ」

七菜香の突然の大声に驚く。

「バス!」

神社の入口にタクシーを待たせてあるが、バスがどうかした──時間!

「最終バスは!?」

「五時ちょうど」

今の時刻は四時半だ。

飛ばしてもらえば間に合うか?

いや、ここまでの道のりを考えると無理だろう。

あるいはバスを追いかけてもらえばどこかで追いつくだろうし、最悪、街までタクシーで出ればいいのだが、果たして料金はどれくらいになるのか。

下手すりゃどこかに泊った方が安かったりして……。

「七菜香」

俺はあせりつつも、あることに答をゆだねようと思った。

「以前に来たときは、どうしたんだ?」

恐らく、滋賀に住んでいた頃の話だろう。

自家用車で来ていたなら判らないが、電車とバスで来たなら日帰りは厳しい。

「オトンと、旅館に泊まった」

答は決まった。

「七菜香」

「あい」

「泊るぞ」

俺は言い切った。

七菜香は少し目を見開いてから、いつものように「へらっ」と笑う。

さて、外泊許可の電話を、父親にすべきか母親にすべきか……。

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