第9話~ヤレン~

ヤレンの身体がどんどん熱くなり、ついには触っていられないほどの熱さになった。

援軍の到着を待つ間に、ヤレンが死んでしまうのではないかという不安に押しつぶされそうになった。ジユルとイジュマの表情も暗く、同じような気持ちになっていると分かった。

だが、イズミルだけは違った。ヤレンがうわ言を呟くたびに「大丈夫」と言うように頬を撫で、熱で潤んだ瞳から涙が流れても、身体の痛みからすがりつかれても平気な顔をしていた。イズミルにとってヤレンは最愛の人なはずなのに、どうして平気でいられるのか不思議だった。

霧の街に到着すると、すぐにイズミルがヤレンを抱きかかえて部屋に入っていた。それからもう3日も経つが、未だにヤレンは目を覚ましていないようだった。

ボクたちはイズミルに何度も手伝わせて欲しいと頼んだが、イズミルは頑なにそれを拒んだ。ヤレンに何かあればイズミルだけで対処するように言われている、としか答えてくれなかった。疲れ果ててテーブルに突っ伏して寝ているイズミルを見るたびに、己の無力さを呪わずにはいられなかった。

ボクとジユルが1階でジュースを飲んでいると、2階から「うわ!」という悲鳴のような歓声のような声がして、イズミルが物凄い勢いで降りてきた。その顔は喜びで上気していた。

「ヤレンが目を覚ました!」

驚いて、ジユルが勢いよく立ち上がった。

「え!本当ですか!」

「ああ、本当だよ。」

イズミルが嬉しそうに笑ったのを見て、やっと実感が湧いた。

「良かった…。ヤレンの顔を見に行っても大丈夫ですか?」

ボクの質問にイズミルは一瞬考えて頷いた。

ボクたちはイズミルに案内されて、ヤレンの部屋に入った。よく考えたらヤレンの部屋に入るのは初めてだ。ボクの部屋の真向かいにあり、いつもは鍵がかかっている。イズミルがノックして扉を開くと、丁度ヤレンが起きあがっているところだった。

ボクたちに気づいて微笑んだ。

「…皆、なんだか久しぶりだね。」

高熱で食事もままならなかったのだろう、頬がこけていた。ボクはその姿にほんの少し動揺した。いつもは凛として見えるヤレンが、今はなんだか弱々しい。

ベッドは壁際にあり、ヤレンはゆっくり起きあがると壁に寄りかかった。それから目を伏せて、口を開いた。

「迷惑をかけた。本当にごめん。」

そう言って、頭を下げた。すぐにイズミルが首を振った。

「何言ってるんだ。迷惑なわけないだろ?」

「そうですって!むしろ無理させて悪かったなって思ってるくらいなんですから!」

ジユルもうんうんと頷く。だが、ヤレンの表情は晴れない。

「君たちは本当に優しいね…。だけど僕のせいで死にかけたことを忘れないで。ベオグラードが能力を発動していなかったら、全員あいつに殺されていた。僕はあの時、何もできなかった…。本当にごめん。」

ヤレンが布団をぐっと握り締めて、辛そうに顔を歪めた。ボクはそっと己の手をヤレンの手に重ねた。

「そんなこと言わないでください。あなたは精一杯やってくれているじゃないですか。それは全員が知っています。どうか独りで何でもやろうとしないでください。もっとボクたちを頼ってください。そうじゃないと、ボクたちのいる意味がない。」

「そう…だね…。その通りだ。僕は人に頼るのが下手だ。自分で何でもしようとして、結局、自分の身体を労わってやることもできず、人に迷惑をかけている。本当にどうしようもない。」

ヤレンが下卑するように乾いた笑みを浮かべた。こんなにネガティブなことを言うヤレンを見るのは初めてだ。ヤレンの心の奥底に蔓延っている闇を目の当たりにして、ボクは悲しくなった。

だけど、ボクは重ねた手を離そうとは思わなかった。潰れてしまいそうな人を放っておけるほど、ボクは冷血ではない。

「そうやって迷惑をかけてもいいじゃないですか。ボクも誰かに迷惑をかけて生きています。それが生きてるってことなんだと思いますよ。」

ボクが穏やか口調で微笑んだのを見て、ヤレンが目を見張った。

「…ベオグラード、笑えるようになったんだね。そっか…、安心した。君になら任せられそうだ。」

ヤレンは表情を緩めて、ボクをまっすぐ見つめた。

「僕の身体はしばらく使い物にならない。だから、ベオグラード、少しの間だけでいいから、僕の仕事を変わってもらえないかな?」

「え…、ボクが?ジユルかイジュマではダメなんですか…?」

「ジユルはアルメニアのこともあって、正直あまり目立ってほしくない。イジュマは元々おとなしい性格だし、何よりセラムが許さないだろう。だから、君しかいないんだ。前さ、僕が君を初めて霧の街に連れて来た時、なんて言ったか覚えてる?」

ボクがレイトを導くと言われた日のことは、今でもありありと思い出せる。あの時、ボクが表情豊かだったなら、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていただろう。

ボクがコクリと頷くと、ヤレンがボクの手を握った。

「だからね、どうかお願い。知りたくも見たくもないことが、これからたくさんあるだろうけど…、それでも…、もう君しかいないんだ。」

その言い方が苦し気で、ボクは息が詰まった。

「そんな風に言わないでください…。ボクがどこまで役に立てるか分かりませんが…、それでも…あなたのためになるなら、ボクはやります。」

ボクの返答を聞いて、ヤレンが心から申し訳なさそうに謝った。

「…本当にありがとう。そして、本当にごめん。」

ボクは首を振って、大丈夫と示すために笑ってみせた。

それから、ボクとジユルだけ先に部屋を出た。扉が閉まるほんの一瞬の間、ベッドの横に腰掛けたイズミルの瞳から涙が落ちるのが見えた。

あくる日、ボクはイズミルに連れられて長の元に向かった。

長の住まいは初めて霧の街に来た時に遠くに見えた古城で、そこまでは霧の街の大通りを通らなければならない。

いつもは数人で連れ立って歩くので、イズミルと2人だけで歩くのは少し緊張した。イズミルは特に気にする素振りも見せず、黙々と歩いていた。

ふと視線を感じて振り返ると、レイト人たちがボクをじろじろと遠慮会釈なく眺めていた。ボクは慌てて顔を戻した。よく見ると窓や扉の隙間から、何人ものレイト人がボクを見ている。ボクは注目されることに慣れておらず、居心地が悪くて小さくなって歩いた。

ボクが下を向いて歩いているのに気づき、イズミルが声をかけた。

「どうしてそんなに縮こまってるんだ?君はレイトの救世主じゃないか。もっと堂々と歩いてくれよ。」

「視線が気になってしまって…。今まで注目されることがほとんどなかったので、どんな顔をすればいいか分からないんです。」

「なるほどな。こういう時は、顔を上げて背筋を伸ばして、俺に文句あるか!くらいの気持ちでいたら丁度いい。やってごらん。」

ボクは言われた通りにやってみた。すると、今までボクを無遠慮に見ていたレイト人が、ボクを見るのをやめた。興味を無くしたというよりも、安心して見るのをやめたようだった。そこで、ボクが見られていた原因は、レイトの宝石なのに頼りなく見えたからだと気づく。

イズミルがボクに笑いかけた。

「変わっただろ?そうやって他人も自分もうまく騙すんだ。覚えておくといい。」

その言葉に、はっとさせられた。いつもヤレンは凛として頼りがいのある人に見えるのは、こういうカラクリなのかもしれない。

古城は石造りの城で屋根が赤く、壁はくすんだ灰色をしていた。長さの違う塔がいくつか建物から伸びていて、一番高い塔にはレイトの旗がはためている。さらに、小さな窓には花々が咲き乱れていた。

古城に着くと、門番に何か印のような物を見せて中に入った。古城の中は竜の国と比べると華美さはなく、質素な内装だった。白塗りの壁で、床は木でできており、天井も低く、イズミルには少し窮屈なようだ。脇には甲冑やら剣やらが無造作に固められていた。普通の家の玄関とさほど変わらない様子に、ボクは少しだけがっかりした。

イズミルが右側の扉を開くと、そこは広くなっており、上に続く階段があった。イズミルが登り始めたので、ボクも後に続く。

2階は広い応接間になっていた。古いが綺麗に掃除されたソファーとつやのある木製のローテーブルが、部屋の端に置かれ、中心には花が生けられていた。そのソファーに座っていた人物が、こちらに気づいて立ち上がった。

「ああ、誰かと思えば、イズミルか。今日は相棒は連れてきていないのかい?」

「ええ、ヤレンはしばらく休ませることにしました。その代わりといっては何ですが、今日から私の片腕になってくれる人を紹介します。ベオグラードです。」

ボクは紹介されて、おずおずと前に出た。その人は真っ赤な髪と目を持つ青年で、イズミルよりも歳上に見えた。髪は真ん中で分け、眼鏡をかけている。彼はボクの前まで歩いてくると、ニコリと笑った。

「君がベオグラードか。噂はかねがね聞いているよ。これからよろしく。」

そう言ってボクに手を差し出した。ボクはその手を握り返した。

「よろしくお願いします。えっと、お名前をうかがっても?」

「失礼した。ぼくはアスシオンと言う。気軽にアスシオンと呼んでくれ。」

アスシオンの赤い目が眼鏡の奥で細くなった。顔は笑っているが、目の奥が笑っていない。ボクはその見透かされているような視線にどきまぎとした。

アスシオンはぱっと手を離して、イズミルの方を向いた。

「今日は彼を紹介に来たのかい?」

「はい。それと今後の話を長としようかと。」

「なるほど。それなら、ぼくが父を呼んでくるから、少し待っていてくれ。」

アスシオンが応接間を出て、階段を上っていった。ボクとイズミルだけが残される。イズミルは慣れた様子でソファに座り、ボクに隣に座るように言った。

ボクが隣に腰かけると、小さく口を開いた。

「君に1つ言っておくことがある。アスシオンが戻ってくるまでには話終わりたいから、質問は無しにしてくれ。」

ボクが頷くと、イズミルが話し始めた。

「君から私が長ではないかと問われたことがあったね。君は竜の国でそう聞いていたんだろ?」

「そうです。」

「それを聞いて、私とヤレンは1つの結論を出した。おそらく長は私を殺すために、敵に偽の情報を流している。」

言葉として飲み込むのに時間がかかった。それだけ衝撃的な言葉だった。最初に浮かんだのは疑問。だが、すぐに答えが出た。イズミルが邪魔になった、ただそれだけなんだろう。

イズミルは表情1つ変えずに、淡々と話続けた。

「去年の戦いで、私は活躍しすぎた。今やアスシオンではなく、私を推すものが過半数以上いる。私は長になる気はないが、今の長やアスシオンにとって、私の存在は目の上のたん瘤だ。彼らからしたら私が死ぬ方が都合がいい。それで、私が長であるという偽の情報を敵に流したと見ている。まあ、確証があるわけじゃない。だが、その可能性が少しでもあるということだけ認識しておいてくれ。」

「…分かりました。でも、こんなところで教えなくてもいいじゃないですか…。どんな顔をしていればいいか…」

「外の方が聞かれる可能性が高い。ここなら、彼らの注意も薄いからな。君はちょっと自信なさげに見えるから、おそらく彼らもそこまで注意はしていないだろう。いつも通りの顔をしていてくれ。」

ボクは唇を噛み締めて黙って頷いた。ヤレンの言っていた「知りたくもないこと」を知って心がずんと重くなった。ヤレンとイズミルは、ずっとこの暗澹とした気持ちを抱えて、それでもレイトのために戦っていたのか。到底ボクにはできない。

ややあって、アスシオンに連れられて長が下りてきた。アスシオンと同じ赤い髪と瞳を持つ背筋がしゃんとした老人だった。そして、その隣にはアルメニアがいた。

アルメニアはイズミルを見て、ニコッと笑った。

「いらっしゃい、イズミルさん!お元気そうで何よりです。」

「ありがとう。アルメニア。君こそ変わりないようだね。」

そのやりとりを見る、長とアスシオンの顔は忌々しそうに歪んでいた。

ヤレンの代わりをし始めて、もうすぐ1ヶ月。

ヤレンとイズミルの仕事は想像以上に大変だった。レイト上層部との会議に、作戦の立案、空いているときは街の見回りをし、報告書をまとめ…。目が回るような仕事内容をヤレンとイズミルだけでこなしていた事実にクラクラと眩暈がした。さらに、ヤレンはボクに付き合って、能力発動の練習やゲームをしていたから驚きだ。ヤレンが相当無理をしていたことに今さら気づいて、心の底から申し訳なくなった。

ヤレンはというと、熱が下がってからもしばらく身体のだるさと頭痛が続き、ほとんど床に臥せていた。最近になってようやくリハビリがてら外に出るようになったが、身体が鈍ってしまっていて復帰には時間がかかる。

この1か月、竜の国からの攻撃が無かったのが救いだった。この前の戦いであちらの戦力を大分削ったからだろうか。こんなに長く戦いがないのは、冬季の停戦を除けば初めてのことらしい。

そんなことをぼんやりと考えていると、イズミルに肱で小突かれた。ボクは慌てて顔を上げる。会議中であることをすっかり忘れていた。

アスシオンが咳払いをして、口火を切った。

「では、話を続けるが、ぼくは今のうちに竜の国の街を襲い、戦力を削ぐ方がいいと思うが、君たちはどう考える?」

そう問いかけられて、ほとんどのレイト人が悩むような動作をした。しかし、イズミルだけは違っていた。

真剣な表情でアスシオンを見た。

「私は今まで通り、兵士のみを殺すべきだと考えます。竜の国の街を焼けば、彼らは更に必死になって我々を殲滅しようとします。そして人が死ねば、それだけ神に反感や疑問を持つ者が増えます。それは敵に塩を送ることに他なりません。」

アスシオンの顔がぴくりと痙攣し、イズミルに冷え冷えとした眼差しを向けた。

「相変わらず同じ返答ばかりするじゃないか。今日は竜の子はいない。本心で話してくれ。本当は家族を殺した竜の人間を、1人残らず殺したいと思っているのではないのかい?」

「…ヤレンがいたから遠慮していたわけではありません。私は無駄な憎悪を生み出すべきではないと考えているだけです。それに私は竜の人間すべてを憎んでいるわけではなく、竜の王さえ殺せればそれで良いですから。」

ひりひりとした殺気の中でも物怖じせず堂々と答える様に、ボクは尊敬の念を抱いた。会議に参加しているレイト人の半数も思わず呻っていた。だが、残りの半数とアスシオンの顔が不愉快そうに歪んだ。

イズミルは睨まれると分かっていても、己の意見を曲げることはしない。それは正しい行いに見えて、実は自分の首を絞めているだけなのかもしれない。ボクはそう思うと苦しくて、この場にいるのが辛くなった。

結局、イズミルが頑なにアスシオンの案を突っぱね、会議は終わった。戦えるレイト人はイズミルが指揮する宝石だけなのだから、彼が首を縦に振らない限り案は可決されない。それでもアスシオンは何度も何度も執拗なまでに竜の国の街を燃やそうとした。まるで嫌がらせだ。

ボクはすっかりアスシオンたちのことが苦手になっていた。子どものように駄々をこねて、気に入らない者は攻撃するなんてあまりに幼い。大人はもっと論理的に物事を考えるものだと思っていたが、いくつになっても幼い人は幼い尺度に物事を考えるものだ。

会議が終わり、ボクはぐっと背を伸ばした。ボクを見て、レイト人たちがひそひそと小声で何かささやき合っている。ボク自身、意見などを言う質ではないが、最近は発言するようになり、アスシオン派閥から大いに睨まれていた。

イズミルが疲れたように、ため息をついた。

「さすがに、連日会議ばかりだと気が滅入るな。ベオグラードは大丈夫か?」

「…少し疲れましたが、何とか大丈夫です。殺し合うときの緊張とはさほど変わりませんね。だけど、今までは刀があれば何でも解決できたのに、今のボクはあまりに無力です。」

ボクの言葉を聞いて、ひそひそと話していたレイト人が逃げるように部屋を出て行った。大方、殺すという言葉に反応したのだろうが、少しこちらが威嚇しただけで尻尾を巻いて逃げていく者にレイトの未来は任せられない。

会議室にアルメニアが入ってきた。アスシオンに2、3何かを話し、ボクたちの方へ来た。無邪気な笑みを浮かべて、イズミルの隣に席に腰かけた。

「お疲れ様です、イズミルさん。最近は毎日会議ばかりですね。こんなに天気がいいのに、何だかもったいないです。お外でピクニックしたら、とても気持ちがいいでしょうに。」

「そうだね。本当にいい天気だ。アルメニアがピクニックがしたいと言っていたと、ジユルに伝えておくよ。」

そう言われて、アルメニアが顔を真っ赤にして慌て始めた。

「いえいえ、そういう意味ではなかったんですが…。それでも、その、お伝えいただけるととても嬉しいです。ジユルは…、相変わらず元気ですか?」

「とても元気だ。今日もイジュマと能力の特訓してくると張り切っていた。君が気にかけていたと聞いたら喜ぶよ。」

アルメニアが心から嬉しそうに笑った。ボクはそれを見て、恋はこんなにも人を幸福にできるのかと思った。

アルメニアは思い出したかのように、口を開いた。

「そうそう。ジュースを戴いたので、後で皆さんで飲んでください。瓶に入れて玄関に置いています。」

「ありがとう、アルメニア。ベオグラードは特にジュースが好きでね。喜ぶよ。」

「あら、そうなんですか。それは良かったです。」

アルメニアがボクを見て、ニコッと笑った。ボクは軽く会釈をした。こういう時、なんて答えればいいのかは、まだ勉強中だ。

ボクとイズミルがジュースを持って帰る姿を、アスシオンが見ていた。その表情がなぜか気になった。


イジュマとジユルが帰ってきたのは、もうどっぷりと陽が沈み、星が瞬きだす頃だった。伝言を伝えるとジユルが嬉しそうに、はにかんだ。ボクはその様子を見て、心の奥がじんわりと暖かくなった。

今日はヤレンは降りて来ず、4人で食事をとった。イジュマ曰く、昼間は降りてきて、ゲームをしたり、ちょっと力を使ったりしていたらしいが、すぐに疲れて寝てしまったそうだ。

ヤレンの身体は明らかに、少しずつ弱っていた。強力な力には必ず代償がある。ボクが化物級の力を使う代償に命を削っているのと同じように、ヤレンも力にも何かしらの代償があるのかもしれない。

皆の会話がいつもよりも遠くに聞こえた。昔は思考停止していたのに、今は四六時中何かを考えずにはいられない。だが、考えれば考えるだけ、ドツボにはまっていくのも感じていた。

食事が終わると、イズミルがアルメニアからもらったジュースを注ぎ分けて全員に配った。

「今日、アルメニアからもらったんだ。柑橘類のジュースだそうだ。」

ジユルが明らかに嫌そうに顔をしかめた。

「うげ、オレ酸っぱいの苦手なんですよ…。飲まなきゃダメっすか?」

「まあ、無理して飲む必要はないが…。酸味があるが、身体にとてもいいそうだから。飲めるなら飲んでくれ。」

そう言われて、ジユルは悩まし気にジュースを睨んだ。

ボクは酸っぱい物も嫌いではないので臭いを嗅ぎ、一口飲んだ。あまりの酸っぱさに、目をギュッとつぶった。こんなに強烈な味は初めてだ。

ちびちび飲むと絶対に飲み切らないと思って、一気にあおった。咽喉が焼けるような感覚がして、すぐに顔がカッと熱くなった。ボクは変だと思って周りを見渡した。

ジユル以外は皆、ボクに続いて一気に飲み干していた。イジュマの顔がみるみる真赤くなり、力尽きるようにテーブルに突っ伏した。さらに、イズミルは顔こそ赤くなっていないが、表情が消えていた。

それを見て、ジユルが慌ててジュースをペロッと舐め、素っ頓狂な声を上げた。

「おいおいおい!これ、酒かよ!勘弁してくれよ!」

その言葉でようやく、ボクたちが酒を飲まされたと気づいた。もっとアルコールのような臭いがするもんだと思っていたが、飲み干すまでまったく気づかなかった。

ボクは口が重くて仕方がなかったが、何とか話そうと口を開いた。

「おしゃけって、おとながのむもののやつのことでしゅよね…。」

「そうそう。やられた…。オレが飲んでなくて良かった。とりあえず、風で壁作ってくるからさ、その人達見てて!呂律回ってない奴に言うのはどうかと思うけど、オレの声に反応したのあんただけだからさ。」

ボクが大きく頷くと、ジユルが外に走っていた。見ていてと言われても、本当に見ていることしかできない。

イジュマはすうすうと寝息を立てて寝ていたので、そのままで大丈夫そうだ。

イズミルを見ると、目がほんの少し赤くなっていたが、無表情のままだった。ボクは己の身体がグラグラと揺れるのを何とか押さえて、イズミルの肩を叩いた。

「だいじょぶれすか?イズミル。」

「…ああ、大丈夫だ。酒を飲まされたことが地味に精神に来ていただけで、後は問題ない。イジュマを部屋に運んで、そのまま休むよ。」

「…分かりました。」

イズミルはイジュマを抱きかかえて、2階に上って行った。確かに大丈夫そうに見えたが、いつもよりも足元がおぼつかない。

イズミルがイジュマの部屋に入る音がして、その後、別の部屋に入っていく音がした。ボクの聞き間違えでなければ、そっちはヤレンかボクの部屋のはずだ。ボクは不安になったが、既にほとんど身体に力が入らなくなっていた。

何とか意識を保とうとしたが、ついにぷつりと途切れた。

はっとして目を覚ますと、ボクは自分のベッドで寝ていた。服はそのままで髪紐だけがベッドの脇に綺麗にまとめて置いてあった。ボクは慌ててカーテンを開けて、窓を開いた。既に日が昇っている。

窓の外にジユルが座っていた。ボクに気づき、疲れた顔で笑った。

「良かった。目が覚めたみたいだね。」

「ジユル、まさか寝ずに番をしてくれていたんですか…?」

「あー、まあね。オレの恋人の失態だしさ。責任をとらないといけないからね。風の壁で守ってたから大丈夫だったよ。」

ふわぁと欠伸をして、ジユルが立ち上がった。

「ちょっと仮眠するわ。イズミルさんに会ったら伝えといて。」

そう言って、ボクの隣の部屋に戻って行った。ボクは髪を結び、扉を開いて外に出た。一瞬、ヤレンの部屋をノックしようかと思ったが、何となくためらって1階に降りた。1階にはイズミルがテーブルに突っ伏していた。

ボクが下りてきたのに気づき、顔を上げた。その顔を見て、ボクはギクッとした。いつものイズミルではない。大きな過ちを犯したような沈んだ表情をしていた。

イズミルはすぐに普段通りの表情に戻ったが、その顔は無理しているようだった。

「…おはよう。まったく、してやられたな…。ジユルがどこにいるか知ってるか?」

「さっきまで屋根の上にいましたが、今は自室で休んでいます。しばらく仮眠すると言っていました。」

「そうか…。報告ありがとう。頭痛や身体のだるさはないか?」

「はい、大丈夫です。イズミルは何だか辛そうですか、大丈夫ですか?」

ボクの言葉にイズミルの目が泳いだ。そして、さっと目を逸らして頷いた。

「二日酔いで頭痛がするだけだよ。」

その返答を聞いて、イズミルもボクには本当のことを教えてくれないのだと分かった。ヤレンと同じだ。

イズミルが立ち上がって、水の入ったコップをテーブルに置いた。

「二日酔いはないみたいだが、水をとっておくといい。私はイジュマの様子を見てくる。」

そう言って2階に上がって行った。すれ違ったイズミルの身体からは、ヤレンの匂いがした。やはり昨日、ヤレンの部屋に入ったのは思い過ごしではなかった。

もしかしたら、イズミルが気持ちを伝えたのかもしれない。

だけど、その結果はイズミルの表情からも分かる通り、良い物ではなかったようだ。

ボクは水を飲みながら、気持ちを伝えることで壊れてしまうものもあるのだと気づいた。それは何だか虚しい。


あれ以来、ヤレンがまったく姿を見せなくなり、イズミルが考え込むように眉間に皺を寄せていることが増えた。だが、相変わらずイズミルがヤレンの世話を行い、誰1人部屋に近づけなかった。

最初はどうしたらいいか悩んだこともあったが、当事者がそれでいいと思っているのなら、ボクたちにできることはないと気づき、悩むことを止めた。

そんなある日、ボクが部屋でのんびり刀の手入れをしていると、部屋の扉が少し開いてヤレンが顔を出した。ボクは驚いて危うく刀を落とすところだった。

「ヤ、ヤレン?急にどうしたんですか?」

「驚かせてごめん。ちょっと話したくって。入ってもいいかい?」

「もちろん、今片付けますね。」

ボクが部屋の片付けをし始めると、ヤレンが部屋に入ってきた。今日は黒いローブのような寝間着姿だった。髪が随分と伸び、今や脇の下くらいの長さになっている。一瞬、ヤレンから血のような臭いがした気がして、どこか怪我でもしているのかと注意深くヤレンを観察した。しかし、見える範囲には傷1つ無かった。

ヤレンが床に腰を下ろした。いつもはあぐらをかいて座るが、今日は足を揃えて女性のような座り方をした。

そして、ボクを見上げて口を開いた。

「イズミルから聞いたよ。酒を飲まされたんだって?」

「ええ、そうなんです。ジユルが飲まなくて本当に良かったです。」

「本当にそうだね。みんな元気かな?同じ家にいるのに、この質問はおかしいけど…。」

「元気ですよ。」

ボクの返答にヤレンが目を細めて微笑んだ。だが、すぐに思い詰めたような表情になった。少し躊躇った後、ヤレンが口火を切った。

「今日はね、僕が居なくなった後のことを、君に話しておこうと思って、ここに来たんだ。」

一瞬、頭が真っ白になった。ボクはその言葉に息をのんだ。あまりの衝撃に立っていられず、へなへなと座り込んだ。

「な、なんでそんなことを言うんですか…。」

やっと言葉にできたのは、この程度だった。本当はもっと伝えたいことがあったのに、動揺してうまく言葉にできない。

ヤレンは座り込んだボクの前まで来て、ボクの頬にそっと手を当てた。

「そんなに辛い顔をしないで。万が一の話だから。」

「でも…、ヤレンが居なくなるなんて考えたくない!」

「分かってる。分かってるよ。でも落ち着いて。何かあった時に君が迷わないように、僕はせめて道を示してあげたいんだ。だからね、我慢して聞いて。」

ボクは今にも泣きそうなのを堪えて、何とか頷いた。それを見てヤレンがぽつりぽつりと話し始めた。霧の街を守っている力のこと、レイト人の街が後どれだけ残っているか、さらに万が一霧の街が襲撃された時の最後の隠れ家のこと…。レイトのことばかりだった。

話し終ると、ヤレンがボクの髪を優しく撫でて付け加えるように言った。

「それと、アドニのことだけどね、アドニの家族を殺したのはイズミルじゃないよ。ベオグラードは気付いていると思うけど、一応伝えておくね。」

「それじゃあ、一体、誰が殺したんですか…?」

「十中八九、僕の兄だ。セルシンさん、アドニの父親はレイトのために奔走していた。それが邪魔だったんだろう。己の敵に利用されているなんて、アドニは認めたくないだろうけど。」

ボクは自分の口から悲鳴のような声が漏れるのを止めることができなかった。アドニが呟いていた言葉を思い出す。

―どうしたって、もう逃げられやしないんだ。

絶望で目の前が真っ暗になった。世界はなんでこうもアドニに辛く当たるんだろう。でも、今更ボクにできることもない。

ボクが打ちひしがれている様子を見て、ヤレンが立ち上がった。そして、小さく呟いた。

「好きな人と共に歩ませてあげられなくてごめん。それでも、どうかレイトを…、イズミルを頼む。」

しばらくして、ヤレンが復帰した。

髪を前と同じ長さに切っており、その様子は倒れる前とさほど変わらないように見えた。イズミルとは最初は気まずそうにしていたが、すぐに普段通りになった。

1つ変わったことがあるとすれば、前は疲れた顔を見せることがが多かったが、復帰してからはむしろ顔色が良くなった。

ヤレンが戻ってきたので、ボクは晴れてヤレンの代理から解放された。あんなに辟易していたのに、無くなると物足りない。

街の見回りも前はジユルともう1人で行っていたが、これからは霧の街の近くをジユルとイジュマが、霧の街から離れた街をボクとヤレン、イズミルが担当することになった。

もう2か月近く虐殺が起こっていないこともあり、ボクはもうこのまま何も起きないのではないかと楽観的に考えていた。もちろん、そんなことはありえない。

その日は突然だった。

竜の背に乗って砂漠地帯を飛行していると、遠くに炎の柱がぼうっと上がった。全員がぎょっとして、その方向を見た。何かが黒い煙をあげて燃えている。

ヤレンが双眼鏡を目に押し当てて呟いた。

「竜の宝石かな…?遠くて分からないな…。あっちに街なんてあった?」

「いやないはずだ。」

「そうだよね…。でも、そのままにもできないし…、仕方ない。近づこうか。」

ヤレンの言葉を合図に竜が大きく旋回して、煙に向かって飛び始めた。すぐに生き物が焼けるような悪臭に全員が口元を覆った。嫌な臭いだ。

近づくにつれて、その異様な光景にボクは眉間に皺を寄せた。

砂漠の1か所が真っ黒に焦げており、その上に焼死体が並んでいる。ボクは胸騒ぎがして、ヤレンを見た。

「ヤレン、引き返した方がいいです。確実に罠です。」

「…そうだね。戻ろう。」

ヤレンが頷いた瞬間、空に黒い穴がぽっかりと開いた。突然のことに全身が身を固める。

その穴から黒い手がにゅっと伸びて来て、あっという間にボクたちを鷲掴みにした。慌てて逃れようとしたが、ねっとりとした黒い液体が身体にまとわりつき身動き一つとれない。口にも容赦なく液体が入り込み息ができなくなった。

ボクたちはそのまま穴に吸い込まれた。一瞬、重力がなくなったかと思えば、すぐに重力が戻り、ボクは地面に転がった。

口から黒い液体を吐き出し、顔を覆っていた液体を取ろうとした途端、何かが首の後ろにぐさっと刺さった。その衝撃で地面に額を打った。

その物体がボクの身体に何かを注入した。その瞬間、身体の中を燃え滾るような激痛が走り抜けた。まるで、内臓を手でぐちゃぐちゃにされているかのような耐え難い痛みに気絶しそうになった。

何かが咽喉を這い上がってきた。口を閉じて堪えたが、堪えきれずに地面に吐く。それは鮮血だった。すぐに鼻や目からも血が溢れてきた。そこで、やっと気づいた。ボクは死ぬ。これは毒だ。

激痛に意識が飛びそうになるのを何とか堪えて顔を上げると、ヤレンが組み伏せられており、少し離れた位置にイズミルが手錠をかけられて跪いていた。

ヤレンが必死になって、イズミルに手を伸ばしていた。目を剥き、絶叫しているようだ。だが、何と言っているかは分からない。

そして、イズミルの脇には剣を持った男が立っていた。男が剣を振り上げた。

ボクはその先を見ることはできなかった。毒に蝕まれて、もう何も見えなくなり、聞こえなくなっていた。

ボクは横向きになって、血の泡をごぼっと吐いた。まさかこんなところで死ぬなんて…。

その時、ボクの首に何かがまた刺さって、身体に薬を注入した。すぐに痛みが和らいでいった。

ああ、これで終わりだ。せめて苦しまないようにしてくれただけでも、ボクには救いだった。

でも、今日が終わりの日だと知っていたら、せめて皆にお礼が言いたかった。

ボクはもう一度、ごぼっと血を吐き、目を閉じた。

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