第2話~竜の国~

 銀色の道を抜けると、真っ赤な部屋に繋がっていた。天井から床まで全てが真っ赤に染まっていた。一瞬、血かと思い警戒するが、ただの装飾だった。

 ボクの目の前の壁には、大きな竜が描かれており、その足元に玉座が鎮座していた。金と宝石で飾られた煌びやか玉座だ。

 ボクは、自分がしたことに、今気づく。おそらく、ここは竜の国の王都だ。

 玉座の横には屈強な兵士が立ち、鋭い眼光でこちらを睨んでいた。図体がでかいばかりで、何の役にも立たない木偶の坊だと分かった。それよりも、2階の細くなった通路の上に立ち、こちらを見ている人間たちの方が警戒すべき対象だ。

 アドニは、ボクを引っ張り、玉座の前まで連れて行った。

 兵士が鋭い声で「止まれ」と命令した。アドニは、言われた通りに、止まってひざまずく。そして、ボクにも同じようにするように言った。ボクは黙って従う。

 ややあって、玉座の後ろの扉が開き、人が姿を現した。

 整えられた金髪に、青い瞳を持つ、アドニと同い年くらいの青年だった。王冠は被っておらず、真っ赤な軍服に、いくつも勲章を付けていた。ボクは一目で、この青年が王であると分かった。

 その後ろから、王に続いて、長い黒髪に、黒い瞳を持つ、年齢不詳の女が入ってきた。真っ黒なドレスに身を包み、まるでおとぎ話に出てくる魔女のような姿だ。

 竜の国の王は、ドカッと玉座に腰かけた。

「面を上げよ。」

 低い声命じた。ボクが顔を上げると、王はニヤッと不気味な笑みを浮かべた。

「これが、最強の人形か?思ったよりも随分と可愛いらしいじゃないか。名は何と言うんだ?」

「ベオグラード・ファセスと申します。」

 ボクが名乗ると、竜王はぴくっと頬を痙攣させ、ボクを上から下まで眺めた。

「ファセス…。貴様、出身はどこだ?」

「…ボクは孤児なので、分かりません。何か問題でもありましたか。」

「いや、何、聞いたことがあるような気がしただけだ。歓迎しよう人形。貴様には、ここにいる宝石以上の活躍を期待するぞ。」

 そう言われて、ボクは改めて、周りを見渡した。隣でひざまずいているアドニの他にも、明らかに一般人とは雰囲気が違う者たちがいた。老若男女の能力者が、ボクに注目していた。だが、ボクには心底どうでもいいことだった。仕事は変わらない。

 王は大きく欠伸をし、隣に立つ女に命じた。

「クモ、この人形にも、蜘蛛を入れておけ。」

 クモと呼ばれた女が頷き、玉座を下りて、こちらに歩いて来た。アドニが、ほんの少し顔をしかめる。ボクは、その表情の変化を見逃さなかった。

 クモは、ボクの頭の上に手をかざし、小さくうなるように呪文を呟く。すると、クモの手が黒い光を放ち始めた。その禍々しい黒い光がボクに触れる瞬間、ばちっという音がして、クモの手がはじかれた。見ると、手が真っ黒く焦げていた。

 誰もがあっけに取られているのが分かった。クモは己の焦げた手をまじまじと見つめ、それから、ボクをじろりと睨んだ。

「…貴様、何をした?」

「特に何もしていませんが。」

 ボクの答えに、クモは信じられないというように、目を見開いた。

「そんなはずはない。これは魔術だ。貴様、何者だ?」

「…ボクの父にお尋ねになった方が良いかと思います。ボクは自分が何者か、知りません。」

 これ以上聞いても無駄だと判断したようで、クモが王を顧みた。

「申し訳ございません。私の術は、この者には通じないようです。陛下、どうか竜の力でこの者を縛ってはいただけないでしょうか?」

 王の表情に、一瞬、動揺が走った。その動揺の意味は、よく分からないが、痛いところをつかれたとも読めた。

 ほんの数秒、考える素振りを見せたが、すぐに平常通りの表情に戻った。

「良かろう。人形、こちらに来い。」

 ボクは言われた通りに、玉座の前まで言った。王にひざまずくように言われたので、片足を床につけ、首を垂れる。すると、王がボクの肩に触れて呟いた。

「我が名は竜、ヴォルガ・ブライト。我が盟約に従い、彼の者を縛り給え。」

 神々しい光が輝き、身体に変化があるのかと思ったが、何も起こらない。ボクは、ちらっと王を盗み見た。何も言うなというように、ボクを睨みつけていた。ボクは、小さく頷く。

 王はボクの肩から手を離すと、全員に聞こえるように声を張り上げた。

「これで、我々も次の段取りに進める。一刻も早く、レイト人を駆逐できるように励め。」

 全員が頷いた。結局、ボクはまた人殺しの道具として使われる。それが、人形として、あるべき姿だ。だが、アドニの浮かない顔が、なぜか気になった。

 王が部屋を出ると、2階の細い通路から、ボクを見降ろしていた者たちが下りてきた。

 最年少らしき、金髪翠目の少年が、興味津々でボクを見上げた。

「へー、人形って、本当に表情がないんだね!噂通りだ!ねぇねぇ、今までどんな生活してたの?」

 見た目は可愛いが、身体から血の匂いがした。最も危険な存在だと理解する。よく見ると翠色の瞳がキラキラと輝いていた。

 ボクが答えないので、少年の声に苛立ちが混じった。

「何?口きけないの?さっきまで、王様に返事してたじゃん。答えろよ。」

 その瞬間、空気が軋み、ボクの首が。まるで、大きな手に握り潰されているような感覚。痛みで顔を少ししかめた。だが、ボクにとって、ここで殺されようが、どうでもいいことだった。

「フォレス…!てめぇ、いい加減にしろよ…!」

 恐ろしい形相でアドニが怒鳴り、少年の首元をねじりあげた。少年―フォレスが、酷く驚いた顔でアドニを見つめた。

「急に、どうしたの?驚いたなぁ。そんな怖い顔しないでよ。ちょっと、からかっただけじゃん。」

 その言葉を合図に、首にかかっていた力が抜けた。ボクはぺっと血の混じった唾を吐き、首を擦った。

 アドニはパッとフォレスを離すと、ボクの頬に手を当てて、心配そうにのぞき込んだ。

「ベオ、大丈夫か?変に痛いところはないか?」

「…大丈夫です。」

「そうか…。良かった…。」

 安堵の色を浮かべた。そして、キッとフォレスを睨んだ。

「遊びでやって良いことと、悪いことがある。2度とするな!」

「はいはい、分かりましたよ。そんな必死になって、馬鹿みたい。」

 明らかに気分を害したように、フォレスが頬を膨らませ、ボクをじろりと睨んだ。

「何か知らないけど、アドニに気に入られてよかったねぇ、人形。せいぜい、役に立って死んでよね。」

 ボクがコクリと頷くと、ニヤッと不気味な笑みを浮かべて、鼻歌交じりに部屋を出て行った。他の宝石たちも、皆、散り散りになって去っていく。残ったのは、アドニと、最年長らしき灰色の髪をした男だけだった。ゆっくりとした所作だが無駄がなく、研ぎ澄まされた雰囲気を持ていた。

 男はやれやれと首を振り、ボクに笑いかけた。

「嬢ちゃんも、貧乏くじ引いたなぁ。可哀想に。まあ、頑張ってくれ。俺はフロムってんだ、よろしくな。」

 男―フロムがボクに言った。ボクは、訂正すべきかと思って口を開いた。

「ボクは男です。」

「…嘘だろ?」

「いや、こいつは男だ。髪が長いから、最初はそう見えるが、よく見ると男っぽい顔してるんだぜ。」

 アドニがボクの頭に顎を乗せて、ニッと笑った。フロムは、ボクとアドニを見比べて、「ふうん」と曖昧に返事をした。

「まあ、何であれ、味方が増えるのはありがたいことだ。宝石連中は、なかなか癖が強い奴ばかりだから、あんまり刺激しないでおけよ。」

 ひらひらと手を振り、フロムが歩いて行った。全員がいなくなった途端、アドニが、安堵の息を漏らした。

「良かった…。何とかなったな…。始終、冷や冷やしっぱなしだったぜ…。首は本当に大丈夫か?フォレスの野郎、加減ってものを知らないからな…。」

 ボクが頷くと、ボクの髪をくしゃくしゃと撫でた。

「そうかそうか、お前が丈夫で良かったよ。はれて俺たちは仲間だな。これから、よろしく、ベオ。」

 見上げると嬉しそうに、頬を緩めていた。ボクは、その表情を見ると、どうも気持ちが落ち着かなくなるので、さっと目を伏せた。

 *

 ボクは、アドニに連れられて、城の中の庭を歩いていた。寒々とした木々は、凍りつき、足元には雪が積もっていた。

 吐く息は白く、寒さで顔が痛む。隣を歩くアドニも寒そうに、首を縮めていた。

「うー、今日は特に冷えるな…。お前、こんなに寒くても、顔色一つ変えないのな。そこまでいくと、ある意味尊敬するぜ…。」

「寒さには慣れているので。」

「へぇ、でも、寒いもんは寒いんだろ?」

 そう言って、冷えた手をボクの首の後ろにぴたりとつけた。ボクがビクッと反応して、手を払いのけると、アドニが面白そうにニヤッと笑った。

「やっぱり寒いもんは寒いじゃねぇか。」

「…正確には冷たいですが。」

「はは、その通りだ。その迷惑そうな顔を見れて、俺は満足だよ。」

 ほんの少し表情に出てしまったのを目ざとく見つけられて、たじろぐ。

 アドニは目を細め、口に煙草をくわえると、火をつけた。

「もっと表情があって然るべきだと俺は思うぜ。そんなに隠そうとするな。人間なんだからさ。」

 煙を吐き、穏やかに微笑んだ。ボクは、何と答えたら良いか分からず、目を伏せた。相変わらず、変なことを言う人だ。

 ボクが答えないので、アドニは前を向いて、黙って煙草を吸った。

 しばらく、物も言わずに歩いていると、目の前の城壁の扉が開き、わらわらと兵士の集団が入ってきた。アドニがボクの手を引き、彼らに道を譲る。兵士はちらりとボクたちを見たが、特に礼も言わずに通り過ぎていった。

 その後ろを、手錠を付けられた捕虜たちがよろよろと続いた。その姿を見て、アドニの顔に憎悪が浮かぶ。

「…レイト人が。」

 低く呟いた。その言葉で、彼らがボクの敵だと理解した。見た目は、ボクたちとほとんど同じだ。だが、髪や瞳の色が、青や紫、赤と色鮮やかで、明らかに普通の人間とは異なると分かった。

 彼らはこの寒空、戦闘で負傷したのか、血だらけでボロボロの服を着ていた。寒さで顔が青く、今にも死んでしまいそうなほど、弱々しい。中にはぽろぽろと涙を流しているものもいた。

 彼らの未来に待つのは、死だけだ。ボクには、それが嫌と言うほど分かった。だが、捕まるようなへまをするのが悪い。

 一行が通り過ぎると、アドニが煙草の吸殻を捨てて、歩き出した。吸殻は、一瞬で燃え上がり、炭になって地面に落ちた。

「今のがレイト人、俺たちの敵だ。ああやって弱々しく見せているが…、実際は卑怯な連中だ。…見てるだけで気分が悪い。」

 アドニの顔が歪んだ。普段のボクなら、心底どうでもいいと切り捨てるはずだが、何だか気になった。

「彼らはただの弱者にしか見えませんが、一体、あなたに何をしたんですか。」

 ボクの質問に、アドニが口を一文字に結んだ。ややあって、苦々しい表情を浮かべた。

「…俺の家族を殺しやがったんだ。セルシンは元々、政治家一族なんだ。俺の親父はレイト人を擁護していたのに…、馬鹿なレイト人が親父もお袋も妹も全員殺して、吊し上げたんだ。しかも、お袋と妹は強姦されてた。」

 アドニは苦しそうに、ぐっと拳を握った。

「どうして、何の罪もない人間に罰を与えたのか、俺は神を呪ったよ。そして、レイト人もな。それから、俺は復讐の為に、宝石になった。愚かだと罵ってくれていいぜ。お前には、真っ当な道を行けと言いながら、俺は自ら汚れにいったんだからな。」

 アドニが己を卑下し、乾いた笑みを浮かべた。さっきまで、無邪気にボクにちょっかいを出していたのに、今は見る影もない。ボクは、こんなに感情の幅が広い人を見たことがなかった。これが人間らしいというのだろう。

 ボクは黙ってやり過ごすことができなかった。気づいた時には、口火を切っていた。

「…どうでもいいことです。あなたが何を思っていようと、ボクには関係ないし、その行いが愚かかどうか、ボクには判断できません。」

 ボクの答えはおそらく間違っていたが、アドニはボクを責めることなく、ただ頷いた。

「そうかい。まあ、それもそうか。」

 そこで、アドニがおもむろに立ち止まり、目の前の建物を指さした。

「ここが、俺たち宝石の宿所兼仕事場だ。場所は覚えたか?そうか、それならいい。すっかり冷えちまったな。俺の部屋で温まろうぜ。」

                   

 建物の中は冷え冷えとしており、どんよりとした暗い雰囲気が漂っていた。ボクたちは、靴についた雪を払い、階段を上った。

 元は貴族の邸宅だろうか。床も天井もすべてが大理石でできており、煌びやか装飾が施されていた。さらに、階段の踊り場には肖像画が飾れていた。全員金髪で、違いと言ったら瞳の色だけだ。

 三階まで上ったところで、アドニが廊下を進み、角の部屋に入った。そこは、今までの装飾を見た後では、質素に思えるほど、何も無い部屋だった。大きな窓の両脇にベッドが1つずつ置かれ、その真ん中に丸いテーブルとソファが置かれていた。さらに、テーブルの上には、灰皿が乗っており、既に溢れんばかりに吸い殻が積みあがっていた。

 アドニは、壁に埋め込まれた暖炉の前に行くと、薪を無造作に数本放り投げて、手をかざした。すると、急に薪がぱちぱちと音を立てて、燃え上がった。

「今、火を入れたばかりだから、ちと暖まるまで待ってくれ。」

「はあ、やれやれ」とアドニがソファに腰掛けて、煙草を吸い始めた。ボクは、どこにいればいいのか分からず、立ち尽くす。すると、アドニが手招きした。

「どうした?こっち来いよ。」

 ボクが言う通りに隣に腰かけると、アドニは吸いかけの煙草を灰皿に置き、ボクをひょいっと持ち上げて、股の間に座らせた。ボクは、何が起こったのか分からず、固まった。アドニは、自身のコートを広げて、ボクを包んだ。

 アドニの心臓の音が背中越しに伝わってきた。ボクは、自分が激しく動揺していることに気づいた。

 アドニがボクの頭に顎を乗せた。

「寒いからさ、しばらく、湯たんぽになってくれよ。」

 ボクがコクリと頷くと、鼻歌交じりに、煙草を吸い始めた。ボクに灰が落ちないように、配慮しながら吸ってくれているようで、灰を被ることは無かった。

 煙草の臭いが、ボクを包んだ。アドニの身体の臭いと同じで、何だか落ち着いた。

 アドニは、灰皿に煙草を押しつけて消すと、ボクをぎゅっと抱きしめた。アドニの唇がボクの首に当たって、ビクッと反応してしまう。

「お前、本当にあったかいな。って何だよ。首が熱いぜ?どうした。」

「いえ…、何でもないです。」

 自分の顔がまた熱くなるのを感じて、これ以上はまずいと立ち上がった。

「部屋も温まりましたし、もういいですか。」

「ああ、ありがとな。」

 背中越しに礼を言われて、ボクは振り返ることなく、部屋を出た。真っ赤になった顔を見られたくない。かといって、どこに行けばいいのか分からない。

 しばらく、部屋の前で立ち尽くし、グラグラと揺れた感情が落ち着くのを待って、部屋に戻った。

 *

「ねぇ、いいじゃない。」

 女の甘い囁き声で目が覚めた。ボクは、薄っすら目を開く。

 反対側のベッドに、女が腰掛けて、寝ているアドニの髪を撫でていた。栗色の長い髪を持つ、妙齢の女だ。ボクは、その女の顔に見覚えがあった。しばらく考えて、宝石の一人だと気づく。

 アドニは明らかに迷惑そうに、顔をしかめていた。

「嫌だね。お断りだ。そこに、ベオが寝てるのが分かんねぇのかよ?」

「大丈夫よ、お子さまは寝ているわ。それに、あなた、恋人と別れたんでしょ?また、前みたいに相手をしてよ。」

「…何でニコシアが知ってんだ。」

「相手から聞いたのよ。付き合っても、その先が全然、面白くないって言ってたわよ?誰にでもニコニコして、特別扱いしないらしいじゃないの。来るもの拒まずなくせして、実際は少しも相手を知ろうとしないんでしょう?それじゃあ、飽きられても仕方ないわね。」

 女―ニコシアに指摘されて、アドニが黙り込んだ。ニコシアが、面白そうに微笑んだ。

「図星のようね?だからね、いいじゃない。私はそんな面倒くさいこと言わないわよ?」

「…嫌だ。気分じゃねぇ。」

「あら、珍しいわね。言い寄られたら、誰とでも関係を持つくせに、何か心情の変化でもあったの?」

「…別に、誰とでも寝てるわけじゃないぜ。」

 アドニはニコシアの手を払い、布団に潜り込んだ。ニコシアは、恐ろしい程、冷酷な表情になって、布団を剥ぐ。

「へぇ、そう。誰なら手を出さないのか、教えてほしいわね。」

「寒いから布団返せ。」

「答えたら、返してあげるわ。」

「…ただ単に、法律は守ってるって話だよ。ガキには手を出さない。最低でも18歳以上じゃねぇとな。答えたんだから、さっさと布団返して、出ていけ。」

 アドニがニコシアの手から布団を奪おうと、上半身を起こして手を伸ばした。だが、その前にニコシアが、微笑を浮かべて、アドニの顔に顔を近づけた。

「もっと面白いこと言うかと期待していたけど、残念ね。あなたを無理やり操ったら、どんな顔をするのか見てみたくなったわ。」

 ニコシアがニコッと笑うと、アドニの顔に恐怖が広がった。

「ま、待て…。それだけは勘弁してくれ…。」

「嫌よ。ねぇ、アドニ、私を楽しませて。。」

 ニコシアの紫色の瞳がキラリと輝く。すると、アドニが苦悶の表情を浮かべて、ニコシアに顔を寄せて、キスし始めた。

 舌を絡めて、激しく口づけした。互いの表情がぼうっと熱を持ち始めたところで、アドニがニコシアの首に唇を添わせて、押し倒した。胸元を開き、乳房をくわえるように舐める。

「あっ」とニコシアが小さく叫び、快楽に表情を歪めた。吐息が部屋に響く。

 まるで、野獣だ。唸り声とも、叫び声ともつかない声が小さく聞こえた。

 アドニは乳房から口を離すと、もう一度、唇にキスし、ゆっくりと下半身に手を伸ばした。

 ボクはそれ以上見ていられず、ぎゅっと目を閉じた。だが、目を閉じても、音だけは防げない。

 ニコシアの高い声が、一段と大きくなった。何をしているのか、ボクには分かった。アドニの吐息も聞こえた。

 ギシギシとベッドが軋む。

 ボクはなぜか、心臓が痛くて仕方がなかった。耳も目も全てをそぎ落としたい。そんな衝動にかられた。

 下半身が熱を持って熱い。それに、頭が上手く動かない。ただ、声を聞いているだけなのに、どうして身体が反応するのか分からなかった。

 一体、どのくらい続いたのだろうか。ひどく長かったように感じたが、実際は1時間程度だった。

 アドニが小さな声で悪態をついた。

「てめぇ…、よくもやりやがったな…。くそ、吐きそうだ。」

「その割に、お楽しみだったじゃない。最近、してなかったんでしょ?」

「ちっ。何が楽しんでた、だ。てめぇのそれは、もんだろ?」

「そうね。せっかく神様から授けられた力だもの。上手く使わないとね?」

 ニコシアが口角をあげて、アドニの髪を撫でた。

「いやいやしている顔も、とっても可愛いわね。これから、毎回、力を使おうかしら。」

「…止めてくれ。俺は…、もし、ベオが起きてたら、と思うだけで…、死にたくて仕方ない。」

「あら、変なこと言うのね。それなら、確かめてあげるわ。」

 そう言って、ニコシアがボクに近づいてきた。ボクは絶対に起きていると悟らせないように、寝たふりをした。今まで、何度も仲間や父を欺く為に、狸寝入りしてきたので、ニコシアが触れる頃には、本当に寝ているようにすうすうと寝息を立てた。

「良く寝てるわよ。良かったじゃない。」

「そうか…。もう、満足だろ?出ていけ。」

「分かったわよ。本当に、つれない人ね。おやすみなさい、アドニ。」

 ちゅっとニコシアがアドニにキスして、部屋を出て行った。

 ボクはほっとして、薄っすら瞳を開いた。

 アドニには、大きくため息をつき、煙草に火をつけた。部屋の臭いが煙草によって、薄まった。

「何で俺は、こうも…。くそ、だめだ。考えるな。どうしたって、もう逃げられやしないんだ…。」

 アドニが頭を抱えた。その胸元を見て、ボクはぞっとした。大きな蜘蛛の刺青が右胸に描かれ、今にもアドニの首に食らいつかんとしていた。

 アドニは苦々しい表情で、煙草を吸っていた。いつもよりもずっと早く煙草が短くなる。

 煙草を灰皿に擦り付けると立ち上がり、ボクの方に歩いて来た。ボクは瞳を閉じた。アドニは、ボクの顔の前に座ると、そっとボクの額に口づけをし、髪を撫でた。

「お前だけは…、どうか幸せになってくれ…。」

 そう言って、離れていった。

 ボクは何だか、苦しくて、涙が出そうになった。この感情の名前はよく分からないが、ボクの中で何か大きな変化があったことだけは分かった。

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