第16話~終わりの日~
ボクが秋の遺体を背負って戻ってくると、騎士たちがどよめいた。
本当に死んでいるのか、わざわざ近づいて確かめる者さえいた。
騎士王が目を輝かせてボクを見ている。やっと竜殺しらしい仕事をしたと思っていそうな顔だ。ボクは会釈をして、目の前を通り過ぎた。
ボクは秋を美しい場所に埋めてやろうと思っていた。できれば、湖の近くがいい。湖の近くなら、水を求めてたくさんの生き物が秋の墓を訪ねてくれる。そうすれば、寂しくないはずだ。
秋の遺体はひどく重かった。ボクは荒くなった呼吸を整えることもせず、歩き続けた。身体が熱い。それに、汗で服が張り付いて気持ち悪い。
汗を拭い、一歩一歩ゆっくりと進んだ。
ようやく、小さな湖の畔にたどり着いた。湖は青く澄み、小魚が水面のすぐ下を気持ちよさそうに泳いでいた。
ボクは秋の遺体を地面に下ろして、きょろきょろと辺りを見回した。掘れそうな場所があるだろうか…。
あまり浅いと、動物に掘り返されて食べられてしまう。ある程度の深さが必要だ。しばらく良さそうな場所を探し、石や草のない濡れた地面を掘り始めた。といっても、スコップはない。ボクは腰に下げていた剣を地面に刺し、てこの原理で土を掘った。
さっき秋を貫いた剣で、次は秋のために墓穴を掘っている。こんなおかしなことはをするのは、ボクだけだろうなんて、ぼんやりと考えた。
気づくと、空がだんだんと暗くなり、辺りがうす闇に包まれ始めていた。
ボクは汗を拭い、ふとすぐ近くに寝せていた秋を見た。秋の身体に蟻がたかっている。ボクは慌てて蟻を払った。だが、払っても払っても蟻は上ってくる。数回繰り返して、ボクは手を止めた。
無理だ。彼らにとって、これは食べ物でしかないんだ。これが自然の摂理なんだ。ヤレンだって、今土の下で蟻に食べられている。仕方のないことなんだ。
ボクは払うのをやめて、穴を掘ることに集中した。
一体、何時間かかったのだろう。
ボクは穴の底から空を見あげた。日はどっぷりと沈み、空には月が皓々と輝いてた。
穴から這い出て、改めて墓穴を眺めた。なかなか深く掘れた。これなら大丈夫だろう。
ボクはドロドロになった手や身体を湖で洗い流し、秋の遺体を抱えた。血の気のない白い顔。ぐでっとした身体。さっきまで生きていたのに、死んでしまうと物みたいだ。
ボクは秋の身体を穴の淵からゆっくりと下ろした。ずりずりと身体がすり落ちて、穴の底で変な恰好で止まった。ボクは底に降りて、手や足を折り曲げて、まるで丸くなって寝ているような恰好にした。
そうして、さっき積んでおいた花をそっと秋の手に握らせようとした。だが、さすがに握ってくれるわけもなく、しばらく試行錯誤して、やっと指の間に挟むことができた。
綺麗な白い花。たった一輪でも、それは秋のために積んできた花だ。
ボクは穴から這い出て、秋の眠っているような顔を上から眺め、それから土をかけた。だんだんと秋が土に埋まって見えなくなる。
正直、毎日毎日戦いに来る秋は悪夢でしかなかった。だけど、秋も誰かが愛し合って生まれた子どもなんだ。ボクたち人形は捨てられた子どもだが、それでもそれにも理由があったのだろうと、今なら思う。
世界の当たり前から弾き出されて、生きているのか死んでいるのかも分からない地獄の先に、穏やかな死があってもいいはずだ。
ボクは無心になって土をかけつづけた。やがて、秋の身体は見えなくなり、穴が埋まった。
ボクはその墓に石と花を添えた。ボクだけが知っている秋の墓。
こうやって土をかけて、死んでしまったものを隠すことで、微生物に分解され、虫に食べられて惨たらしく朽ちて行く姿を見なくて済む。
ボクたちは、そうやって死んだ人たちを地面に埋めて、生きている。そして、いつかは忘れてしまう。
ボクと秋を隔ているのは、数mの土だけなのに、ひどく遠く感じた。生きていると死んでいるのでは、こんなに違うのか。
ヤレンに感じた寂しさの原因はこれだ。
ボクは秋の墓の傍に寝ころんだ。地面がひんやりと冷たくて気持ちがいい。
そこで、自分がひどく疲れていることに気づいた。
そう言えば、昨日一睡もせず、騎士の国に戻ってきたのだった。
それを思い出した途端、眠くて眠くて仕方がなくなった。瞼が重くて、目を開いているのが苦痛に感じた。
ボクは月が浮かぶ夜を見上げて、ふうと息を吐いて、目を閉じた。
身体が地面に沈んでいくような感覚が走り、ぷつりと意識が途絶えた。
*
鈍い頭痛で目を覚ました。
ボクはゆっくりと目を開いた。灰色に曇った空が視界に入って、ここがどこか分からず、目を瞬いた。
何だか夢を見ていた気がする。確か、ヤレンが死んでしまって、それから秋を殺して、最後にアドニとキスをしたんだけ。
そんな夢を見た。
ボクは上半身を起こして、己の身体を見降ろした。服に泥と血が乾いてこびりついていた。
「え…、なにこれ…」
そのひどく汚れた姿にぎょっとして、辺りを見まわした。ボクが寝ていた地面のすぐ隣には、石と花が置いてあった。
ああ、そうだった。夢じゃない、全部現実だ。
ずきっと頭が痛んだ。頭が痛い。何も考えられないほど痛い。目をぎゅっと閉じて、深く息を吐いた。
「大丈夫、大丈夫。」
少し死が近づいてきただけだ。まだ、死ぬわけじゃない。
ボクは重い身体を引きずって、水辺まで移動した。今日は天気が悪いせいもあって、湖も灰色に濁って見てた。小魚の姿も見えない。
ボクは水をすくって顔を洗った。それから、喉が乾いているのに気づき、すくって飲んだ。冷たくて美味しい。
水を飲むと、頭痛が少しマシになった。
ボクは灰色の水面に、ぼやっと映った己の顔を眺めた。肌は白いが、髪はまだ真っ黒だ。
人形の終わりは白くなると秋が言っていたから、まだ時間は残っている。
身体にこびりついた泥と血を落とすと、ゆっくりと立ちあがった。
今が何時か分からないが早く帰らないと、また逃げたと思われる。
ボクは振り返って秋の墓を眺めた。おそらく、ここに来ることは二度とない。
「さようなら、秋。」
そうつぶやいて、ぐっと唇を噛み締めて前を向いた。さあ、行こう。
腰の剣に手を添えて、歩き出した。
昨日秋を背負って歩いた道を戻る。昨日は歩くことに必死でよく見ていなかったが、森の中の小道を歩いて来たようだった。
帰り道はこっちで合っているのか不安になりながら、道を進んだ。
森を抜けると、草原に出た。青々と茂った草。そして、遠くに上がる黒い煙。
それを見た瞬間、胸騒ぎを覚えた。あんなに黒々とした煙を見たのは、2度目だ。1度目はイズミルが死んだ日。あの時も黒い煙が上がっていた。
嫌な予感がする。
ボクは煙の方向に向かって駆け出した。
ぐんぐんとスピードを上げて、風のように草原をひた走る。途中から何かが燃える嫌な臭いと、足元に騎士の遺体が転がっているのが目に付くようになった。
ボクが寝ている間に、とんでもないことが起きた。それだけは、確かに分かった。
丘を越えて、湖の湖畔に出た。ボクはその光景を見て、息を飲んだ。
「なに…これ…」
湖の湖畔にたたずむ美しい白堊の城が燃えていた。
何が起こっているのか分からない。どうして騎士王の城が燃えているんだ。
ボクは居ても立っても居られず走り出した。
近づくにつれ、城の周りで騎士たちが懸命に消火活動している姿が目に付いた。湖から水を桶ですくい壁にかけているが、火の勢いはとどまるところを知らない。何かが弾ける音が響き、燃え上がる火の粉が辺りを赤く染めていた。
城の後ろから回って、城門に出た。
城の入り口、初めて騎士の国に訪れた時、剣を突き付けられた場所に騎士王の身体が千切れて散らばっていた。鎧が火に照らされて、怪しくてかてかと光っている。
どくっと心臓が痛いほど跳ねた。口の中が乾いて、目の前が霞んでいく。
ボクはよろよろと騎士王の身体の傍に膝をついた。
兜の中に騎士王の頭が入っていた。皺の寄った顔。虚ろに見開かれた目。ボクは震える手でそれを拾った。ずっしりと重い。
何もかもが終わった。
ボクは失敗した。
あの時、城に帰っていれば…、秋の遺体を埋めに行かなければ…。
少しの気の緩みが、すべてを台無しにしてしまった。
この燃え盛る炎をどうすることもできない。
そこで、はたと気づいた。もしこの炎がアドニによるものなら、ボクが涙を流せば消えるかも知れない。だが、それは裏を返せば、アドニが彼らを殺したということだ。
「怖い…」
だが、このまま白堊の城が燃え尽きるのを待っていることもできなかった。
ボクは涙を流すために目を閉じて、あの時のキスを思い出した。唇の熱い感触、吐息、低くボクの名前を呼ぶ声、髪に触れる手。失った幸福に胸が潰れそうになって、涙があふれた。
熱い涙が瞼の裏に溜まって、目じりや目頭から流れて、頬を伝い地面に落ちて行く。
目を開けてしまえば、すべてが終わる気がして、恐ろしくなかなか勇気が出なかった。だが、覚悟を決めて、目をゆっくりと開いた。
さっきまで燃え盛っていた炎が消え、黒く煤けた城壁がくすぶっていた。
ボクは「ああ…」と悲鳴に似た声をあげて、がっくりとうなだれた。結局、最後にボクを追い詰めたのはアドニだった。騎士王が殺されて、城も燃やされて、ボクにはもう何も残っていない。
騎士たちが剣を抜いてボクに近づいてくるのが、目の端に見えた。ボクを捕まえようとしているのか、あるいは殺そうとしているのかもしれない。
こんなところで死んでたまるか!
ボクは立ち上がって、剣を構えた。人数にして、ざっと20人。
ボクなら容易く切り伏せて、逃げられるはずだ。深呼吸をして、騎士たちを睨んだ。だが、手に力が入らず、剣がかつんと地面に落ちた。猛烈な吐き気と、眩暈に立っていられずに倒れる。
騎士がボクの身体に触れ、ボクの両手を縛っているのを感じた。しかし、抵抗することができない。
ボクは何とか逃れようともがいたが、身体をきつく縛られて、身じろぐこともできなかった。目の前がぐちゃぐちゃと歪んでいる。平衡感覚がなくなって、今寝ているのか、それとも担がれているのかも分からなかった。
やがて意識が遠のき、気絶した。
*
大きな音で目を覚ました。といっても、意識が朦朧としていて、はっきりしないが、どうも誰かがボクに怒鳴っているようだ。
頭が重くて仕方ないのを我慢して、何とか目を開いたが、何も見えない。
ボクの顔の前で、誰かがしきりに何かをまくしたてている。途切れ途切れだが、「竜殺し」「誑かした」「偽物」と聞こえた。
ボクは何とか答えようと口を開いたが、「うー」「あー」と意味のないうめき声しか出なかった。
しばらく、試行錯誤したが、やがて睡魔に耐えきれず、意識を失った。
だが、すぐに頭から冷水を浴びせられて、意識が戻った。
恐らく尋問されているようだが、何の罪でボクは捕まっているのか分からなかった。
がばっと顎を持ち上げられて、早口で罵られている。しかし、何を言っているのかさっぱり分からなかった。
続いて、手の指に鋭い痛みが走った。すぐに猛烈な熱さと痛みが襲ってきて、悲鳴をあげた。
その激しい痛みでようやく靄がかかっていた視界が晴れ、意識を取り戻した。
ボクは暗い部屋の中で椅子に縛り付けられていた。目の前には見たことのない男が1人立ち、ボクを覗き込んでいた。
ボクが目を覚ましたのに気づき、不気味な笑みを浮かべた。
「よう、竜殺しの少年。いや、偽物の竜殺しさんよ。さあて、次はどの指の爪がいい?お前が洗いざらい吐くまで、爪を剥いでいくから、話すなら今のうちだぜ?」
そう言って、ペンチのような器具をボクの顔の前でカチカチと鳴らした。
ボクは口に入った水をぺっと吐いて、男を睨みつけた。
「あなたに話すことなど、何もない。」
「はっ、強気だねぇ。嫌いじゃないが…」
男はニヤッと笑って、もう一枚爪を剥いだ。激痛が走る。だが、ボクは眉一つ動かさなかった。
意識朦朧としていた頃は、刺激に対して反応してしまっていたが、意識が戻れば、このくらいどうということもなかった。
まったく反応しなくなったボクを見て、男がちっと舌打ちをした。
「何だよ。目を覚ました途端これかよ。明日までに自白させないといけないってのに…」
ボリボリ頭を掻いて、じろりとボクを見た。
「なあ、お互い仕事が増えるのは嫌だろ?さっさと吐いちまえよ。どうせ、騎士王に竜殺しのふりをしろと言われたんだろ?」
「違います。」
「は、そうかい。それじゃあ、右の手の爪はいらないな?」
そう言って、ボクの右手の爪を剥いでいった。痛い。恐ろしいほど痛かった。だが、顔をほんの少しだけしかめる程度だった。
指の先から血が滴り、地面にぽたぽたと落ちた。
男は血に塗れたペンチをテーブルの上に置き、ボクの前にしゃがみ込んだ。
「なあ、お前は知らないかもしれないけどさ、ここいらの国全部が竜の国に降伏したんだぜ。」
ボクは驚きでつい目を見開いた。男がニヤッと笑う。
「お、さすがに驚いたみたいだねぇ。宝石っていうの?すっごいやつらが、一気に襲ってきて、半分の国の王が殺されたんだってさ。もう壊滅的被害よ。それで、まあ、金品を巻き上げられるわ、不利な条約結ばれるわ、残った半分の国の王はかんかんになってお前をとっ捕まえたわけだ。」
そこで男が言葉を切った。そして、次は熱した鉄を取り出して、ボクの腕に押し付けた。肉が焼けるじゅっという音と、耐えがたい痛みに、悲鳴をあげそうになった。ぐっと唇を噛み締めて我慢する。
男はひゅーと口笛を吹いた。
「すげぇな、お前!これで悲鳴を上げなかった奴は初めてだ!ガキの割にやるじゃん!」
男が興奮して顏を上気させた。ボクは己の腕が焼ける臭いに気分が悪くなり、げぇと吐いた。だが、内容物がなく胃酸を吐くだけだった。
男が声を立てて笑い、ボクの口に水を含ませた。
「さすがに耐えきれなかったようだな!いやはや、だが、こんなになぶりがいのある奴が来てくれて嬉しいなぁ。どうせ明日までの命だ。俺と語り明かそうぜ?」
その言葉に、目の前が真っ暗になった。
「明日まで…?」
「ああ、そうそう。伝えてなかったけど、お前は明日処刑されるよ。」
男がさも当たり前に言った。ボクは身体が恐怖に竦むのを感じた。
明日が来たら、ボクは殺される。今になってヤレンの言葉が頭の中で響いた。
『彼らは君を竜殺しなんて崇めているけど、あいつを殺せなかったら、君にすべての責任を押し付けて、君を殺してしまう…!』
ボクは「その通りだ」と思って、うなだれた。
ヤレンの言う悲しい終わりが来た。覚悟していたはずだったが、改めて目の前に迫ってくると、言いようのない絶望を感じた。
今が朝なのか昼なのか、それとも夜なのかは分からない。
後数時間、あるいは数十時間の命だ。残りの生涯をこの男と過ごさなければならない。
ボクは泣きそうになるのを何とか堪えた。
穏やかな死に際など、手に入るわけがなかった。
ボクは明日処刑台に立ち、首を切られ、この生涯を終える。
何時間も続いた拷問の果て、ボクは最後まで口を割らなかった。
ボクは騎士王に「竜殺し」だと言えと言われたわけでもなく、本当にファセスの生き残りなのだから、当たり前だ。
だが、一つだけ彼らの主張を是とするなら、確かにボクは彼らを誑かし、竜の国と戦うように仕向けた。そして、その罪を問われているのなら、甘んじて罰を受けなければならないと思った。
手と足の爪はなくなり、血で真っ赤に染まった。幸いなことに、熱した鉄をあてられる以上のことはされなかった。
おそらく、処刑台に上った時、あまりに惨たらしい姿だと同情をかってしまうと考えたのかもしれない。
ボクは最後の晩餐に、ぱさぱさとしたパンと腐りかけたミルクを飲んだ。そう言えば、アドニと初めて会った時、こんな食事をしたような気がする。
最後に、アドニに好きだと言えて、本当に良かった。
心残りはあるが、ボクは死を受け入れていた。それでも、受けるまで何時間も絶望と向き合った。死にたくないという気持ちが、何度も襲ってきて、そのたびに叫びそうになった。
だが、やがて諦めが強くなり、希望は潰えた。
ボクが最後の晩餐を食べ終わると、男がボクの身体を縛っていた紐を解いた。
「本当に強情な野郎だよ、お前。ま、時間切れだ。後は死んだ後に、適当に王様たちがお前の罪状をしたためるから、安心しなよ。」
ボクは目を伏せた。それは嫌だ。どうしてボクだけに責任を押し付けるのか分からない。彼らはボクに脅されたのではなく、自分の意志で竜の国と戦うことを選んだ。それなのに、ボクに全部押し付けて、ボクを殺してなかったことにしようとしている。
悔しくて悔しくて、涙が出た。
今になって涙を流すボクに、男が手錠をかけながら言った。
「おいおい、今泣くのかよ!最後まで堂々として死ねばいいじゃねぇか。たく、せっかくの男前が台無しだぞ?」
ボクは鼻をすすって、腕で涙を拭いた。そして、何もかもに別れを告げた。
男がボクを引っ張る。ボクは黙って歩きだした。今ここで、この男を殺して、逃げ出すことも不可能ではない。だが、すぐに捕まってしまうだろう。それだけ、今のボクには力がなかった。
もう何もかも手遅れで、瞬く間にボクは死んでしまう。
一瞬、ヤレンの姿が薄暗い部屋の奥に移った。悲しそうに顔をしかめてボクを見ている。
『本当にこれでいいの?君の幸いはどこにあるの?』
あの少し低い、凛とした声が聞こえた気がした。ボクは目を伏せて、口を開いた。
「ただ、この戦いを始めてしまった責任を果たすだけです。」
そうだ。ボクは自分の言葉に頷いた。責任を果たす時が来た。
今日が終わりの日なんだ。それが分かっているだけ、ボクはマシだ。
*
雨が降っている。
灰色の雲から、ぽつぽつと雨が降り、世界を灰色に染めていた。さらに、遠くで微かに雷鳴が聞こえた。
ボクは空を見上げ、それから、目の前の処刑台に視線を戻した。木製の処刑台には、処刑人と思しき男が雨に打たれながら、ボクを待っていた。
ボクは男に引きずられるように、処刑台に続く階段を上った。一歩ずつ死に近づいていく。あの台の上にあがれば、ボクの首は飛ぶ。
目を閉じれば、様々な思い出がよみがえった。楽しいことばかりではなかった。苦しいことばかりだった。それでも、ボクにとってかけがえのない日々だった。
ヤレン、イズミル、ジユル、イジュマ、セラム…。霧の街での穏やかな暮らしが懐かしい。結局、ヤレンにはゲームで一度も勝つことができなかったなと、ぼんやりと考えた。
処刑台の上に上ると、処刑台の下は広場になっていた。ボクの処刑を見に来た、老若男女が広場を埋め尽くしていた。その顔は険しくボクを睨んでいた。
彼らは傘もささず、雨にぐっしょりと濡れながら、目に怒りをたたえていた。騙された怒り、親兄弟恋人を殺された怒り、全員がボクに憎しみを向けていた。その迫力にボクは気圧された。
だが、一方で、ボクに怒りを向けて、一体何になるのだろうと思った。ボクが死んだことで、彼らの生活が変わるのだろうか。結局、何も変わらない。強いて言えば、気持ちが少し晴れるくらいだろう。
処刑人がボクの罪状を読み上げた。詐称罪に詐欺罪…、いくつもの罪がでっちあげられていた。これだけ聞けば、ボクは極悪人だ。彼らはボクが死んで当然だと、国民に思わせたいのだと分かった。
処刑人は罪状を読み上げると、ボクにひざまづくように言った。ボクは黙って従った。
顔は無表情を装っているが、心臓が悲鳴をあげている。
死にたくない…、死にたくない!
ボクは心臓の音がうるさくて仕方がなかった。もうすぐ、止まるのに、そんなに頑張る必要がない。
処刑人が剣を持ち、ボクの横に立った。そして、剣を振り上げようとした途端、雷鳴が轟き、広場に雷が落ちた。
びかっと辺りが光に包まれた刹那、ボクには声が聞こえた。それは懐かしい声だった。
『ベオグラード、レナを頼む。』
一瞬だったが、確かにイズミルの声がした。ボクがハッとして顔を上げると、イズミルがボクに微笑んでいた。
「ああああああ。」
声にならない声が出た。そうだ。まだ、レナがいる。ボクには守るべき人がいるじゃないか。
何もかも諦めていた心に炎が燃え上がった。ボクが死んでしまったら、レイト人は殺されてしまう。おそらく、レナも死んでしまうだろう。
それは許せない。
ボクは隣に立つ処刑人に襲いかかって、剣を奪おうとした。だが、何人もの男たちがボクの上に覆いかぶさり、逃げられないようにおさえつけた。
それでも、ボクは彼らを蹴り飛ばして、逃げようとした。だが、身動きが取れないくらい、きつくおさえつけられてしまった。
頭の上で剣が鈍く光っている。あれを止める術がない。
ボクは「うわああああ」と叫んだ。
首の上に剣が落ちる。
その瞬間、ひんやりとした空気が辺りを包み、あっという間に処刑人が凍り付いた。ボクを押さえつけていた男たちが、あまりのことにぎょっとして力を緩めた。
途端、ボクの身体の周りに風が立ち、空に飛びあがった。そして、誰かの腕の中に納まった。見上げると、ジユルが涙を流して、ボクに笑いかけていた。
「本当に待たせて、ごめんな。迎えに来たよ、ベオグラード。」
ボクはその顔を見た途端、涙があふれて止まらなくなった。
「助けに来てくれると…思っていませんでした…」
ボクの言葉に、ジユルが寂しそうに笑った。
「だろうね。あんたはいっつもそうだ。でも、オレたちが、あんたを見捨てたことがあったか?」
ボクが首を振ると、ジユルがよしよしと頭を撫でた。
「よく頑張った。さあ、帰ろう。オレたちの家に。」
ボクは泣きながら、うなづいた。
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