第15話~死~
ヤレンはベッドの上に寝かされていた。
その顔は穏やかに微笑んでいた。まるで寝ているような顔に、ボクはジユルが嘘をついていたのだと思った。
ボクがあまりに戻ってこないから、みんなで話し合って、ヤレンが死んだことにしたんだ。きっとそうだ。そうに決まってる。
何度も何度も心の中で唱えた。こんな終わりであるはずがない。ヤレンの終わりはもっとずっと先で、たくさんの人に惜しまれながら、その生涯を終えるんだ。
ボクは震える身体を支えながら、ゆっくりとヤレンに近づいた。窓から光が差して、ヤレンの金髪が輝いた。
ほら、太陽だってヤレンを照らしている。だから、ヤレンは寝ているだけだよ。
ボクはヤレンの頭の近くに座り、その顔を眺めた。
あんなに美しかった白い肌は、青白く血の気が失せ、唇も紫色に変わっていた。いつも目を細めて、ボクに微笑んでくれた瞳は固く閉じられ、もう開くことがない。
そう思った途端、ボクの中で何かが音を立てて崩れた。悲しいとか、苦しいとか、そんなありきたりな言葉では表せない。目の前が真っ白とか、真っ黒とか、そんなのもうどうでもいいんだ。
ただ、ヤレンがこの世から消えたという事実だけが、ボクの目の前にあった。
ボクは瞼の裏が異様に熱くなっていくのに気づき、セラムに叫んだ。
「今すぐ…今すぐ…ボクをどこか…遠くに飛ばしてください…」
「は?お前、何言ってるんだよ…。落ち着けよ…」
「落ち着けないんです。もう、もう、泣いてしまいそうなんです。でも、ここで泣いたら、街の守りが解けてしまうから…、早く早く、どこでもいいから…。地の果てまでボクを…飛ばして…」
ボクは涙を必死に我慢しながら、セラムを睨んだ。
セラムは一瞬迷ったが、すぐにボクの足元にひびを入れて、ボクを世界の裏側に落とした。そして、また別のひびが足元で開いて、ボクは落ちて行った。
落ちた先は、黒い海だった。波が岩に砕かれて、白い飛沫を上げて光っている。
ボクは砂浜にうずくまって、声をあげて泣いた。
「うわああああああ。なんで…なんでなんだ。ボクはあなたを…守りたかっただけなのに…。こんなに命を削って…好きな人も諦めて…それでもあなたを守りたかったのに…。あんまりだ…。こんなのあんまりだ…。ボクの苦労が水の泡だ…。ひどい…。ひどいよ…」
違う。そんなことを言いたいんじゃない。でも、ヤレンを罵る言葉が溢れて止まらなかった。
涙や鼻水、よだれをまき散らして、砂に身体が汚れるのもいとわず暴れた。
涙が口の中に入って、しょっぱくて仕方がない。それに潮風がボクには生臭く感じて、嗚咽を漏らしながら、げぇと吐いた。
嘔吐物が広がって、砂にゆっくりとしみこんでいく。ボクが今日、ヤレンが死んだとも知らず飲んだ水、食べた肉。あの時も確かに辛かったが、今の激しい雨のような感情に比べたら、どうと言うこともない。
ボクは泣きながら空を見あげた。星も月もない、真っ暗な夜。
「あなたがいない…世界は暗くて…汚くて…何にも…ない。」
ボクはまた、ひとりぼっちの夜に取り残されてしまった。言いようのない寂しさが胸を締め付けた。
こんなに辛いなら、いっそのこと死んでしまおうか。
そんな感情に憑りつかれそうになっても、この世界に残すものが多すぎて、ボクは死ぬことができなかった。
少しずつ爆発していた感情の起伏が緩やかになっていき、滝のように流れていた涙もゆっくりと落ち着いていった。
擦り過ぎて鼻や目が腫れてきた。それに叫びすぎて咽喉が痛い。
ボクはすんすんと鼻を鳴らしながら、海を見た。実は、海を見るのは初めてだ。こんなにも大量の水が引いては満ちを繰り返しているのか。
さっきまで、ヤレンのことでいっぱいだった脳が、もう別のことを考え始めていた。
「人間って…薄情なもんだね…」
ボクはぽつりとつぶやいた。だが、その言葉は波音に霞んで、ボクにもはっきりと聞こえなかった。
戻ると、ヤレンは棺の中に寝かされていた。
ボクはそれを見た瞬間、目頭が熱くなっていくのを感じて、慌てて目を逸らした。
真っ直ぐ見たら、また悲しみに支配されて、子どものように泣きわめいてしまう。それは、もうボクには許されない。
どこからともなく、香しい花の香りがした。おそらく、ヤレンの棺の中は花が溢れんばかりに敷き詰められているのだろう。白い花だろうか、ピンクの花だろうか…。何色でもいいと思った。ヤレンにはどんな色の花もよく似合うだろうから。
ヤレンの棺の横に、ジユルとイジュマ、セラムが座っていた。皆、目を真っ赤にして泣いていた。あのセラムでさえ泣いている。必死に歯を食いしばって我慢しているようだったが、口から低い嗚咽が漏れていた。
みんな泣いているのに、ボクだけが泣いていない。
ボクと彼らの間に少しだけ空間のずれがあって、ボクは別の世界から彼らの様子を眺めているような気がした。
そうだ。だって、彼らは最後までヤレンに寄り添っていたんだから当たり前だ。
それなのに、ボクは…。
胸の奥がずきずき痛んで部屋を出た。
ヤレンの部屋の真向かいは、ボクの部屋だ。今もボクが暮らしていた時のままなのだろうか。
少しの好奇心から、部屋の扉を開けた。大きな窓とベッド。その上に寝かされている小さな赤ん坊。
その赤ん坊を見た瞬間、世界から音が消えた。
ヤレンの子どもだ。
金色の生えかけた髪が、白いおくるみの中から見えていた。
ヤレンを殺した子どもだ。
そう思った。思ってしまった。
ボクは自分がゆっくりと赤ん坊に近づくのを止められなかった。
遠い世界を見ているかのように、ボクは己が過ちを犯そうとするのを、ぼんやりと眺めていた。
おくるみを剥ぐと、生まれて数日ほどの赤ん坊が眠っていた。猿みたいな顔だ。ボクは自分が、赤ん坊の首に手を掛けようとするのを感じた。
すると、赤ん坊がぱちりと目を開けて、ボクをじっと見た。
その目の色を見て、ボクは固まった。赤ん坊を殺そうと伸びた手が、痙攣したように震え始めた。
赤ん坊の瞳は金色だった。金色の瞳を持つ人間を、ボクは一人だけ知っていた。
「ありえない…」
気づかぬうちに、つぶやいていた。だが、そこでハタと気づいた。
果たして本当にありえないことだろうか。ボクは2人の本当の関係を知らない。もしかしたら、もしかしたら…。
でも、ボクが知らないだけで、王都には金色の瞳を持つ人間がいたのかもしれない。その男の子どもである可能性もあるのだ。けれど、本当のことは、もはや誰にも解き明かすことができない。
ボクは殺そうとして伸ばした手で、赤ん坊の頬を包んだ。温かい。それに、ミルクの匂いがする。
ボクはささやくように言った。
「君のお母さんは死んでしまったよ。君はひとりぼっちで寂しくないの?」
赤ん坊は口をぱくぱくと意味もなく動かして、そのまま目を閉じた。そんなことを問われても、生まれたばかりの赤ん坊が答えるはずがない。それに、寂しいという言葉はきっと難しくて理解できなかっただろう。
ボクはその金色の髪を優しく撫でた。
扉がゆっくりと開き、鼻をすすりながらセラムが入ってきた。ボクが赤ん坊を撫でているのに気づき、顔をしかめた。
「おい、さっき寝たばっかりなんだぞ。起きたらどうすんだよ。」
「すみません。一瞬起きましたが、今はぐっすり寝ているので大丈夫かなっと思って…」
ボクが手を離すと、セラムは少し迷うような動作をした後、おもむろに口を開いた。
「瞳の色…見たか?」
ボクはドキッとして、口をつぐんだ。見たと言っていいのか、なぜか迷った。だが、はぐらかすのもおかしいと考え頷いた。
「見ました。その…もしかして…とは思ったんですが、ヤレンはこの子の父親について、何と言っていたんですか?」
「…何も。」
消え入りそうな声でセラムが言った。ボクは耳を疑った。
「え?どういうことですか?どうして何も聞いてないんですか?」
「…聞く前にあいつが…死んだからだ。レナが生まれた時は…まだ意識があったが…顔面蒼白で…。あいつの枕元にレナを置いたら…ほんの少しだけレナを見て…名前はレナ・ブライト…と呟いて…それで…二度と目を覚まさなかった。」
セラムの頬に涙が伝った。慌ててセラムは涙を拭ったが、後から後から溢れているようだった。泣いているセラムの顔は、一度だけ見たイズミルの泣き顔に似ていた。
セラムは目を閉じて、はあと息を吐いた。何とか気持ちを落ち着かせようとしているように見えた。
「おれはレナの目を見て、兄貴の子だと思った。何の根拠もないけどな、そう思ったし、そう思うことにしたんだよ。レナの名前は、レナ・ブライト・レイトだ。お前も、レナのことはそう呼んでやってくれ。」
「…分かりました。ボクもそう思うようにします。」
イズミルの身体からヤレンの匂いがしたことは、ボクだけ知っている秘密だ。誰にも教えるつもりはない。それに、たった一回だけの過ちで子どもが生まれるのは、奇跡に近い。ありえないことではないが、限りなく0に近いことをわざわざ伝える必要はないと思った。
ボクとセラムが戻ってくるのを、イジュマとジユルが待っていた。
ジユルが遠慮がちに、口を開いた。
「あのさ、ベオグラード。そろそろヤレンさんを…埋葬するからさ…。もし、最後に話したいことがあれば…その…伝えてあげてね。」
埋葬という言葉に、胸がずきっと痛んだ。もうすぐ、ヤレンは埋められてしまう。そうしたら、もう二度と会えない。
ボクは頷いて、棺の横に跪いた。
黄色の花にヤレンは埋もれるようにして寝ていた。きれいな黄色だ。アドニの瞳の色によく似ていた。
ボクはそっとヤレンの冷たく冷えた頬に手を当てた。
死んでもなお美しい人だ。ボクはヤレンを守りたかった。幸せになってほしかった。ただ、それだけだったのに、ボクはいつ道を間違えたのだろう。
ボクは、ほとんど誰にも聞こえないくらい小さな声で、ヤレンにささやいた。
「ヤレン、不思議なことがあるんです。イズミルの時も確かに悲しかった。だけど、ヤレンの時は、もう頭がおかしくなりそうなくらい悲しくて…。やっぱりヤレンはボクにとって特別なんですね。たぶんそれは、同じ人を愛して、愛された過去があるからなのかもしれません。」
そこでボクは言葉を切った。涙が溢れそうになって、それ以上話すことができなかった。なんて厄介な能力を持ってしまったんだろうと、ボクは辛くて仕方がなかった。
ボクがただの人形だったら…
あの時、アドニが死にそうになっても涙を流せない薄情な子どもだったら…
そしたら、きっとヤレンには出会えていなかった。
「これでいいんです、ヤレン。」
ボクは独り言のようにつぶやいた。
何がいいのかなんて聞かないでほしいけど、でも確かにこれでいいと思った。
戦争が始まる前、ヤレンに言った「これでいい」は正直強がりだった。自分の気持ちを無視して、そう思い込みたいだけだった。
だけど、今回は本当に「これでいい」と思った。
ボクはヤレンと出会えて幸せだった。
*
一睡もできず、騎士の国に戻った。
騎士の国はもうすぐ夜明けだった。ボクはセラムに見送られて、城まで歩いた。
歩きながら、ボクは白んでいく空を見あげ、ヤレンとの最後の別れを思い出した。
棺の蓋が閉じられ、生まれ変わる為の祈りが終わると、ヤレンは埋められた。
土が棺にかかって、だんだんと見えなくなっていた。
ヤレンは花と共に朽ちて、棺の中で土に還っていく。そうして、残された魂は新しい肉体を求めてさまようんだ。次の生、あるいは次の次の生でもいい。いつか生まれ変わったイズミルと出会えるように、ボクは祈った。
それが、ボクにできる最後のことだった。
不思議と涙は出なかった。頭の奥がしんと静まり返って、すべてが透き通って見えた。
あんなに悲しくて苦しくて仕方がなかったのに、何も感じなかった。ただ、息を吐いて吸うを繰り返し、物を食べて用を足して、今この道を歩いている。
そうして今日も秋と戦う。
辛いとは思わなかった。
身体がひんやりと冷たくて心地が良かった。最近は始終、熱っぽくて頭もクラクラして仕方がなかったが、やっと調子が戻ったようだ。
力がみなぎってくる。それに、今は何も恐ろしくなかった。
ボクは自分の手の平を見た。真っ白な肌。手の平に豆ができ、ところどころ破れている。握り締めると、最初は冷たかった手の平が、だんだんと温かくなっていった。
ボクは生きている。
この血の通った身体で、一体何ができるだろうか。分からない。守りたい者を一つ失った。だけど、すべてを失ったわけじゃない。
さあ、行こう。ボクは走り出した。
いつもの戦場。
今日は日差しがやけに眩しく感じて、目の前が真っ白く飛んで見えた。ボクはいつも以上に目を凝らさなければ、そこに誰がいるのか把握できなかった。
陽炎のようにぼんやりとした視界の中心、栗色の物体がゆっくりと歩いて来た。近づくにつれて、徐々に輪郭がはっきりして、それが秋だと気づいた。
秋は相変わらず、ニコニコと笑っていた。
「おはよう~。いい天気だね!」
「…ええ、腹が立つほどいい天気ですね。」
ボクのしゃがれ声に、秋がきょとんとした。
「なんか、変な声になってるね。咽喉潰れてない?嫌なことでもあった?」
「それを聞いて、一体どうするんですか?慰めてくれるんですか?違うでしょ?」
「えー、別にそうじゃないけどさぁ。話題提供じゃん。もっと話そうよ。よく見たら、顔が腫れてるね。それに目が腫れぼったいよ?夜って泣けるんだねぇ。羨ましいよ。」
ボクはその言葉に、ほんの少し目を開いた。
「…そうですか。ボクは感情なんて不要だと思いますよ。何も感じなければ、悲しみも苦しみも喜びも、そんなもの知らなければ、あなたのように戦うだけの存在なら、どれほど良かっただろうと思います。」
「そう?秋は感情を持てた方が、楽しそうだって思うけどなぁ。だってさ、殺す時、いつも皆泣くんだ。その意味を理解できた方が、とっても楽しいと思わない?秋も死んだら理解できるかな?」
ニコッと秋が笑った。ボクは自分の頬が緩んでいくのを感じた。
「さあ、どうでしょうね。今から試してみましょうか。」
「うん!そうだね。そうしよう!夜、今日はどちらかが死ぬまでだからね。」
「分かりました。実はボクも同じ提案をしようと思っていたんです。今日が、決着の時だという予感がします。どちらの終わりかは分かりませんが。」
ボクがそう言うと、秋が刀を構えた。ボクも腰に帯びていた剣を抜いた。
ボクと秋の間に風が吹いた。そして、次の瞬間には、互いの刃が音を立ててぶつかった。いつもとは明らかに違う。本気の速度だ。
ボクは柄を握り締めて、ぎりぎりと力を込め、間合いを詰めてくる秋を弾き飛ばした。
頭痛もない。身体の火照りもない。咳も出ない。
真っ白な風景に秋だけが浮かんで見えた。
誰も邪魔するものはいない。速すぎて誰もボクたちの姿を捉えられないだろう。
秋は容赦なく、首や脇の下、太ももを狙ってきた。ボクにはその剣筋が読めた。ボクと秋は所詮、同じものだ。
最小限の動きで秋の突きをかわして、秋の刀を剣で思いっきり横から叩いた。びしっと音がして、刀が折れた。秋がぎょっとしているのが分かった。
「え、噓!」と秋が叫ぶのが、遠くに聞こえた。
ボクは昔、ヤレンから言われた言葉を思い出していた。刀は縦の衝撃には強い、だが横からの衝撃には容易く折れてしまう。今の君は刀と同じだよ、と。
通常の刀であれば、こんなに容易く折れなかった。これは、連日の戦いで少しずつ消耗が積み重なってやっとできたことだ。
ボクは低く剣を構えて、秋に突っ込んだ。秋は慌てて折れた刀を握り締めて応戦した。身体と身体が勢いよくぶつかる。ボクの剣はそのまま真っ直ぐ秋の胸に突き刺さった。そして、秋の刀はボクの腕をかすっただけだった。
秋が「がはっ」と血を吐き、よろよろと地面に座り込んだ。自分の胸を貫いている剣を見て、それからボクを見上げた。
「わあ、秋、死ぬんだね。すごい、血がこんなに出て、地面を濡らしてるよ。でも、ちゃんと心臓差してくれないと痛いじゃん。」
「すみません…。少しずれてしまいました。止めは必要ですか?」
すると、秋は首を振って、仰向けになって寝ころんだ。
「大丈夫。とってもいい気持ちだから。痛いのも、息苦しいのも、何だか心地いいね。空が青いよ。きれいだ。」
「今日は、空が青いんですね。」
「そうだよ。真っ青だよ。ねぇ、最後にいいこと教えてあげる。」
ぜいぜいと秋が胸を上下させ、口から血の泡を吐きながら言った。
「あのね、人形の最後は真っ白になるんだって。髪も肌も真っ白。それが人形の終わりなんだって。夜は肌が大分白くなってきてるから、もうすぐ髪も白くなり始めるよ。」
「……。知らなかった。そうなんですね。髪が白くなれば…それが終わり。いいことを知りました。」
「でしょ。秋ってば、結構役に立つんだから。あ、もうなんにも見えないや。残念、涙…流せなかったな…」
秋は最後に咳をして、静かに目を閉じた。涙が一滴、頬を伝った。
ボクは胸に刺さった剣を抜き、手を組んでやった。
「大丈夫。涙は流せましたよ。一滴でも、それは涙ですから。どうか、あなたの次の生が幸福でありますように。」
ボクはジユルたちを真似して、手を組み目を閉じた。自分が殺した人間の来世を願うなんて、おかしな話だが、ボクはどうしても祈りたかった。
祈り終わって立ち上がろうとした瞬間、背後に気配を感じた。いつの間にか、間合いに入られていた。緊張で身体が震えるより先に、身体が機械的に敵を殲滅しようと動くのを感じた。
剣を握り、振り返ると同時に敵の首に向かって剣を滑らせた。
太陽がまぶしくて敵の顔は良く見えない。白く飛んでその顔が見えない。
だが、剣が首に触れる瞬間、その耳に金のピアスが光っているのが見えた。
あっと思った時には、遅かった。
剣は滑らかに空気を滑って、首を切ってしまう。それを止めることができなかった。
だが、その瞬間、剣に糸が幾重にも巻きつき、ぎりぎりのところで動きを止めた。ボクは驚いて引き抜こうとしたが、びくともしなかった。ボクが手を離すと、糸がそのまま剣を飲み込み、砕いて地面に落とした。
真っ白な風景に、黄色の瞳が浮かんで見えた。
「アドニ…」
ボクはいつの間にかつぶやいていた。
今、ボクはアドニを殺すところだった。その事実に気づいた瞬間、ぞっとした。
白く飛んでいた景色が、徐々にはっきりと見え始めた。目の前にアドニが立っていた。そして、その隣には黒い髪と赤い目を持つ女性が居た。マリアだ。マリア・レンブロだ。
マリアは鋭い瞳で、ボクを睨んだ。
「わたしの恋人を奪っておいて…。性懲りもなく、また奪おうなんて…。許さない…」
そう言って、糸を四方八方から出現させた。ボクはその糸を見て、マリアが宝石になったのだと理解した。赤い瞳が今は宝石のように輝いていた。
そして、アドニを守るような姿勢。ずきっと胸が痛んだ。
その糸は指だろうと首だろうと簡単に切り裂くほど鋭い。絡まったら、身体がバラバラになる。
ボクは視界を覆うような糸が、波のように襲いかかってくるのを黙って見ていた。
涙を流すか迷った。アドニを殺しかけた衝撃で、気が遠くなっていた。もう何もかも忘れて、秋のように穏やかに死ぬのもいいかもしれない。
「馬鹿!ベオ、死ぬ気か!?」
アドニの声がすぐ隣で聞こえて、ボクははっとした。
いつの間にかアドニがボクの横にいた。ボクをかばうように抱きしめると、身体から炎を出して、糸を燃やそうとした。だが、糸は燃えない。
ボクはその温かな腕の中で、煙草の臭いを感じて目を閉じた。目じりから涙がこぼれる。
ボクは小さく小さくつぶやいた。
「馬鹿だな…。本当に馬鹿…」
そうして、また涙を流した。この涙は何だろう。喜びでも、悲しみでもない。ボクには分からない。
マリアが、甲高い声でアドニを罵っているのが聞こえた。
「な、何をしているんですか!? その男はわたしの恋人を殺した奴なんですよ!それを庇うなんて、気でも触れましたか!?」
「ああ、俺は気が触れてるんだ。ちょっと黙っててくれるか、マリア。」
アドニが静かに言った。その声には、有無を言わさぬ響きがあった。マリアは一言二言、アドニに吐き捨て、どこかへ走って行った。
ボクはアドニの胸に、顔をうずめていた。涙を流している顔を見られたくなかった。それに、こうやってアドニを近くに感じられるのは、きっとこの先ない。最後に、少しでも長くアドニの匂いに包まれていたかった。
アドニは、はあとため息をついて、ボクを見降ろした。
「まったく何考えてるんだ、ベオ。死ぬところだったんだぞ。」
「その言葉、そっくりそのままお返しします。ボクは解く能力者ですよ。死ぬわけないじゃないですか。」
「いや、完全に諦めた顔だったぞ、お前。」
ボクはギクッとして、うなだれた。確かに、ボクは生きるのを諦めた。こんなに辛くて、しかも自分の大切な人を殺してしまいそうになるのが、耐えられなかった。
アドニはボクから身体を離して、うなだれるボクの顔を持ち上げた。アドニと目が合う。その顔は苦しそうに歪んでいた。
「ヤナを差し出せば、それで終わりだったはずなのに、どうして関係ない国を巻き込んだんだ。ベオ。」
咎めるような口調。ボクは乾いた笑みを浮かべた。
「…ヤレンを差し出したくなかったからです。それだけです。」
「にしても、やりすぎだ。これじゃあ、どちらか死ぬまで争うことになる。それを、ヤナは望んだのか?違うだろ?」
「よく分かってますね…。ええ、ヤレンには止めるように泣いて頼まれました。これはボクが独断で行っていることです。」
「…だろうと思ったよ。なあ、ベオ。一度、ヤナに会わせてくれ。ヤナと話して、どうするか決めたい。今なら、まだ何とかなるはずだ。」
その言葉に、ボクは胸が張り裂けそうになった。
ボクは震える声で言った。
「ヤレンは…死にました。」
アドニの顔から表情が消え、信じられないというように首を横に振った。
「噓…だろ?なんでヤナが死ぬんだ…」
「…それは…言えないですが…、それでもヤレンが死んだのは本当です。」
ボクが嘘をついているわけでないと分かると、アドニの瞳が涙でいっぱいになった。アドニは唇を震わせて目を閉じた。涙が頬を伝う。
その涙を見て、アドニはまだヤレンを愛していたと悟った。長く共に過ごした日々が、アドニの脳裏に浮かんでいるのだろう。
アドニは「ああ…」と小さく呟いた。
「俺は…ヤナを諦めたつもりだったが…死んだと聞くと…ひどく辛いな…」
それだけ言うと、次はアドニがボクの胸に顔をうずめた。ボクはどうしたらいいのか分からず、あわあわとしたが、結局その頭に手を回して抱きしめた。
敵同士のはずなのに、ボクたちは今抱き合っている。変だ。だけど、それを咎める人はいなかった。
ややあって、アドニがボクの服から顔を離して、ボクを見上げた。そして、ボクの唇に軽くキスをした。
ボクがぎょっとしているのに気づき、微笑んだ。
「お前は優しいな。好きだよ、ベオ。なあ、どこか遠くへ行って、二人だけで暮らさないか。」
「…それができないのは、よく分かっているでしょ、アドニ。」
アドニは寂しそうに笑った。
「ああ、分かっている。でも、そう願わずにはいられないんだ。お前はここに残るのか?」
「はい、残ります。ボクにはまだ守るものがあるので…」
「そうか。俺もこの蜘蛛の刺青がある限り、竜の国の駒として死ぬまで使われるだろう。どうあがいても、ここで別れるしかないんだな…。」
「そうです。そうするしかないと思います…。ごめんなさい…」
ボクが目を伏せると、アドニがボクの髪を優しく撫でた。
「分かったよ。いい加減、諦める。だから、これが最後だ。」
そう言って、ボクの唇に唇を重ねた。ボクは、その煙草の臭いがする口づけを受け入れた。ボクたちは戦場のど真ん中で、キスをした。
周りには誰もいない。だが、確かに戦場だった。すぐそこに秋が寝ている。遠くでは騎士の怒声が聞こえる。
ボクは目をつぶって、舌のしびれる感触に集中した。このキスが終われば、ボクたちは敵同士に戻る。だから、離れがたくて、何度も何度も唇を重ね、舌を絡ませた。
そして、ボクたちは唇を離した。
アドニが悲しそうに顔をしかめて、ボクを見ている。おそらく、ボクも同じような顔をしているはずだ。
ボクはアドニの頬を撫でてつぶやいた。
「好きです。アドニ。ボクはずっと前から、あなたが好きでした。だけど、伝えても苦しいだけだからと、伝えることができませんでした。今のキスで…やっと決心がつきました。これで、お別れでも、ボクはずっとあなたが好きです。もう忘れて何て言いません。どうか、最後までボクを覚えていてくださいね。」
「ああ、俺も好きだ。お前が好きだ。互いに好きだって分かったのに、一緒に居られないのは正直辛い。でも、仕方がない。これで俺はすっぱり諦めるよ。」
そう言って、アドニはボクの額にキスをして立ち上がった。ボクを見下ろしているようだが、影になって表情がよく見えない。もしかしたら、泣いているのかもしれないなと思った。
アドニはゆっくりとボクに背を向けて歩いていった。
ボクはその後ろ姿を見送り、唇に指を当てた。最後の思い出としてはできすぎだと思った。あまりに幸福で、悲しみも苦しみも、全部を忘れていた。
今も身体からアドニの煙草の臭いが微かにした。
その臭いだけで、ボクはほんの少し幸せになった。
そして、次の瞬間、涙で目の前が霞んで見えなくなった。
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