第11話 大仏県

乗り換え駅で、奈良方面行きの電車を待つ。

今日のことを知った姫香も「行きたい」と駄々をこねたのだが、それはお断りした。

七菜香の行きたい場所に俺は付き添うのであって、俺が七菜香を連れて行くわけではないからだ。

次々と来る電車を見て、七菜香は目を輝かせる。

ホームに響くアナウンス。

電車のブレーキ音。

通り掛かった外人さんが、七菜香を見てニコッと笑う。

人見知りの七菜香は、一度、俺の方を見てから、ちょっと硬くてちょっとユルい笑顔を返す。

外人さんの笑みが深くなった。

手を振ってくれるので、七菜香も振り返す。

喧騒けんそう雑踏ざっとう

人混みは好きではないけれど、七菜香といると、それがいつもとは違った風景に見える。

人が多くても無機質に思える空間が、少し優しく、柔らかくなる。

「白いヤツが来た」

七菜香がポツリと呟く。

確かに白を基調とした電車が来たが、よく見かけるもので、七菜香なら形式名も判っているはずだが。

その白いヤツに乗り込み、運転席の後ろに立つ。

手のひらを広げて窓ガラスにへばり付く姿は、例えは悪いかも知れないがアマガエルのようで微笑ましい。

運転士は女性で、ビシッと指差し確認を繰り返す。

七菜香、口が開いてるぞ。

口を開けっぱなしだとアホ面に見えるものだが、七菜香の場合はあどけなく見える、のは兄の贔屓ひいき目だろうか。

でも、運転士さんはカッコいいな。

それは兄ちゃんにも判る。

駅に停車して、運転士が席を立ちホームの安全確認をする。

ふと七菜香の熱い視線に気付いて、「ニコッ」と笑みをくれた。

凛々りりしい姿が途端とたんに可愛らしいものになる。

へらっ。

七菜香がゆるゆるの笑顔を返した。

何故か運転士が胸を撃たれたような仕草をした。

アンタは大阪のオバチャン、いや、姫香か。

満面の笑みと、ビシッとした敬礼。

七菜香も「へらっ」とした敬礼を返す。

……何なんだろう、この不思議な光景は。

いや、子ども扱いされてるだけだと思うが、でも、何だか見ていて嬉しくなってくる。

俺自身が、子供の頃のワクワクを取り戻すみたいに。

レールの継ぎ目を拾う音、流れる景色。

子供の頃、それだけでワクワクしたことを思い出す。


「大仏駅に着いた」

七菜香が呟くように言って、電車が停止する。

まあ滋賀県が琵琶湖県なら、奈良県は大仏県だよな。

因みに奈良県に奈良駅はあっても、滋賀県には志賀駅はあるが滋賀駅は無い。

ホームに降りると、さっきの運転士さんが七菜香に手を振ってくれる。

子供みたいに喜ぶ七菜香を、俺は何かとうといものでも見るような思いで見ていた。

人見知りで引き籠り、それが何だというのだろう。

七菜香は知らない人を笑顔にする力があって、七菜香はちゃんと、人の優しさに喜べる心があるのだ。

「お兄」

「なんだ」

「優しい運転士さんだった」

「そうだな」

「ブレーキングも見事だった」

それは知らんが。

でも、七菜香が言うならそうなのだろう。

きっと、ブレーキングも優しいものだったのだろう。

電車が好きといっても興味の対象は人によって様々なようで、乗るのが好きな人、写真を撮るのが好きな人、模型が好きな人、時刻表、車両、歴史、関連物の収集と多岐にわたる。

七菜香の場合は、乗ることと時刻表、車両にも興味はあるようだが、こんな風に誰かと触れ合えるなら、それは趣味の範疇はんちゅうを超えて、生きることの彩りにもなり得る。

いつか七菜香は、引き籠りの鳥籠とりかご生活から抜け出し、その世界をもっと広げていくんだと思えた。


駅から奈良公園に向かって歩く。

既に鹿がいる。

確か俺が奈良に来るのは、小六の遠足以来だったと思うが、街中に鹿が闊歩かっぽしているのは改めて異様な風景だと思う。

いや、異様という言葉はよくないな。

メルヘンチックというか、絵本に出てくるような光景だ。

五重塔を目指して歩くと、すぐに緑が増えてきて、気付けば公園の一画に入っている。

都市部のすぐ隣に、さくも何もなく、人の生活圏と鹿のいる公園が入り混じるようにあるのは凄いことだと思う。

「お兄!」

つい、声を上げてしまう七菜香の気持ちが手に取るように判る。

気分がたかぶって、はしゃいでしまうのだ。

つまりは、俺も同じということだ。

同じ、つもりだったのだが、七菜香は鹿ではなく足元を凝視していた。

「フンを踏んだ……」

へらっ。

いや、笑うところでは無いだろう。

「以前、来たときはルリセンチコガネがいた」

「ルリセンチコガネ?」

「鹿のフンをお食べになる」

そうか、お食べになるのか。

「やっぱり冬はいないのかなぁ」

何だか残念そうだ。

落ちていた小枝でフンをつつく姿は、寂しげな少女のたたずまいすら漂わせている。

「宝石みたいに綺麗な色をしていて、彼らのお蔭で公園はクリーンに保たれる」

少女はうれいを帯びた口調で説明した。

クソ食い虫が宝石みたいだと?

イメージが湧かないが、なるほど、これだけの鹿がいたらフンで足の踏み場も無くなりそうなのに、そうはならないのは虫が食べて分解していたからなのか。

それにしても、コイツは興味の方向性が人と違って面白いなぁ。

「お兄、鹿せんべい買お」

「そうだな」

近くにある販売所に向かって歩き出す。

周りにいる鹿達も、それを察知したのかゾロゾロ付いてくる。

「フンの原料を調達するのだ」

そうか、食事というのは全てフンの原料と言い換えることも出来るのか。

俺は新たな視点を得た思いがした。

いや、食事をそんな風に表現してはいけないと、七菜香にちゃんと教育せねば……。

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