第17話~レナ~
はっと目を開くと、木の天井が見えた。
突然のことに、自分がどこにいるのか分からず混乱する。洗い立てらしい、シーツの感触を感じ、自分がベッドの上に寝ていることを理解した。
部屋は真っ暗だが、ボクは夜目が利くので、物の形や色がはっきりと見えた。頭を少し浮かせて、周りを確認する。使い古されて黄色く黄ばんだ壁と、人一人軽々とくぐれるほど、大きな窓が目に映った。
その窓を見た瞬間、すべての記憶が鮮明に蘇った。
そうだ。
処刑される寸前に、ジユルに助け出されたんだった。その後の記憶がぷつりと途切れてしまっていたので、おそらく極度の緊張と疲労とで、気絶してしまったのだろう。
ボクはむくりと起き上がって、もう一度周りを見渡した。やはり、ここは霧の街にある、ボクの部屋だ。ボクの部屋は、昔と何も変わっていなかった。ただ唯一変わってしまったものがあるとすれば、常に壁に立てかけていた刀がないことぐらいだ。
ボクはぐっと伸びをして、床に足を下ろした。足の指先に包帯が巻かれ、血が滲んでいた。丁寧に処置してある。
ボクはお礼を言わなければと思って、立ち上がった。しかし、一歩踏み出した途端、指先が猛烈に痛み、顔が歪んだ。
ああ痛い。やっぱり痛い。やせ我慢してたって、痛いものは痛い。
拷問されていた時は、我慢できたのに、今は泣きそうなほど痛かった。顔をしかめて、どうにか歩けないか試行錯誤する。だが、やっぱり無理だった。
ボクはどさっとベッドの上に倒れた。
歩くのも、ままならないなんて…
ボクは天井をみつめた。昔は何も感じなかったのに、今は妙な懐かしさを感じる。手を伸ばして、指先で木目をなぞろうした。そこで、指から腕にかけて、包帯が巻かれていることに気づいた。ずきっと指先が痛む。
ふと足音が聞こえて、起き上がった。廊下を歩く音が、段々と近づいて来ている。足音は、ボクの部屋の前で止まり、鈍い音を立てて扉が開いた。
隙間から光りが漏れ、こちらをうかがうようにして顔が現れた。陰になってよく見えないが、顔をのぞかせたのはジユルのようだ。
ジユルは「お」と小さく驚いたような声を出した。
「おはよう、ベオグラード。よく眠れた?」
「はい、おかげさまで。その…助けてくれて、本当にありがとうございます。」
「なに、当たり前のことをしただけだよ。生きてて良かった。それはそうと、お腹空いてない?食べ物、持ってこようか?」
そう言われると、お腹が空いているような気がした。ボクがうなづくと、ジユルは「ちょっと待ってて」と扉から顔を引っ込めた。
ジユルの足音が遠のく。ボクは身体を後ろにずらして、壁に寄り掛かった。静かだ。虫の音も聞こえない。まるで、ボク一人だけ取り残されたような、しんとした世界。
ボクは目を閉じて、瞼の裏から世界を眺めた。今までは、もんもんと考え込んでいたのに、今は何も見えない。こんなに穏やかなのは、いつぶりだろう。
心地の良い安堵に包まれていると、足音が近づいて来た。ゆっくりと目を開く。
ジユルが持ってきてくれたのは、ミルク粥だった。お盆に乗せて、ボクの膝の上に置いてくれた。甘いミルクの香りに、お腹がぐうっと鳴る。
「ありがとうございます、ジユル。いただきます。」
スプーンを握り、一口食べる。温かい粥が、食道を通って胃に落ちた。ほんわりと身体が温まる。温かい食事は久しぶりだ。今まで食べた、どんなものよりも美味しく感じた。
ボクは半分食べきったところで、スプーンを置いてジユルを見た。ジユルは目を細めて、ボクを眺めていたが、ボクの視線に気づいて「何?」と首を少し傾けた。
「あの、ジユル、イジュマとセラムは、いないんですか?」
「あー、あの二人なら、もう寝てるよ。今、真夜中だからさ。オレは作業してて、起きてただけだから。」
「そうだったんですね。良かった。てっきり何かあったのかと思って。」
「大丈夫、大丈夫。全員元気にやってるよ。」
「そうですか…」
スプーンを持ち直して、残り半分を食べた。ボクが食べ終わるまで、ジユルはずっと傍にいてくれた。食べ終わると、温かなお茶を差し出した。
「何から何まで、ありがとうございます。もう大丈夫ですから、ジユルは寝てください。」
お茶を受け取りながら言うと、ジユルは少し思案した後、ボクの隣に腰かけた。
「何だか目が冴えてさ。眠くないんだ。あんたが迷惑じゃないければ、もう少しここにいたいんだけど、だめかな?」
「…大丈夫です。それなら、丁度聞きたかったことがあったので、質問していいですか?」
「もちろん、オレの答えられることであれば。」
ジユルが銀髪をかきあげて、ボクに微笑んだ。ボクは、それならと口を開く。
「ボクは騎士の国ではない、どこか別の場所にいたのに、どうやって見つけたんですか?」
「初っ端に、一番答えにくいこと聞いて来たな…。まあ、でも、その疑問は分かる。本当は、口止めされてるんだけど…」
「…口止め?」
「うん、何でも『もう諦めると言ってあるから、自分が教えたと言うな』と結構強く言われたんだよ。でもさ、命の恩人が誰か分からないのって、もやもやするかなっと思って。名前は言わなかったら、セーフでしょ。」
ジユルが横目でボクを見ながら、ニコッと笑った。ボクは自分の口が半開きになって、食い入るようにジユルを見つめているのを感じた。
まさか…ア…
その言葉を飲み込んだ。顔がカッと熱くなり、何とも言えない幸福に近い温かさが胸に広がった。ボクは泣きそうになって、膝を抱えてうつむいた。
やっぱり、まだボクのことが大切なんだね。
ボクを追い詰めたのに、最後の最後に助けてくれるなんて矛盾している。だけど、その優しさが彼らしい。
「…何だか、助けられてばかりで、申し訳ないです。ボクは、間違えてばかりで…。迷惑かけて、何もかも台無しにしてしまった…」
「そんなことないって、と言うべきなのかもしれないけどさ、あんた、一人で突っ走りすぎなんだよ。一人でできることなんて、たかが知れてるだろ?もっと頼ってよ。オレもイジュマもセラムも、いるんだからさ。」
ぽんぽんと、ボクの頭を優しく叩いた。その言葉を昔、ヤレンに言ったことがあった。ボクも結局、ヤレンと同じ過ちを犯している。
ボクたちは誰かに頼るのが苦手だ。
それは今まで生きてきた過去がそうさせているのか、はたまたボク自身が他人を信頼できないのかもしれない。
でも、落ちるところまで落ちて、自分が間違っていたことに気づいた。
「そうですね…。ごめんなさい。どうか、これからは頼らせてください。」
頭を下げると、ジユルがボクの肩を抱いた。
「もちろん、持ちつ持たれつ、やっていこうぜ。これからも、よろしくな。ベオグラード。」
「はい、こちらこそ。」
何だか肩の力が抜けて行く。気づかぬうちに身体がいつも緊張していて、始終苦しかったが、やっと力の抜き方を覚えた。
「ジユルは…強いですね。誰かに寄り添う優しさも、間違っていることは、間違っているという勇気も持ってて…。見習いたいです。」
「え、そう?照れるな。はは。」
ニコニコと上機嫌に、顔をほころばせた。いい人だ。ジユルと話していると、ずっと生きていたいと思ってしまう。
ジユルは、よいしょっと立ち上がった。
「話はこのくらいにして、そろそろ寝るよ。あんたも眠れそう?」
「どうでしょう。さっき起きたばかりですし…。その、良かったら、レナの顔が見たいのですが、今どこにいるんですか?」
「レナは、今城にいるよ。アルメニアが世話してくれてる。」
何でもないようにジユルが言った。だが、ボクにとっては震え上がってしまうほど、恐ろしい事実を突き付けられた気分だった。
顔から血の気が引いていく。手が震えて仕方ないのを何とか隠した。
「…なんで、ここで育ててなかったんですか…?彼らが、レナに何かしたら、どうするつもりなんですか…」
「?何言ってんの。ここで育てられるわけないだろ?乳母も必要だし、何よりオレたちは、竜の国と戦ってるんだぜ。赤ん坊ってのは、お構いなしに泣くからさ、寝不足になって、任務に支障をきたすのが目に見えてる。それに、何にもないって。心配し過ぎだよ。ヤレンさんの子どもだぜ?大事にしてくれるって。」
ジユルが怪訝な顔で言った。ボクは、曖昧にうなづくしかなかった。
ジユルは何も知らないのだ。イズミルを死に追いやった元凶が、長の一族だと。それに、確証があるわけではない。ただ、明らかな事実として、ボクが認識しているに過ぎない。
ボクはぐっと唇を噛み締めた。
「…そうですね。でも、ジユル、一つだけ覚えていてください。ボクがヤレンの代わりをしていた頃、アスシオンは明らかに、ヤレンに悪意を抱いていました。」
「え…、嘘だろ…」
「嘘ではありません。ですが、証明しろと言われたら、難しいです。何というか…、感覚に近いので…。すぐにアスシオンが何かするとは思えませんが、気を付けていた方がいいでしょうね。」
ジユルの顔が青ざめた。
「ごめん。何も知らずに、オレたち、とんでもないことをしてしまった…」
「いえ、ボクも言わなかったので…。正直、辛い思いをさせると思いますが…、それでも、ちゃんと話すようにします。」
「…ああ、頼んだよ。こういう時に詰むからさ…」
ジユルが掠れた声でつぶやき、顔を手で覆った。その通りだ。ボクは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
それから、レナのことやレイトの未来を延々と話した。
一人で背負っていたものを誰かに分けると、その人も潰れてしまうと思っていた。しかし、それは間違いだった。余裕が生まれ、今まで見えなかった景色が見える。その気づきは何にも代えがたいほど、素晴らしいものだった。
ボクは、カーテンの隙間が明るくなっていくのを眺めながら、新しい朝が良いものであることを願った。
あくる日、イジュマはすぐにボクの部屋に来た。ジユルによく似た顔で、嬉しそうに微笑み「体調はどうですか?」と気遣ってくれた。さらに、汚れた包帯まで取り換えてくれた。
ボクは包帯がなくなった腕を、まじまじと眺める。爪はなくなり、赤く腫れていた。さらに、腕には焼きごての跡が水玉模様を作っていった。その異様な模様に、気味の悪さを覚える。
イジュマが傷を消毒しながら、ぽつりとつぶやいた。
「何というか…遊びでしているような、無邪気さを感じます…。それに、きれいな腕に、傷跡が一生残ると思ったら…」
声が震えていた。みるみるうちに、瞳に涙が溜まっていく。だが、涙を流さなかった。ぐっと唇を噛み、涙を堪えていた。
「わたしが泣いても仕方ないですね。ごめんなさい。」
ボクは首を横に振って「気にしないでください」と言った。そうとしか言えなかった。ボク自身、この模様が一生残ると思うと、憂鬱で仕方がなかった。この傷を見るだけで、地獄のような拷問を思い出す。
死にたくないという焦りと、逃れようがないという絶望。
爪を剥ぐ猛烈な熱さと痛み、腕を焼く臭い。
忘れたくても忘れられない。この記憶は、一生、ボクを苦しめる。
ややあって、真新しい包帯が巻かれ、傷口は見えなくなった。
「ありがとうございます、イジュマ。助かります。」
「いいんですよ。気にしないでくださいと言っても、気にするかもしれませんが…。わたしが、やりたくてしているので。さてと、いい加減セラムも起こしてきますね。」
穏やかに微笑んで、部屋を出ていった。足音が遠のくのを確認し、ボクはゆっくり立ち上がった。やはり痛むが、少しの距離なら我慢できそうだ。できるだけ、指先に力を込めないようにして、窓まで歩く。
外は明るく晴れていた。真っ青な空に、白い雲が浮かんでいる。いつの間にか、季節は移ろい、もうすぐ夏だ。どんなに辛くても、泣き出したくなるほどの絶望を感じても、季節は巡る。時間は止まることが無い。
ぼんやりと空を見上げていると、コンコンと扉をノックして、セラムが顔をのぞかせた。立ち上がっているボクを見て、顔をしかめた。
「おい、傷口が開いたら、どうするんだ。怪我人は寝てろよ。」
「すみません…。でも、今は外を眺めたくて。久しぶりに青空を見る気がします。きれいですね。」
「…相変わらず、頭がおかしいな、お前。」
「…相変わらず、辛辣ですね。」
そう返事をすると、セラムがふっと笑った。
「やっと元に戻ったな。おかえり、ベオグラード。」
その言葉と表情に驚いて、目を見開いた。
必死になって、空回りして、追い詰められた先に、こんな未来が待っているなんて想像していなかった。
初めて会った日、ボクを「気色悪い」と吐き捨てたセラムが今、ボクに笑いかけている。
生きていれば、こういう奇跡みたいなことも起こる。生きていれば…
ボクは自分の頬が緩んでいくのを感じた。
「ただいま、セラム。」
ボクの言葉にセラムがまた、ふっと笑った。その笑顔はイズミルに少しだけ似ていて、胸を締め付けた。
*
金色の瞳。
その瞳を持つ赤ん坊が、ボクをじっと見つめている。つるっとした肌に申し訳程度に生えた金髪。薄紅色に染まった頬。小さな唇。
「あうー」と小さな手を伸ばして、ボクの長く伸びた前髪を掴んだ。
「かわいい…」
思わずつぶやく。最初に会った時は猿のように皺皺だったのに、見ない内に随分と人間らしくなった。
くりっとしたアーモンド形の瞳が、青ではなく金色である以外は、ヤレンによく似ていた。
パーツのバランスも良いので、将来はとびっきりの美人になるだろう。
それを見れないのが、残念だ。
レナからはミルクの匂いがした。それに、不思議と陽だまりのような匂いもする。温かい太陽のような子だ。
離れようとしたが、前髪を掴んだまま離してくれず、仕方なくその髪を撫でた。
赤ん坊は、もっとうるさいものかと思っていたが、意外に静かだ。せわしなく瞳を動かし、口から容赦なく泡を吐いている。
ボクは、頬に垂れた泡を布で拭きながら、話しかけた。
「そんなに涎まき散らして、大丈夫?」
「うー、あー、ぶぶぶ」
「そっか、これが普通なんだね。」
「う、ぶ、あー」
意味もなく会話してみる。意外に面白い。
レナが言葉を話すようになる前に、ボクはこの世からいなくなる。いや、もしかしたら、たどたどしく話し始めるくらいまでは生きているか…?
いずれにしても、ボクの名前を呼んでくれることはないだろう。
少し寂しい。でも、その未来を作るのがボクの仕事だ。
レナは何度かボクの髪を引っ張ると、興味を失ってぱっと離した。
ボクはつい「ふふふ」と小さく声を出して笑った。
不思議とレナを見ているだけで、朗らか気分になった。赤ん坊はすごい。何もかも吹き飛ばしてくれる。
うとうとと眠気に襲われて、目を閉じていくレナを見て、心から愛しいと思った。
*
剥がれた爪が、新しく生え始めた頃。
レイトの行く末を話し合い、残った五万人を霧の街にぎゅうぎゅうに押し込めて、守ることに決めた。アスシオンにも協力を仰ぎ、計画は実行された。
セラムの能力を使いレイト人を集めつつ、簡易的な家を建て避難してきたレイト人に住む場所を提供した。
だが、一部のレイト人は拒否し、結果的に避難したのは三万人程度だった。
残り二万人は、今まで暮らしていた場所に留まり続けた。死ぬかもしれないのに、故郷を捨てられない彼らが、ボクには理解できなかった。
だが、無理やり移動させることもしなかった。命の選択は各々に任せる。それが、ボクの出した答えだ。
その間、竜の国と接触することはなかった。あちらはあちらで、この前の戦争の後始末に忙しいのだろう。それか、たんまりとむしり取った金と命に満足したのか。
いずれにせよ、また戦いは始まる。
ボクは竜の国との最終決戦に備えつつ、毎日のように古城に通った。本当はボクたちの家にレナを迎えたいのだが、乳母の説得に時間がかかって、なかなか話が進んでいなかった。
ボクたちの家は恐れられていた。既に二人が死に、これからも誰かが死ぬかもしれない。「死が蔓延した場所に行きたくない」と言われて、ボクは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
誰のために戦っていると思っている。
その言葉を何度も飲み込んだ。
レナは少しずつ成長していった。前は気分に任せて「あー、うー」と言っていたのに、今は「レナ」と呼ぶと、ボクを見て「えへへ」と笑う。可愛くて可愛くて仕方がない。
溺愛しているのは、ボクだけではない。ジユルもイジュマも、それは可愛がったが、一番可愛がっているのはセラムだった。
セラムは変わった。眉間に皺を寄せて険しい表情を浮かべていたのに、今ではニコニコとレナを見ている。ボクがいる時は我慢しているようだが、それでも気づくと鼻歌交じりにレナをあやしていた。
そうやって、ボクたちの日々は穏やかに過ぎて行った。このまま何もなくのんびりと生きていければ、どんなに幸せだっただろうか。
だが、幸福は砂の城のように、脆く崩れていく。
「ベオグラード!緊急事態だ!」
ジユルの焦った声に、ビクッと身体を振るわせた。一階の屋根から身を投げ出して、声がした方を覗き込む。顔を青くして、ジユルがボクを見上げていた。
「どうしました?」
「どうもこうも、竜の宝石が街を襲ってる!」
冷たいものがお腹に広がった。だが、いつか来ると思っていたものが、ついに来ただけだ。
「どこの街ですか?」
「崖の街と雪の街だよ!」
「そんなに遠くはないですが、二箇所はきついですね…。どうしたものか…」
ボクはほんの少し考えて、口を開いた。
「ジユルとイジュマは崖の街を。ボクとセラムで雪の街を助けにいくしかないですね。二人は今どこにいますか?」
「すぐ近くにいるはずだから、呼んでくるよ。あんたは準備しておいて。」
ジユルはそれだけ言うと、風のように走って行った。
それを見送り、ボクは小さくため息をついた。分かっていたとはいえ、憂鬱で仕方がない。ボクだって、できれば、殺し合いはしたくない…。それでも、命を守るためには、戦うしかないんだ。
ボクは自分に言い聞かせながら、屋根を上り、部屋に戻った。そして、ベッドの下から刀を取り出した。前使っていたものは、竜の国で無くしてしまった。これは、ヤレンの部屋を整理していた時に、たまたま見つけたものだ。
すらりと鞘から刀を抜き放つ。美しい刃文が、剣先まで伸びている。業物だ。鈍色の刃に、ボクの瞳が映った。夜空のような黒に、星が輝いている。
ボクは鞘を腰に差して、刀を収めた。きんっという子気味良い音が響く。
窓から屋根に出て、ぴょんっと庭に降りた。
丁度、イジュマとセラムが戻ってきたところだった。
皆、緊張と不安が入り混じった、何とも言えない、苦し気な表情を浮かべている。ボクは大丈夫というように微笑んだ。
銀世界を抜けると、そこは一面真っ白だった。
空も空気も、すべてが白くけむっている。
隣でセラムが寒そうに顔をしかめて、カチカチと歯を鳴らした。
「寒すぎるだろ…。今、夏だぞ…」
「ここはいつも冬なんですね。こんなところに住むなんて物好きな。」
「確かに。というか、霧の街に来なかった連中を、わざわざ守ってやる必要はないんじゃないのか?」
そう言われて、ボクは一瞬黙り込んだ。
「…そうもいきません。これは、ボクのわがままですが…、ボクの手の届く範囲であれば守りたいんです。見殺しになんてできません。」
セラムがチラッとボクを見て、ふんと鼻を鳴らした。
「相変わらず、お優しいな。」
その言い方に、胸がちくりと痛んだ。何もかもを守ろうとして失敗したくせに、まだ言っているのかと、暗に言われたのが分かった。
分かってる。言われなくても、分かっているよ。
だが、言い争うには時間が足りなかった。
ボクは白い息を吐き、それから刀を抜いた。視界は真っ白だが、すぐ近くまで敵が来ている。それを見て、セラムの声に緊張が走った。
「来たのか?」
「ええ、近いですね。吹雪でなければ、顔がはっきり見える距離にいますよ。」
「…おれには、全然分からないな…。サポートは必要か?」
「いえ、むしろ邪魔です。終わるまで離れていてもらえますか?」
低い声でセラムに言った。思った以上に、冷たい口調になってしまい、どきりとする。しかし、セラムは気にする素振りも見せず、白い空間にひびをいれた。
「ああ、分かった。お前が危なくなったら、出てきてやるよ。」
それだけ言うと、すうっと消えた。
白い世界にボクだけが残される。顔に雪が当たって、ひりひりと痛む。肺が凍りつきそうなほど寒い。だが、ボクは顔色一つ変えなかった。寒さには慣れている。
そう言えば、竜の国に初めて行った日も、こんな風に雪が降っていたっけ。どうでもいい過去を思い出していると、吹雪の中から宝石が姿を現した。
人数は四人。
ボクは、その中にマリア・レンブロが居ることを確認した。残りの三人は新顔だ。つまり、アドニはいない。
自分が、どこかホッとしていることに気づいて、苦笑した。
マリアが、ボクを悔い殺さんばかりに睨んでいる。
「やっと、お前を殺す日が来た。この日を、ずっと待ちわびていた。血まみれにして…命乞いさせてやる…」
犬歯をむき出して、低く呻くように言った。その凄まじい殺気に気圧される。だが、殺さるわけにはいかない。ボクはぐっと柄を握りしめ、刃先をマリアに向けた。
赤い瞳がぎらりと光る。それを合図に地面から、幾千の銀色の糸が束になって飛び出してきた。
ボクは糸を消そうと、目を閉じて、悲しみに溺れようとした。しかし、感情のスイッチが上手く入らず、涙が流せない。
まずい…! 一瞬、身体が強張った。
はっとして目を開くと、糸が蛇のようにうねりながら、突っ込んでくるのが見えた。
後は刀に頼るしかない…!
ボクは深く息を吐き、かっと目を開くと、刀を鋭く横に振った。銀色の糸に刃先が当たる。ぷつりという感触がして、糸が絶ち切れた。ボクは夢中になって、自分に突っ込んでくる糸を切った。
まるで雨のように、糸がぱらぱらとボクの上に落ちる。
マリアが顔を引きつらせて後ずさるのが、降りしきる糸の合間に見えた。正直、自分でも驚いた。素晴らしい切れ味だ。今まで使っていた刀が鈍らに感じるほど、よく切れる。
刀を片手で持ち、ゆっくりと歩き出した。
何だか身体が透き通って、気持ちがいいほど軽かった。
次々と宝石たちが、襲いかかってきた。だが、ボクには、すべてがスローモーションに見えた。刀を振れば、宝石が一人一人と倒れていく。血しぶきが目の端で、何度も花開いた。
自分でも何をしているのか分からないほど早い。あっという間に、マリアとの距離が詰まった。マリアの顔に恐怖が浮かぶ。何かを叫び、幾万の糸を出現させた。糸が波のように、ボクに迫る。
その迫りくる波を見て、あの日の、アドニの腕の温かさが蘇った。ボクを救ってくれる人はもういない。ボクは地面を蹴って飛び上がり、迫りくる波を超えると、そのままマリアに突っ込んだ。
雪に埋もれるようにして、マリアが倒れる。ボクはその上に覆いかぶさるように立ち、その赤い瞳を見降ろした。ボクは、どんな表情を浮かべているのだろう。冷酷に見下ろしているのだろうか。それとも、微笑んでいるのだろうか。寒さで顔の感覚が消えていて、ボクには分からない。
ただ、マリアの胸が呼吸で上下しているのが見えた。両手で柄を持ち、刃をまっすぐ下に向けて、刃先を咽喉に当てる。
マリアは、己の首に当たる刃を見て、低くつぶやいた。
「…殺したいなら、殺せばいい。だけど、わたしを殺せば、彼が悲しむでしょうね。」
「彼…?」
マリアの口調が急に女性らしい、高く甘い響きになる。
「お前の大切な大切な、アドニ・セルシンよ。彼とわたし、もうすぐ結婚するの。お前のことなんて、もうどうでもいいのよ。毎日、ベッドの中で、わたしに愛を囁いてくれるんだから。」
勝ち誇ったような笑みを浮かべながら言った。
その瞳は、残忍な喜びで輝いていた。それを見て、彼女の復讐が一つ叶ったことを悟る。愛する人を奪われる苦しみを、ボクに味わせたいという欲望。あまりに痛くて、辛くて、気が遠くになりそうだ。
ボクは刀を握り直し、何とか殺そうと力を込めた。だが、アドニの愛する人を殺すのかと思うと、手が震えて、うまくいかない。
きっとボクの顔は歪んでいたのだろう。マリアの声が、喜びに震えていた。
「ははははは、いい気味。彼を奪われて、どんな気分?」
「…うるさいな。」
「彼って、とっても素敵なのよ。茶色の髪は撫でると、柔らかくて心地がいいし、それに、黄色の瞳に見つめられるだけで、わたし、もう彼しか見えなくなるの。本当に魅力的よね?」
「…黙れよ。」
「彼の唇、とっても熱いんだから。名前を呼んで、何度もね、求めてくれるの。マリア、マリア、…愛してるってね。」
その言葉に耐えられないほどの苦痛を感じて「うわああああああああああ」と叫びながら、頭を抱えた。手から刀が滑り落ちて、地面に刺さる。ボクは己の髪を引きちぎらんばかりに掴み、うつむいた。
どうして、胸が張り裂けそうなほど痛むんだ。どうして、どうして…、涙が出るんだ…
おかしいよ、アドニ。教えてよ…。あなたのことはとっくに諦めた。手に入るわけがないと分かっていたけど、それでも、ボクはまだ…
アドニが好きだ。狂わしいほど、アドニが好きなんだ。
涙が、マリアの顔にぽたぽたと落ちた。マリアの顔が憎悪に歪む。
「わたしの恋人を殺したお前に、泣く権利なんてあるわけないだろ?泣くな!」
怒鳴り声にビクッと身体が震える。マリアが立ち上がり、ボクの胸ぐらを掴んだ。殴られると思ったが、ボクは黙って涙を流していた。
マリアが歯を剥き出し、思いっきりボクの頬を殴った。頬が熱く痛み、目の前に花火が散る。
「クソ野郎が!わたしが泣いている時、お前は何と言った⁉弱いお前が悪いと、鼻で笑ったくせに!」
拳で何度も何度も殴られた。骨に拳が当たる鈍い打撃音。猛烈な熱さと痛み。すぐに鼻血が垂れ、口の中に鉄の味が広がった。それでも、ボクは黙って殴られた。
殴られて当たり前だ。ボクは彼女の気が済むまで、いたぶられるしかない。
ボクはそれだけの過ちを犯した。
痛いとか、苦しいとか、そんなことを、ボクが感じたらいけないんだ。
「おい、お前、そのくらいにしておけ。」
誰かがボクを殴り続けるマリアに言うのが聞こえた。腫れて膨れた目を開くと、セラムがマリアの腕を掴んでいた。
「邪魔するな!部外者が!」
マリアが鋭く叫ぶ。拳に血が滲んでいた。ボクの血だけじゃない、マリアの拳からも出血していた。セラムは面倒くさそうに、マリアの手に布を巻いてやりながら、口を開いた。
「ベオグラードが、あんたに何をしたかは知らないし、知りたくもないが、殴って気が済んだろ?」
「気が済むわけないでしょ…。こいつを殺すまで、わたしの気は晴れない。」
「そうかい。だが、おれには何の関りもないことだ。ベオグラードは殺させない。死にたくなけりゃあ、今日のところは撤退してもらえると、こちらも手間がなくていいけどな。」
マリアの赤い瞳に、怒りが浮かぶ。
「…それなら、あなたを先に殺すまで。」
地面から糸がぶわっと現れ、セラムに襲い掛かる。ボクは涙で、それを消そうとした。だが、セラムの身体に糸が伸びる前に、マリアの動きが止まった。
何か別のものに気を取られいるように見えた。ほんの数秒経つと、糸がするすると地面に戻っていった。
「…命拾いしたわね。運がいい。竜の子は回収できたし、これで仕事は終わりね。ちっ、つまらないわ…」
「どういう意味だ?答えろ!」
マリアが愉快そうに目を細めた。
「そのままの意味よ。金色の竜は、もう我々のもの。返して欲しければ、竜の国に来ることね。」
怒りで、身体がかっと熱くなった。マリアに掴みかかろうと、手を伸ばす。だが、手が届く前に、銀色の波がマリアの足元に開き、吸い込まれるように落ちて行った。
吹雪の中に立ち尽くす。真っ白な世界に、セラムの青い髪が浮かんで見えた。その表情は凍りつき、恐怖に瞳孔が開いている。
ボクは地面を思いっきり殴った。
「やられた!狙いはレナだ…!」
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