第8話~大切なもの~
うららかな春。
「いやあ、ご迷惑をおかけしてすみませんね。もう傷も大丈夫です!これからばりばり働きますよ!」
ジユルが元気よく肩をぐるぐると回しながら言った。それを見て、ヤレンがニコッと笑った。
「それは良かった。ジユルがいるかいないかで戦術も大きく変わるしね。活躍を期待してるよ。」
その言葉に、ジユルが「任せてください!」と胸を張った。
レイト人は、この3年の戦いで半数が死に、もはや真っ正面から戦う兵力は残っていない。今はレイト側の宝石の力だけが頼りだ。それでも、たった5人ではとてもすべてを守り切ることは難しく、ほんの1週間前もまた同じように街が焼かれた。霧の街からは遠く、たどり着く頃には街が灰になっていたらしい。
ボクはその時連れていってもらえなかった。ジユルがいない間、戦っていたのはヤレンとイズミルとイジュマで、ボクは何の役にも立っていない。力が使えないのだから当たり前だ。
ボクはそれに歯がゆさを感じていた。この力を使えれば戦況を大きく変えることができるのに、どうしても涙を流せない。何か何かが足りないのだ。それだけは分かっているのに、その何かが分からなかった。
だが、ジユルが復活したことで、ボクはまた戦いに連れていってもらえるようになる。きっと、その何かは戦うことでしか見つからない。あんなに怖かったのに、ボクは今戦いを欲していた。
ボクが考えに耽っているのに気づき、ヤレンがボクの顔を覗き込んだ。
「何だか思い詰めた顔をしているね。大丈夫?」
「大丈夫です。ヤレンに、いつまでたってもゲームで勝てないなと思っていただけなので。」
ボクは嘘をついた。本当のことを言ったら、きっとヤレンは優しい言葉で励ましてくれる。だが、それは何の役にも立たない。今ボクに必要なのは、そんな言葉ではなかった。
ヤレンがボクをじっと見つめて口を開いた。
「本当に?」
ボクはすぐに噓だとばれていると分かった。だが、今更違うとも言えずに頷く。ヤレンは一瞬口を開きかけたが、それ以上追求しなかった。
ヤレンは、あの夜以来ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。しかし、相変わらず、イズミルとの関係は変化がないようだ。
最近、イズミルは特に忙しくしており、ボクはほとんど姿を見ていなかった。何か準備をしているのだと聞いたが、詳しくは教えてもらっていない。
もやもやと考えていたら、丁度イズミルが戻ってきた。
「ただいま。」
「おかえり。今日は早かったね。」
「ああ、全然話を聞いてもらえなくて、諦めて帰ってきたんだ。」
やれやれと首を振って、イスに座った。今日のイズミルは生地のよい背広を着ており、髪もきれいに整えていた。ボクは長にでも会ってきたのだろうかと思う。
ジユルがイズミルに冷えたお茶を渡した。
「お疲れ様です。最近、よく出かけてますけど、一体、どこに行ってるんすか?」
「…守秘義務があって答えられない。実際、まったくうまくいってないから、話せることもないんだけどな…。」
イズミルが沈んだ表情で答えると、お茶を一気に飲み干した。そして、大きくため息をついた。
「あまりに無力で絶望しそうだよ…。私は所詮、ただのレイト人だって思い知らされるのが、こんなに苦痛だと思わなかった…」
そう言って顔を手で覆ってうつむいた。こんなに打ちひしがれているのを見るのは初めてだ。ボクはイズミルの落ち込んだ姿に、何と言ってよいか分からなくなった。ジユルも同じだったようで固まっている。
その様子に気づき、ヤレンがボクとジユルにささやいた。
「驚かせてごめん。ちょっとイズミルと話すからさ、2人は外してくれるかい?」
ボクとジユルは頷き、家を出た。
ボクたちは無言で歩き続けた。いつもなら冗談を言って場を和ませるジユルも、さすがに何も言えないらしく押し黙ったままだ。
ボクたちは通りを抜けて、川べりに座った。もうすぐ夕暮れだ。辺りは徐々に暗くなっていた。
ジユルがため息をついて、寝転がった。
「あーあ、あんな姿を見せられるとさ、レイト人が追い詰められてきてるって分かっちゃうよね。戦っても、やっぱり数の差は覆せないし…」
「そうですね…」
「オレたちが一体、何をしたっていうんだろ…。竜の人間とさ、オレたちは見た目が違うし、宗教も違うけどさ、でも同じ人間なのに何がそんなに許せないんだろ…」
ボクもまったく同じことを考えていただけに驚いた。
空を見上げていたジユルが、ボクに視線を投げた。
「あんたはさ、そろそろ逃げた方がいいと思うぜ。絶対、このままだと死ぬ。100%死ぬ。オレやイズミルさん、イジュマは仕方ないし、ヤレンさんも覚悟の上だと思うけどさ、あんたにまで強要するのは間違ってる。」
ジユルの表情はいたって真面目で、本気で言っていると分かった。ボクは今まで近い距離に感じていたジユルが急に遠くに感じて、ぐっと唇を噛み締めた。
「…そんなこと言わないでください。ボクにとって…、ヤレンもイズミルもジユルもイジュマも、もうどうでもいい存在じゃないんです。今更、逃げるなんてできない。」
ボクの言葉に、ジユルがぽかんと口を開けた。
「え、そうなの?まさか、そんな風に思ってくれてるなんて思わなくってさ。無神経なこと言って、ごめん。」
そう言って、頭を下げた。ボクは首を振る。遠くに感じたなら、手を伸ばしてみればいい。こんな簡単なことを、今やっと気づいた。
ジユルは小さく笑って、独り言のように呟いた。
「やっぱりさ、ちゃんと一回腹を割って話さないとだめだよな。オレさ、あんたに遠慮してたんだ。レイト人でもないし、竜の人間でもないのに、協力してもらって申し訳ないというか…。オレからは何にもあんたにお礼できやしないのにさ、これであんたが死んだらオレたちのせいだって思ってたんだ。」
「そんな…、ボクは今まで人間として接してくれた人がほとんどいなかったので…。あなたからもらった善意のお礼がしたいとずっと思ってたんです。だから、ボクはボクの意志で今ここにいるので、気にしなくていいんですよ。」
ボクが穏やかな口調で言うと、ジユルの頬に涙が伝った。辺りは薄暗くなっているのに、涙が不思議な光を帯びて輝いて見えた。
ボクはまた泣かせてしまったと一瞬暗い感情に押しつぶされそうになったが、ジユルの涙は決して悪いものではなかった。
「…ありがとう。あんたさ、本当にいい奴だよな…」
ぐずぐずと鼻をすすりながら、ジユルが笑った。その表情を見ていると、不思議と胸の奥が暖かくなって、ボクは微笑んだ。
急に視線を感じて振り返ると、手にランタンを持ったイジュマが立っていた。
「あら?こんな暗いところで、何してるの?」
そう言って、ボクたちに近づいてきた。
その隣には見たことのない男性がいた。イジュマより少し背が高く、青い髪に銀色の瞳を持つ青年だった。歳はジユルたちより少し上で、髪をオールバックにしている。
ジユルが涙を拭いて、立ち上がった。
「いや、何、ベオグラードと話してたんだよ。そういうイジュマは、セラムと散歩?」
「…まあ、そんなところ。」
なぜかイジュマが言葉を濁した。
セラムと呼ばれた青年が「ちっ」と舌打ちした。
「おれの方が年上だろ?さんつけろよ、ジユル。」
「オレが敬称をつけるのは、尊敬している人だけなんでね。あんたは、オレの可愛い妹の好い人だけどさ、敬語は使えないねぇ。」
ジユルがへらへらと笑う様子に、また舌打ちした。そして、川べりに座っているボクに気づき、眉間に皺を寄せた。
「お前ら、まだレイト人以外とつるんでんのかよ?あのクソ兄貴も金髪野郎に媚び売りやがって…。見ていてイライラするんだよ。」
「はっ、のうのうと生きてるあんたに言われたかないね。イジュマと会うのは、あんたらの勝手だけどな、その文句しか言えない口を閉じててもらおうか。」
ジユルがセラムをキッと睨んだ。ボクはセラムがイズミルの弟であることに衝撃を感じた。確かに言われてみれば、顔立ちが似ている。だが、常に苛立っていて、眉間に深い皺が刻まれていた。
ボクは迷ったが立ち上がって、ジユルの隣に歩いて行った。ボクが歩いてくるのを見て、セラムが一瞬身構えた。それを見て、彼はレイト人以外に対して恐怖を抱いているのだと気づく。
セラムがボクを上から下まで眺めた。
「…こんなひ弱そうな女が何の役に立つんだ?ついに兄貴もおかしくなったみたいだな。」
ふんっと鼻で笑われて、ボクは訂正すべきかと思って口を開いた。
「ボクは男です。」
「は?女みたいな男かよ。気色悪い。」
げぇっと顔をしかめた瞬間、イジュマがセラムの頬を強かに打った。
「いい加減にして、セラム!なんであなたはいつも人を傷つけることばかり言うの!?あなたに、どんなに辛い過去があっても、他者を傷つけていい理由にはならないのよ!」
怒りで歯止めが利かなくなったのか、吊り上がた瞳から涙がぼろぼろと溢れた。
セラムは叩かれた頬を触り、ほんの少し呆然としたが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り返そうとした。だが、その前に2人の間に割って入る者がいた。
「まったく、帰りが遅いから心配して見に来たら…。こんなところで喧嘩するもんじゃない。」
「…兄貴。」
イジュマとセラムの間にイズミルが割って入っていた。少し気まずそうに、セラムに視線を投げた。
「久しぶりだな、セラム。霧の街に来ていたのなら、声をかけてくれてもいいじゃないか。」
「…冗談ぬかすな。父さんと母さんを殺した竜の人間とつるんでるてめぇと、話すことは何もないんだよ。兄貴は憎くないのかよ。おれはあの金髪野郎を見てるだけで、頭がおかしくなりそうだ。」
吐き捨てるようにセラムが言った。イズミルはヤレンを罵るセラムを見ても怒った様子も見せず、ただ憐れみの表情を浮かべていた。
「ヤレンが殺したわけじゃない。セラム、お前は恨む人を間違えている。イジュマもジユルも家族を目の前で殺されているんだ。だが、ヤレンを憎んでいない。それがなぜか分かるか?」
「はっ、ただのお人好し連中を例に出されてもね。兄貴が裏で何て言われてるか知ってるか?金髪野郎の腰巾着だよ。レイトの長の血が流れておきながら、恥ずかしいと思わねぇのかよ?」
セラムが顔を歪めて、イズミルを罵った。イズミルは、まっすぐセラムを見つめた。
「…なんと言われようと知ったことじゃない。私はレイト人のために戦っているし、ヤレンも同じだ。その思いがある限り、私たちを罵る権利は誰にもないんだ。分かったか、セラム。」
「はいはい。兄貴はいっつも同じ返ししかしないよな。だから何だって言うんだよ。人間、生まれがすべてなんだ。兄貴はレイト人で、あの金髪野郎は竜の人間。その事実は覆せないんだよ。」
苦々しくセラムが言った。ボクは彼の中に渦巻く憎悪を感じ、悲しくなった。
今までボクの周りには、誰かに対して憎しみをぶつける人が居なかった。それがどんなに幸運なことが今分かった。
誰かが笑った。ボクは驚いて笑い声のした方を見ると、そこには笑みを浮かべたヤレンが立っていた。
「その通りだよ、セラム。君の言うことは正しい。生まれがすべてだ。僕は君たちの家族を殺した人間の血が流れている。そして、君の怒りも正しい。だけどね。」
そこでヤレンが急に真剣な表情になった。顔立ちが整っているせいか気迫が増し、ボクはゴクリと唾を飲んだ。
「たった1人の血の繋がった家族を傷つけるのはやめてほしい。君の家族が死んだのも、その時、君が街にいなかったのも、イズミルのせいじゃない。その怒りをぶつけるのは間違っている。」
セラムの顔がみるみる赤くなった。
「てめぇにだけは言われたくないんだよ!この人殺しが!顔も見たくねぇ。さっさとレイトのために死んでくれ!」
捨て台詞を吐いて、セラムがだっと駆け出した。誰も追いかけない。全員が押し黙っていた。
ボクは苦しくて悲しくて、やりきれない気持ちでいっぱいになった。
どうして人を傷つけるのか、それはきっと考えても答えは出ない。だけど、いつか笑い合って生きていける日がくればいいのにとボクは思った。
*
今日は雨が降っていた。だが、そんな日でもボクたちに休みはない。
レイト人の街が襲われているという知らせが来た時、ボクたちは丁度、出撃の準備をしていた。
最近はレイト人の街を1日置きに巡回して、異変がないか敵はいないか確認することが日課になっていた。だから、その知らせを聞いた時、ついにその日が来たかと思った。
しかも、襲われている街は霧の街から、そんなに離れていない。おそらく今から向かえば、虐殺現場を押さえる事ができる。それはつまり、アドニと戦うということだ。
ボクはもう恐れてはいなかった。誰のために戦うかはっきりしたからかもしれないし、単純にもうボクはアドニのことが好きじゃなくなったのかもしれない。
あの時、「忘れてほしい」と言った手前、ボクはもうアドニのことは諦めなければならないのだから当たり前だ。だけど、ちくりと胸の奥が痛んだ。ボクはそれに気付かないふりをした。
ボクが刀を持って外に出ると、もう全員がそろっていた。
イズミルが全員に聞こえるように声を張り上げた。
「目標は、森の街だ!ここからは10分もかからない。援軍が来るまで、私たちでできる限り敵を叩く。いいな!」
全員が頷く。
ボクは今まで通り竜の背に乗り、その後ろにジユルとイジュマが続いた。竜が飛び上がると容赦なく雨が顔を打ち、雨水で呼吸ができなくなった。髪も服もぐっしょりと濡れて、肌に張り付いて気持ち悪い。やっぱり雨の日に戦いに出るものじゃないと思った。
森の街はすぐに見えてきた。雨で白く霞んだ先に、黒く街が浮かんでいた。雨だからか炎は見えない。
イズミルがジユルに合図し、全員が街のすぐ近くに降りた。降りしきる雨音以外は何も聞こえない。この街は今襲われているはずなのに、それはおかしい。
切り裂くような悲鳴が響いた。声がした方向を見ると、水しぶきをあげて何かが猛烈な勢いでこちらに飛んできた。ジユルがとっさに空中に文字を書き、風の障壁を作ったが、それでも防ぎ切らず、全員が散り散りになって避けた。
さっきまでボクたちがいた地面にぶつかり、派手に血しぶきをまき散らしたものは、レイト人の頭だった。女性と子どもの頭がまるでトマトのように潰れている。脳みそが散り、目玉が飛び出ていた。
ボクは地面に着地しながら、腰の刀をすらりと抜き放った。途端、頭が飛んできた方向から、人間が飛び出してきた。
ヤレンが鋭く叫ぶ。
「来た!竜の宝石たちだ!」
ボクはぐっと目を閉じて呼吸を整え、宝石たちの顔を見渡した。フォレスにリニー=アン…。それから名前も知らない宝石たち。だが、アドニの姿はない。
ボクは心の底から安堵した。
ボクの前にリニー=アンが立ちはだかった。赤毛をおさげにした、ボクとほとんど歳の変わらない少女だ。ボクを見て、クスクスと笑い始めた。
「あなたアドニにくっついてた子でしょ?あなたを殺して、その生温かい心臓を触りたいってずっと思ってたの!最近は汚いレイト人ばっかりで退屈してたから、嬉しいわぁ。」
満面の笑みで、ボクにナイフを向けた。彼女の能力は、おそらく時間操作。だが、ボクは負ける気がしなかった。操作するなら、それを見越して動けばいい。
ボクはリニー=アンを警戒しながら、周りの状況をうかがった。全員と距離が離れているが、目視で確認できた。ヤレンの前にはフォレスが、イズミルの前には恐らく水の能力者が、イジュマの前には…。そこで、ジユルがいないことに気づく。はっとして、辺りをきょろきょろと見渡すと、空に浮かんで既に戦っていた。
竜の宝石は、今のところ5人。こちらも5人。増援があると見越して、ぎりぎりだ。
ボクは柄を握り締めて、リニー=アンに刃を向けた。ボクはボクの仲間のために、この少女を殺す。
ボクの殺気に気づき、リニー=アンが心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
「やっとやる気になってくれたのね!あなた、いっつも逃げるだけでまったく相手にしてくれなかったでしょう?遊び相手としては申し分ないわよねぇ!」
「…ボクは遊ぶつもりはありません。ただ、作業としてこなすだけです。」
「まぁ!そんなの面白くないじゃない!もっと楽しみましょう?」
そう言って、ボクにナイフを投げた。ボクは次の攻撃まで見越して大きく飛び上がり、距離をとると、しゃがんだ。
瞬間移動してきたリニー=アンの手が、さっきまでボクの頭があった場所で空を掴んだ。リニー=アンが驚いて、目を見開く。ボクはその一瞬のすきをついて、刃を瞳に向けて突き立てた。
あと少しで瞳を貫きそうだったが、リニー=アンがまた時間を操作して消えた。次の一手はもっと早いはずだ。ボクは自分の心臓に手を当てて、リミッターを解除した。
ボクたち人形は、基本出力以上の速度を出さないようにリミッターが付けられている。そのリミッターを外すことで化物級の速さが手に入るが、その分命を削る。
ボクは猛烈な速さで振り返って刃を横に振った。途端に、ぎゃっと悲鳴があがって、リニー=アンが姿を現わした。ほとんど同じタイミングで、ナイフと手首がどちゃっと地面に落ちた。
リニー=アンが血がどくどくと流れる手首を押さえて、脂汗をかきながらボクを罵った。
「化物が!くたばれ!」
「お断りします。」
「なんで…、なんで…。時間を速めてるのに…。」
青白い顔でぶつぶつと呟き、また姿を消した。ボクは刀を片手に持ち、その残像を目で追う。焦った獲物ほど、殺しやすいものはない。動きが単純になって、むちゃくちゃに突っ込んでくるだけだからだ。
ボクがあと一歩でリニー=アンを殺すという時に、目の端に炎が見えた。心臓が一瞬止まる。怖れていた事態が起こったと気づく頃には、もう遅かった。
その炎がまっすぐイズミルに突っ込んでいく。だが、ボクはまだリニー=アンの相手をしていて手が離せない。気づくと、ボクは叫んでいた。
「ヤレン!アドニだ!イズミルを守って!」
ボクの言葉と同時に、ナイフがボクの右腕に刺さった。ボクは痛みで一瞬、気が遠くなりかけたが、歯を食いしばってリニー=アンを蹴飛ばした。だが、その前にリニー=アンが姿を消した。
ボクはナイフを抜いて、イズミルの方を見た。金色の剣を出現させ、ヤレンがアドニの前に立ちはだかり、イズミルを守っていた。ボクはその様子を見て、少しだけほっとした。
雨ではっきり聞こえないが、アドニとヤレンが話しているようだった。アドニが興奮してまくし立て、それにヤレンが冷静に答えているように見えた。すぐに、アドニの表情が歪み、ヤレンが苦虫を嚙み潰したような顔になった。
銀色のナイフが目の前に出現した瞬間、ボクは己が戦っていたことを思い出した。
急いでナイフを刀で弾き、リニー=アンに向けて突進した。ボクが突進してくると思わなかったのだろう、慌てて時間を操作しようとしたが、それよりも先にボクの刃がリニー=アンの首に届いた。ごりゅっと音がして首が飛ぶ。血の雨をまき散らして身体がどさりと倒れ、頭が地面に落ちた。
ごろごろと頭が転がり、虚ろに見開かれた瞳と目が合った。だが、ボクは何も感じない。殺し合いなのだから弱い方が負ける。至極当然のルールだ。
ボクは刃の血を払い、己の心臓に手を当てた。まだ、大丈夫。
ボクはぐるりと戦場を見回した。
イジュマは既に敵を氷漬けにして、新しく現れた宝石と戦っていた。
イズミルとジユルは空に浮かんでいる敵と戦っていた。さすがに、飛ぶことができないので加勢できない。
ヤレンとアドニは相変わらず、戦っていなかった。さっきまでヤレンと戦っていたフォレスは、ヤレンに顔の皮膚を溶かされて逃げだしていた。
ボクは、どこに行くべきか迷った。だが、アドニの身体から炎が燃え上がった瞬間、迷いが吹き飛んだ。嫌だ。ヤレンとアドニが戦うなんて耐えられない。
ボクは地面を思いっきり蹴って加速し、ヤレンの前に飛び出した。炎で息ができないほど熱い。だが、なりふり構わず突っ込んだ。
ぎょっとしてアドニが炎を消したので、髪が少し燃えるだけだった。
アドニが信じられないというように、大きく目を見張ってボクを見た。
「ベオ!何してんだ!危うく死ぬところだったんだぞ!」
「構いません。それで2人が戦わずに済むなら、ボクは命を捨てます。」
「何言ってるんだ…。お前…、本当にベオか?」
ボクが悲痛な表情を浮かべているのを見て、アドニが驚いて口をぽかんと開いた。それを見て、アドニの記憶には無表情なボクしかいないのだと気づく。
ボクの後ろでヤレンが怒鳴った。
「何してるんだ!ベオグラード!誰が僕のために死ねと言ったんだ!アドニの相手は僕がするから、君はイジュマの加勢でもしてくれ!」
「…嫌です。殺すつもりなんでしょう?絶対にさせない…!」
「君の意見なんて聞いてないよ。アドニは己の家族を殺した犯人をイズミルだと思い込んで、復讐しようとしているんだ。なんで宝石になったのかと思えば…。僕は…、アドニを助けたことを後悔したくなかったのに…。」
ヤレンの声が涙で震えた。一瞬ヤレンは黙り、覚悟したように言った。
「…たとえアドニでも、イズミルを殺そうとするなら容赦しない。アドニ、君は賢い人だから本当は気付いているんじゃないのかい?」
「やめろ、ヤナ。それ以上言うな。俺はお前を殺しかねない。」
「だから、その名前で呼ぶなと言ってるだろ?蜘蛛を入れられると、お頭まで弱くなるのかい?」
アドニの身体から炎が噴き出した。アドニが激怒しているのが分かった。
ヤレンがボクの肩を掴み、後ろに投げた。あまりに力が強くて抵抗できず、地面に倒れる。見上げると、ヤレンの瞳には悲しみが浮かんでいた。
「ごめん…君の大切な人は僕には守れない…」
ボクは手を伸ばした。だが、届かない。
ヤレンの剣とアドニの炎がぶつかる…。その時、辺りが黒々とした霧に包まれた。全員が虚につかれて、動きを止めた。霧に包まれて竜の宝石たちの姿が霞んでいく。アドニが何かを言おうとボクに顔を向けたが、すぐに霞んで消えてしまった。
レイトの宝石のみが残された。全員が警戒して周りを見渡す。すると、黒い霧から人間がぬっと姿を現した。ボクはその姿を見て、目を見張った。竜の王だ。
竜の王は、ヤレンを見てニヤッと不気味な笑みを浮かべた。
「セルシンから聞いたときは、半信半疑だったが…。まさか、本当に生きているとは思わなかったぞ、ヤナ。」
ヤレンが後ずさった。顔から血の気が失せ、手が恐怖で震えている。持っていた剣を落とすと、地面に嘔吐した。
ボクが慌てて駆け寄ろうとしたが、それを制して立ち上がった。
「…はっ、遺体を確認していないのに、僕が死んだと思い込んでいたなんて、とんだ間抜けじゃないか、兄上。何度も戦ってきたけど、僕の存在に気づいていなかったとは思わなかったよ。」
「お前の顔を知っているものがいなかったからな。少し見ない内に、随分と顔立ちが母親に似て美しくなったじゃないか。」
その言葉に、ヤレンがまた吐いた。その様子を竜の王が愉快そうに眺めて、口を開いた。
「せっかく再会したのだから昔話でもと思ったが、その様子では長くは持つまい。はは、その苦痛に歪んだ顔は何度見てもいいな。美しい竜よ。お前はどこまで足掻けるかな?」
「そうだ、僕が竜だ!例え竜のふりをしても、お前は偽物に過ぎない。お前はクモに操られているだけじゃないか!なぜそれに気づかない!?」
「…あの女の魔術は、竜と同等の力だ。お前の身体から竜を奪い取るくらい容易だろうよ。」
そう言って、ヤレンの頬に手を当てた。ヤレンが憎悪に満ちた顔で竜の王の顔を殴った。だが、ぶんっと映像が揺れただけだった。
ヤレンの顔が驚きで一瞬固まったが、すぐに無理してニヤッと笑った。
「はっ、臆病者の兄上が、こんな戦場までのこのこ現れるわけもないか。」
「強がりもほどほどにしておけ、ヤナ。お前の可愛いレイト人たちが死んでも、まだそんな顔ができるかな?」
ニヤニヤと笑いながら、竜の王の姿が消えた。ヤレンの顔に恐怖が浮かんだ。
「しまった!そういうことか!全員ただちに離脱しろ!」
だが、気付いた時には既に遅かった。ボクたちの足元に黒い円陣が光を放ちながら浮かび上がった。何が起こるのか、まったく分からない。だが、冷や汗が止まらなかった。何か恐ろしいことが起きる。カタカタと身体が恐怖で震えた。
ずんと身体が重くなり、身動き一つとれなくなった。イズミルもジユルもイジュマも、能力発動にはスイッチが必要だ。ヤレンも竜の力を発動させるには詠唱を必要とする。完全に追い詰められた。
わらわらと街から生きている者、死んでいる者が操られてふらふらと歩いて来た。その手には剣やナイフが握られている。ボクはその姿を見た瞬間、すべてを悟った。今ここで彼らに殺される。
なぜ、ヤレンが殺されなければならないのか。なぜ、イズミルが殺されなければならないのか。なぜ…。ボクには何一つ理解できない。
迫りくるレイト人たちが全員死んでいたなら、ヤレンの能力で全員溶かせたかもしれないが、生きている人間がいる以上、長くは持たない。
ボクは誰か…と辺りを見回したくなった。誰か助けてくれる人はいないのか。だが、誰か1人ボクたちを助けてくれる人はいない。
ボクの目には、全員の顔が見えた。悲痛に歪んだ彼らの顔を見た瞬間、ボクは今までの悩みが吹き飛んだ。なんでこんな簡単なことに、今まで気付かなかったんだろう。
誰かに救いを求めても、神を呪っても、どうしようもない。ボクはこの手ですべてを解き、解放することができるじゃないか。
ボクは彼らの死を思い浮かべた。ここで全員の首に刃が走り、血しぶきがあがって虚ろな目で倒れる姿を想像した途端、ボクの瞳から涙が溢れ出した。
ぼろぼろと温かい涙が頬を伝い、地面落ちた瞬間、ボクの身体から風が立ち、波動となって地面を走り抜けた。すると、一瞬で円陣が消え去り、操られていた人々が力を失い倒れた。
ボクはついに力を発動できた喜びを感じるかと思ったが、残ったのは苦しみだけだった。本当にそうなったらどうしようかという不安が胸の奥で悲鳴を上げた。
全員が「がはっ」と息を吹き返した。
ボクは涙を拭いて、全員に聞こえるように声を張り上げた。
「皆さん、大丈夫ですか!?」
「大丈夫、大丈夫」とジユルが手をあげた。
「ええ、なんとか…」と放心状態でイジュマが答える。
「こっちも大丈夫だ」と地面に座り込んで、イズミルが返事をした。
だが、ヤレンが答えない。ボクは息を整えると、ヤレンの隣に身体を引きずっていった。
ヤレンは地面に倒れていた。青い瞳からは薄く涙が伝い、地面を濡らしていた。
そこで、もう雨が止んでいたことに気づいた。灰色のどんよりとした雲が徐々に流れ、雲の切れ間から光の柱が何本も地面に向かって伸びていた。
ヤレンの呼吸は荒く、苦しそうに呻いた。そして、ボクの腕を強い力で掴んだ。その手があまりに熱くて、ヤレンが熱を出していることに気づく。
「すぐに霧の街に帰らないと…!イズミル、ヤレンが熱を出しています!」
「僕はどうでもいいから…、まだ生きているレイト人たちを助けてやって…」
それだけ言うと、ヤレンは意識を失った。光の柱がぱっとヤレンの身体を照らし、金色の髪が輝く。
その顔は苦痛に歪んでいた。
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