今日が終わりの日だと、誰も教えてはくれなかった
織部
第1話~出会い~
〈プロローグ〉
血が止まらない…。どうしたら…。
ボクをかばって、アドニが刺された。血がだくだくと流れ、アドニの顔から生気が失われていく。
アドニは、参ったなと苦笑いして、ボクに「置いていけ」と言った。だが、ボクには到底できなかった。
服を裂き、傷に押し当てる。しかし、すぐに布は真っ赤に染まり、ボクの指の間から、血がこぼれていった。
ボクには、どうすることもできない。ただ、アドニが死んでいくのを見ているしかない。
「どうして…、神様は、ボクにこんなに辛く当たるんですか?ボクは確かに、人殺しです。でも、それなら、ボクに罰を下せばいい。こんなの、こんなの、あんまりだ…」
ぽたぽたと涙が落ち、アドニの顔を濡らした。アドニは、青白くなった顔で、ボクに言った。
「今日が…俺の…終わりの日なんだよ…。仕方…ない。運命は、そう簡単に変えられない。ベオ…、俺はもう…いいんだ。」
アドニが微笑んだ。ボクは、その表情を見て、やっと気づいた。
ボクにとって、アドニは…
〈一話〉
空には幾万という星が輝いていた。
ボクは空を見上げて、白い息をハアと吐いた。
今日は、特に冷える。ボクは、マフラーを口元まで引き上げた。
ボクの周りでは、仲間たちが食事をしていた。
「なあ、夜、見たか?」
仲間の一人から尋ねられて、首を振った。仲間は愉快そうに、ニヤッと笑って話し始めた。
「父さんのところに、竜の国からの使者が来てるんだ。オレたち、人形を買いに来たんだってさ!誰が買われるか、見ものだな!」
「そう、興味ないよ。」
ボクが、そっけなく返事をしたので、仲間が眉を寄せた。
ボクたちは、人形と呼ばれる少年兵だ。父と呼ばれる武器商人の元で、紛争、戦争、時に暗殺までをこなす、人殺し集団である。皆、孤児で、物心つく前から、父に戦うすべを叩きこまれ、戦場を生き抜いてきた。弱い者は死に、今ここにいるのは百戦錬磨の兵士たちである。
ボクが、そっぽを向いたので、ボクに話しかけた仲間は小さくちっと舌打ちした。
「なんだよ、せっかく、話しかけてやったのに…。ちょっと強いからって、傲慢じゃね?」
「あんまり、絡むなよ…。あいつ、キレたら、誰でも殺すんだぜ…?お前も殺されるって。」
ボクは無関心に焚火を見つめた。人間は苦手だ。ボクには、彼らの気持ちがまるで分からない。興味もない。どうして、そんなに他人に興味があるのか分からなかった。
テントの入り口が少し開き、白髪交じりの髪に白い瞳を持つ、ひょろっとした男が顔を出した。父だ。
父は辺りを見回して、ボクを見つけると鋭い声で命令した。
「夜、来なさい。」
ボクはコクリと頷き、横に置いていた刀を腰に差して立ち上がった。ボクが呼ばれたので、周りの仲間が不満そうに、ボクを睨んだ。ボクは、ハアとため息をつき、歩き出す。面倒ごとは御免だ。
テントの前で、父がボクを出迎えた。いつもの仮面をつけたような、噓くさい笑顔でボクを見ていた。
「よしよし、来ましたね。さあ、中に入りなさい。」
ボクは言われた通りに、テントの中に入った。中にはストーブが焚かれ、じんわりと暖かい。ボクは顔まで覆っていたマフラーを解く。
テントの中には、酷く驚いた顔の男が立っていた。父よりもさらに背が高く、茶色のくせ毛を短く整え、黄色の瞳を持つ、若い男だ。白いシャツに、緩くネクタイを締め、スラックスを履いていた。さらに、両耳に金のピアスをつけていた。
ボクは、穴が開くほど見つめられて、ほんの少したじろぐ。変な男だと思ったが、顔には出さずに、とりあえず見つめ返した。ボクには全く見覚えがないが、昔会ったことがあるのだろうか。
「ボクに何か?」
男は、はっと我に返った。
「いや、すまん!こんなに可愛いのが出てくると思わなかったんでな…。本当に、こいつが、最強の人形、夜なのか?」
「ええ、そうです。私の最高傑作と言っても過言でもありません。名の通り、まるで夜のごとく真っ黒の瞳が美しいでしょう?」
「まさか、女の子だとは…。」
その言葉に、父が愉快そうに声を立てて笑い出した。
「いえいえ、夜は男ですよ。」
「はっ!?男!?」
男が素っ頓狂な声をあげた。確かに、ボクは黒い髪を伸ばし、頭の後ろで結んでおり、顔もどちらかと言えば、中性的だ。だが、今まで女だと勘違いされたことはなかった。変な人だと再び思った。
あまりの驚きように、父が何かを察して、口を開いた。
「今回は、女の人形をお探しでしたか?あいにく、女は使えるものがほとんどおらず…。」
「いや、そういうわけじゃないぜ。むしろ、男の方が仕事内容的にはいい。」
そう言って、ボクの頬に触れた。ボクは男の手のひらの温かさに、ぴくっと反応した。人に触られることは、あまり得意ではなかったが、不思議と嫌ではない。
男はボクの瞳をじっと見つめ、ニコッと笑った。笑うと瞳がキラキラと輝いた。まるで、イエローダイヤモンドだ。
ボクの内面とは裏腹に、表面にはほとんど感情が出ない。ボクが死んだ目で男を見つめていると、男がボクの頭にポンと手を置いた。
「随分と感情が希薄なんだな。まあ、いい。この子をもらっていくぜ。いくらだ?」
「お気に召しましたか。しかし、夜は特別な人形ですからね…。そう安くはありませんよ?」
「ああ、大丈夫だ。いくらでも出す。竜の王は、使える武器を欲している。」
男はどこからともなく、大量の金貨が入った袋を取り出した。じゃらじゃらと音がするほどの金貨に、父の顔が上気した。
「ほうほう!竜の王は、最近熱心にレイト人を殺していると聞きましたが、こんな大金をぽんと支払うとは…。大分、苦戦しているんですね?」
「ああ、そうなんだろ。俺の知ったことじゃねぇがな。」
「あなたも宝石なのですから、関係があるのではないですか?」
宝石という言葉に、男の頬がぴくっと痙攣した。
「なんだ、あんた、知ってて、俺に会ったのか?」
「ええ、噂はかねがね。王が所有している能力者たちと聞いています。」
男はがしがしと頭を掻き、面倒くさそうに顔をしかめた。
「ああ、その認識で大体あっている。だが、俺たちの存在は、本来は国家機密だ。誰から聞いた?」
「陰に生きるものは、皆知っていますよ。」
「そうかい。俺は真面目な方じゃねぇ。見逃してやるが、今後一切、他言するな。」
キッときつく睨まれ、父はへらへらと笑い、頷いた。男は大きくため息をつき、話を戻した。
「で、いくらなんだ?俺は焦らされるのが、嫌いなんだ。お互い気持ちよく別れたいだろ?さっさと教えてくれよ。」
「そうですね…。金貨200枚でしょうか。しかし、実はやってみたいことがありまして…。それによって、変わりますかね。」
父がボクを見た。ボクは、その表情から命令を読み解き、腰の刀をすらりと抜き放ち、男の首を狙う。一瞬の出来事だった。普通の人間なら、首と胴体が泣き別れになっている所だが、男は身体を後ろに反らし、ぎりぎりで刃を避けた。ボクは、ほんの少しだけ驚きつつも、すぐに手首をひねり、刃先を男の首にぴたりと当てる。
男は自身の首に当てられた刃を見て、それから、父を睨んだ。
「てめえは、今、自分が何しているのか分かっているのか?この刃は竜の王にも向いている。これは警告だ。刀を収めなければ、この一帯を火の海にする。」
「いえいえ、本気ではございません。夜、武器を収めなさい。」
ボクは言われた通りに、鞘に刀を戻した。父を見上げると、不気味な笑みを浮かべていた。
「私の人形が、どのくらい通用するか、つい試してみたくなりましてね。大変失礼いたしました。」
「はあ?わけ分からないこと言ってんじゃねぇぞ。焼き殺されたいのか?」
男が不愉快そうに、眉間に皺を寄せたので、父は愛想笑いを浮かべた。
「それは怖い。お詫びとしては何ですが、少しお値引きさせていただきます。どうか、ご勘弁ください。」
その言葉に、男は面倒くさそうに、ため息をついた。
「あー、そう。まあ、いい。売ってくれるってんなら、勘弁してやる。」
父は少し金額を下げて、男に提示した。男は頷き、金袋を手は渡した。
ボクは、自分が買われる様子をぼんやりと眺めた。父は袋から金貨を出し、数を数えると満足そうに頷いた。
「確かに。お買い上げありがとうございます。これからもどうぞご贔屓ください。」
「へいへい。王に伝えておく。それじゃあ、もらっていくぜ。」
男がボクを引き寄せた。
男を見上げると、ボクにニッと笑いかけた。その笑顔があまりに眩しくて直視できず、そっぽを向いた。
男は「つれないやつだなー」と面白そうに笑い、ボクの髪を優しく撫でた。
「これから、よろしくな。俺はアドニ・セルシン。お前は?」
「ボクは、夜と申します。」
「それは、商品名だろ?本名は何て言うんだ?」
男―アドニがボクの顔を覗き込み、尋ねた。ボクは言ってもよいか分からず、父を盗み見た。しかし、父は既にボクに興味を失っているようだった。なぜか、胸の奥がちくりと痛む。
「…ベオグラード・ファセス。」
ボクが小さな声で答えると、アドニは人懐っこい笑みを浮かべた。
「ベオグラードか。いい名前だが、ちょいと長いな。べオでいいか?よし、じゃあ、べオ。こんな辛気臭いところ、さっさとおさらばして行こうぜ!」
なんて、太陽のように明るくてからっとした人だ。ボクは、コクリと頷いた。
これがアドニとの最初の出会いだ。
*
「今日は遅いから、近くの街に宿をとるぜ。」
アドニがボクに言った。ボクは、黙って頷いた。
ボクたちは、人形の本拠地から離れ、暗い夜道を歩いていた。
物心つく前から共に暮らしていた仲間と永遠に別れるというのに、ボクの心の奥は芯から冷え切っていた。何の感情もわかない。心底どうでもいいと思った。
特に荷物を持たないので、着の身着のまま、アドニについていく。ボクの姿を、人形たちが妬ましそうに見ていた。ボクは、目を合わせることなく去った。
アドニはロングコートの内ポケットからシガレットケースを取り出し、一本くわえ、火をつけた。会った時から感じていたが、身体に煙草の臭いが沁みついている。相当なヘビースモーカーだ。
アドニは煙草の煙を吐き、ボクを横目で見た。
「お前、全然、表情が変わらないな。今、何考えてるんだ?」
「…特に何も。思考は、動きを鈍らせます。不要なものだと父に言われています。」
「そうかい。随分と洗脳されてるなぁ。これを人間らしくするのは、大変そうだ。」
ボクは、アドニの言葉の意味が理解できない。洗脳という意味を知らないわけではない。ボクは、人形だ。それを人間らしくする必要があるとは思えなかった。
草原を抜けて、谷間に入った。
気配を感じ、腰の刀に手を伸ばした瞬間、ピュッと矢が飛んできた。ボクは刀を抜き、矢を切って、アドニの前に立つ。わらわらとボクたちを囲むように、盗賊が姿を現した。
頭だろうか、初老の男がニヤニヤと笑って、ボクたちの前に立ちふさがった。
「お前、竜の国の使者だろ?金の臭いがぷんぷんする。命が惜しけりゃ、有り金置いていけ。」
そう言って、ボクたちに剣を向けた。ボクは、深く息を吐き、刀を構えた。これは作業だ。無駄なく全てを殲滅する。
ボクは、一瞬で人間の目では捉えきれないほど加速し、初老の男の手首を切断すると、跳躍し、次は崖の上で弓を構える弓兵たちの首に刃を走らせた。だが、刃先が首に当たる前に、アドニがボクの腕を掴んで止めた。
「なぜ、邪魔をするのですか。」
ボクの問いに、アドニは答えず、手首を切断されて、もだえ苦しむ初老の男の前にボクを連れて行く。
初老の男が、ボクを罵る。
アドニはどこからともなく、金貨を取り出すと、男の前にじゃらじゃらと落とした。
「手首をくっつけてやることはできないが、これで治療してくれ。すぐに止血すれば死ぬことはない。後な、襲う相手はもっと慎重に選んだ方がいいぜ。」
ごうっとアドニの身体から炎が噴き出した。周りを囲んでいた盗賊たちは悲鳴をあげて、へっぴり腰で逃げて行った。
アドニは、大きくため息をつき、ボクを見た。
「お前なぁ、こんな雑魚殺したって仕方ねぇだろ?誰も幸せになれないばかりか、禍根しか残らないぜ?」
「…彼らは同じことを繰り返します。生きるために、こういう手段しかとれないのであれば、いっそのこと殺してやった方がいいと父が言っていました。」
「お前…。いいか?よく聴け、少年。今のお前にとっては、殺す方がずっと簡単なのかもしれない。だが、必ず将来後悔する。悔い改めるなら、今だ。お前はまだ子どもなんだから、それ以上、罪を重ねるな。」
アドニが、ボクをギュッと抱きしめた。ボクは、急に抱きしめられて混乱した。どうして、そんなに辛そうな顔をするのか分からない。
ボクから殺しを奪ったら、一体何が残ると言うのだろう。ボクの未来は、殺すか殺されるか、その2択だけだ。
ボクは、アドニの体温と、煙草の臭いを感じながら、改めて不思議な人だと思った。彼からはまったく悪意を感じられない。今まで会った、どの大人とも違っている。だからこそ、どうしたらいいのか分からない。
ボクたちは、小さな街に入った。
遅い時間であるが、まだ、男たちは酒を飲み、騒いでいた。男たちは部外者のボクたちをちらっと見て、すぐに近くの若い女に視線を戻した。女は下着のような格好で、男たちをもてなし、交渉が成立すると、家の中に入っていく。そんな店がいくつも並んでいた。
女の1人がアドニに声をかけた。
「そこの若いお兄さん、ちょっと寄っていかない?」
「生憎と、弟を連れてるんでね。遠慮しておく。」
「あら、残念。お兄さん、格好いいから、サービスしてあげたのに。」
甘ったるい声で囁かれ、アドニが苦笑いした。確かに、アドニは、姿が良い。目尻が少し垂れており、すっと通った鼻と、形の良い唇がバランスよく並んでいた。さらに、垂れ目のせいか、常に微笑んでいるように見えた。
アドニは、ボクの腕を掴み、早足で通りを抜けた。
「お子様には、まだ早い場所だな。ここらへんに宿があるはずだが…。ベオ、お前なんか知ってるか?」
「…その角を右に曲がった場所に、安宿があります。」
「お、確かに。ありがとう。」
アドニがボクに、ニッと笑った。その笑顔に、ボクは落ち着かないものを感じた。さっきから、何だか変だ。感情をフラットに保てない。
宿には、暇そうな青年がイスに座って、煙草を吸っていた。ボクたちが入ってくると、じろりと眺めた。
「何、客?」
「ああ、そうだ。2人部屋空いてるか?」
「生憎と、今日はほとんど満室でね。1人部屋しか空いてないぜ。」
「…そうかい。この街には、他に宿あるか?」
「あるのはあるが、ここ以外は、あれだ。子どもの前じゃあ、言いにくいね。」
青年がニヤニヤと、わざとらしく言葉を濁した。アドニは、察したように顔をしかめて、ため息をついた。
「それじゃあ、その部屋でいい。いくらだ?」
アドニが青年に宿代を支払った。青年は金を受け取ると、アドニに鍵を渡し、仕事が終わったとばかりに、また煙草を吸い始めた。
さすがに、安いだけあって部屋は恐ろしくて狭く、煙草の臭いが沁みついていた。シングルベッドが部屋の3分の2を占め、残りのスペースに簡易的なイスとテーブル、さらに灰皿が置かれていた。
明らかに、2人で使うには手狭だ。特に、アドニは身長が高いので、ベッドの幅が足りない。ボクは黙って外に出ようとした。すると、アドニがボクの肩を掴んだ。
「どこ行くんだよ?」
「ボクは外で十分です。あなたが、ここを使ってください。」
「遠慮するなって、頑張れば2人で使えるからさ。それに、外は冷える。ここも大概だがな。」
そう言って、ボクを引っ張って、ベッドの上に座らせた。ボクは落ち着かず、そわそわと周りを見まわした。今までベッドに寝た事も、こうやって2人きりで誰かと長時間居たこともない。
アドニはロングコートを脱ぎ、ネクタイを外すと、疲れたと言わんばかりに背を伸ばした。そして、ボクを見降ろした。
「お前さ、何にも質問しないんだな。俺が何者かとか、これからどうなるのかとか、興味ないのか?」
「…どうでもいいことです。あなたが何者であっても、仕事は変わりません。」
「…本当に人形なんだな。まあ、俺が話したいだけだからさ、聞いてくれ。」
そう言って、アドニが大まかに説明し始めた。
「俺は、竜の国と呼ばれる王国の人間だ。竜の国ってのは知っているか?」
「はい。竜と呼ばれる、強力な力を持った王が支配する国と聞いています。」
「なんだ、勉強熱心だな。その通りだ。俺はそこで、宝石として働いている。まあ、お前たち人形と同じような兵士だな。違いと言ったら、能力者であることだ。」
盗賊に襲われた時に、アドニの身体から噴き出した炎を思い出した。
「今の王は、戦争好きのいかれた奴でな。特に、今はレイト人を躍起になって攻撃しているが、そのレイト人が思いのほか手強くて、もう3年も戦い続けてる。さすがに、国全体が疲弊し始めてきたからさ、さっさと終わらせたいんだ。で、苛烈な戦闘力を持つ人形が欲しかったってわけ。」
ボクには、心底どうでもいいことだった。ボクの表情がまったく変わらないので、アドニが苦笑した。
「もしかして、人間じゃないのか?」
「いえ、人間です。」
「いや、分かってるって、冗談だよ。」
そこで話が途切れた。居心地の悪さでも感じたのか、アドニが口を開いた。
「話は変わるけどさ、お前、いくつなんだ?」
「ボクは…、15です。」
「15!ふうん、15ね。思ったより、歳とってて安心した。」
アドニは、ニッと笑い、ボクの髪を撫でた。そして、眠そうに欠伸をした。
「ああ、疲れた。そろそろ寝るか。」
そう言うと、ボクが着ていた防寒着を脱がせて、腰に差していた刀を抜いた。ボクは、アドニが何をするつもりか分からず、じっと見つめた。
アドニは、ベッドの半分に寝そべると、ボクに手を伸ばした。
「ほら、寝るぞ。ちょっと狭いが、我慢してくれ。」
ボクが首を振ると、アドニが強引に腕を引っ張って、隣に寝かせた。まったく想定していなかった事態に身体が固まった。
「ボクは地面で寝ますから、こういったことは不要です。」
「何言ってんだ。凍え死ぬぞ?遠慮しなくていいからさ。それに、俺も温かくて助かる。」
アドニは、ボクの首の下に右腕を入れて、左腕でボクを抱き寄せた。ボクは、どうしたらいいのか分からなくて、されるがままアドニの身体に顔をうずめた。
灯りが消える。
アドニは、ボクの髪紐をとり、髪を綺麗に整えると、ボクの額にキスをした。驚いて、身体が強張った。
見上げると、苦笑いして、アドニがボクを見ていた。
「すまん!いつもの癖で、やっちまった。最近まで恋人がいたもんだからさ…。」
「恋人…?」
「何?もしかして、そんなことも知らないのか?」
「いえ、言葉は知っています。自身の欲情を満たす道具だと父が言っていました。」
ボクの言葉に、アドニが起き上がり、ボクを見降ろした。ボクは夜目が利くので、アドニの表情がよく見えた。ボクを憐れんでいるように見える。
「お前は、今まで、あのクソ野郎を絶対として生きてきたんだな?あれは、人間の中でも大分、屑な分類だ。ああいう輩の言い分を真に受けるな。もっと自分の頭で考えるんだ。これからは、あのクソ野郎はお前に指示をくれないし、俺も与えてやれない。大人は嘘つきで、自分勝手だ。そんな奴から身を守るために、もっと知恵をつけろ。」
ボクが黙って、空を見つめていると、アドニが大きな手の平で、ボクを抱き寄せた。ボクの頭に顎をのせて、優しく何度も髪を撫でた。
「お前は生まれたばかりの赤ん坊だ。これから、色んな経験をして、強くなれ。」
「強く…?ボクは既に強いです。」
「肉体的なもんじゃない。精神的な方だ。今だって抵抗もせずに、されるがままじゃないか。俺がもし、お前を…。」
一瞬、アドニの腕に力が入ったが、すぐに力が抜けた。
「いや、何でもない。さ、寝ようぜ。おやすみ。」
アドニが目を閉じて、一瞬で寝入った。ボクは顔を上げて、その顔をじっと見つめた。不思議と嫌な気持ちはしない。変な人だ。数時間前に会ったボクに、なんでそんなに真剣なのか分からない。
それに、今まで凪のように穏やかだった感情が、グラグラと揺れて、どうしようもない。今まで感じたことのない温かさに、戸惑っているのだ。だが、それが心地よくて、ボクはウトウトと眠りについた。
***
変に身体が熱い。
ボクは薄っすら瞳を開いた。目の前に、誰かの顔があった。だが、表情がよく見えない。アドニだろうか?
アドニらしい人が、ボクに顔を寄せて、唇にキスした。最初は、軽く触れるように、次第に激しくなり、舌が絡まっていく。ボクはどうすることもできずに、されるがまま、受け入れた。
何だか身体が動かない。それに、身体が熱を持って熱い。
アドニは、しばらくキスすると、おもむろにボクの首に唇を添わせた。何をするつもりか、ボクには分かった。以前、要人を暗殺した時に、見たことがある。まるで、野獣のように交わる男女が、ベッドの上で暴れていた。ボクは、その場で嘔吐して、危うく殺し損ねるところだった。
―怖い。
ボクが呟くと、アドニが顔をあげて、微笑んだ。そして、またボクの唇にキスをした。それだけで、身体がどんどんと熱くなり、思考が霞んでいく。頭が真っ白になるほどの、快楽ともいうべき感触が走った。
今まで感じたことのない感触に、恐怖さえ感じた。だが、アドニは離してくれない。
いつの間に、こんなことになったのか考えようとしたが、記憶が断片的でよく思い出せない。
何かがおかしいと思ったが、思考が止まって、何も考えられなかった。
すると、アドニがボクの耳元で囁く。
―どうした?お前が望んでいたことだろ?もっと楽しめよ。
そう言って、ボクの服に手を入れた。一瞬で、頭が真っ白に飛んだ。
***
はっと目を覚ますと、既に陽が昇っていた。隣に寝ていたはずのアドニはおらず、ボクはそっと唇に触れた。今なら分かる。あれは夢だ。なぜ、あんな夢を見てしまったのか、ボクにはまったく分からなかった。
ボクは下半身に冷たいものを感じて、ばっと布団をめくった。ズボンは何ともない。だが、その下がぐっしょりと濡れていた。あまりのことに固まった。なんでこんなことになったのか、まったく分からない。だが、あの快楽が脳裏に焼き付いていた。
困ったことに、対処方法がまるで分からない。固まっている間に、アドニが帰ってきた。髭をそり、髪を綺麗に整えていた。
ベッドの脇に座り、ボクに微笑んだ。
「おはよう、ベオ。よく寝てたな。今までちゃんと寝てなかったんじゃないかってぐらい、ぐっすり寝てたぜ、お前。」
ボクがうんともすんとも言わないので、怪訝な顔になった。
「どうした?気分でも…。」
そう言いかけて、かばっと布団をとった。すぐに、理解したようで、気まずそうに頬を掻いた。
「もしかして、初めてなのか!? 15にもなって?」
ボクが黙ってしまったので、言い過ぎたとばかりに、アドニが顔をしかめた。
「まあ、なんだ、そういうこともある。すまん、無粋だったな。着替え買ってくるから、ちょっと待ってろ。」
さっと部屋を出て行った。ボクは、ぎゅっと自分の服を握った。なんだろうか、顔が異様に熱い。以前、傷口が膿んで、高熱が出た時と同じような熱さを感じた。
アドニはすぐに帰ってきた。どさださとボクの上に、着替えを落とす。
「どうせなら、その血生臭い服も着替えちまえ。」
ボクはコクリと頷く。ボクは濡れたパンツを脱ぎ、着替えた。生臭い。こんなものが自分から出てくるとは思わなかった。ボクが着替えている間、アドニはそっぽを向いて、煙草をふかしていた。
ややあって、着替え終わった。アドニが買ってきた服は、黒いシャツとズボンで、ボクには少し大きかった。
すると、アドニがぽんとボクの肩に手を置いた。
「まあ、なんだ。お前がちゃんと人間だって、証明されたな。これで大人の仲間入りだ。おめでとう。」
「……。よく分かりませんが、どうも…。」
「お、ちょっと表情らしいもんが見えたじゃないか。その調子、その調子。」
アドニがボクに微笑んだ。一瞬、夢がフラッシュバックし、落ち着かなくなった。
ボクは、さっと視線を逸らすと、アドニが不思議そうに、ボクを見った。
「なんだよ、どうした?」
ボクが何でもないというように、首を横に振った。アドニは首をかしげたが、それ以上は話を続けなかった。
アドニが買ってきた、ぼそぼそとしたパンをミルクで流し込み、出発した。
今日はよく晴れており、寒さも昨日よりは大分、和らいでいた。それでも、防寒着を着ていなければ、凍える。
街を抜けて、荒野を進む。やがて、塔のような岩がいくつも地面から生えた場所にたどり着いた。
ボクは、前を歩くアドニの背中を眺めた。昨日までは、何も感じなかったのに、今はおかしな気持ちの高揚を感じた。胸の奥が熱くて苦しい。
アドニはボクが隣に来ていないのに気づくと立ち止まり、ボクのペースに合わせた。
「お前さ、これから行く国がどこにあるか知らないだろ?」
「…大陸の中心にあるとだけ、聞いています。」
「ああ、そうだ。今いる地点が大体、大陸の西に位置するから、もし歩いて行こうとするなら、まあ、半年はかかるな。」
ボクは、アドニが何が言いたいのか、理解できない。アドニは、ぽっかりと開いた洞窟の前で止まると、声を張り上げた。
「ここら辺かな。フロム!俺だ!アドニだ。繋げてくれ。」
すると、急に金属が擦れるようなキーンという音が響き渡った。ボクは、その異様な音に、腰の刀に手を伸ばす。アドニは慣れた調子で、煙草をくゆらせていた。
洞窟の穴を埋めるように、銀色の水のような物が広がっていき、あっという間に、人が1人くぐれるほどの大きさになった。異様な光景に、目を見張った。
アドニは、煙草を消すと、ボクに手を差し伸べた。
「これから先は地獄だ。だが、俺はお前を連れて帰らなければならない。いつかお前は俺を恨むかもな。それでも、俺と共に歩んでくれるか?」
ボクは、なぜ、そんなことを尋ねるのか、理解できなかった。その手を取るという選択肢以外ないと思い込んでいた。
ボクが、アドニの手を握ると、アドニは満足そうに笑った。その手のひらの温かさは忘れられない。
ボクがこの太陽のような笑顔を手に入れるのは、ずっと遠く、幾千の血と涙と絶望の果てだ。
それでも、ボクは足掻き続ける。
いつか終わる、その時まで。
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