第10話~誓い~

激痛で目を覚ました。自分がまだ生きていることに驚いたが、すぐに痛みで何も考えられなくなった。あまりに痛いので舌を噛んで死のうとしたが身体に力が入らず、「あうあう」と情けない声が出た。

それからすぐに、身体の穴という穴から液体が出て身体を汚した。それに気づいて誰かがボクの身体を拭き、綺麗にしてくれた。

ボクは藁にもすがる思いで、その人の腕を掴んだ。

「ころ…し…て。」

しかし、その願いは聞き入れられなかった。また、激しい痛みが襲ってきて耐え切れず気絶した。

次は身体の熱さで目を覚ました。身体が燃えるように熱い。こんなに身体が熱くなったのは、傷が膿んだ時以来だ。

咽喉が乾いて仕方がない。ボクが「みず…」と呟くと、起き上がらせて口に水を含ませてくれた。うまく飲むことができず、水をまき散らしながら飲んだ。ボクが咳き込むと、止まるまで背中をさすってくれた。

こんなに優しくしてくれるなら、いっそのこと殺してくれと思ったが、口がうまく動かず奇声を発するだけだった。

しばらく言葉にしようともがいたが、結局疲れて寝てしまった。

その内、段々と痛みが引き、悪夢にうなされることも、痛みで身体中を掻きむしることもなくなった。荒かった呼吸も落ち着き、靄がかかっていた視界も少しずつ晴れて行った。

そして、ボクはやっと目を覚ました。部屋の眩しさに目を細め、顔を横に向けた。そこにはアドニの顔があった。ひどく疲れた顔で、すうすうと寝息を立てている。ボクは何が起こっているのか分からず、目を瞬いた。

煙草の臭いも、金のピアスも、癖のある茶色の髪も全部あの時のままだ。ボクは布団から手を出してアドニの頬に触れた。幻覚かと思ったが、触れると温かくて本物だと分かった。

「んっ」とアドニが顔をしかめて、目を覚ました。ボクと目が合った途端、がばっと起き上がり、ボクの手を掴んだ。少しの間茫然としていたが、やっと実感したのか、声を押し殺して泣き始めた。鼻水を垂らして泣く姿に、次はボクが驚いた。

「え、ちょ、ちょっと…。大丈夫ですか…?」

「…大丈夫じゃないに…決まってんだろ…。お前が死んだらどうしようかと…気が気じゃなかったんだぜ…」

嗚咽を堪えながらアドニが言った。こんなに心配してくれると思っていなかった。何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「そうですよね…、ごめんなさい。」

ボクが謝ると、アドニは首を横に振った。

「ベオが謝る必要はない。むしろ、俺たちが謝るべきだ。本当にすまん。お前の力を発動させないように、毒を使ったんだ。許されることじゃない。」

その言葉でぼんやりとしていた記憶が急にはっきりと戻ってきた。絶叫しているヤレンと、うなだれているイズミルの姿がフラッシュバックした。そうだ、ボクたちは罠にはまったんだった。

ボクはアドニを睨むように見た。

「イズミルはどこですか。」

アドニの顔が青ざめた。ぐっと口を結び、眉間に皺を寄せて目を伏せた。そして、小さく口を開いた。

「イズミルは俺たちが殺した。」

一瞬で世界から色が消えた。ボクは茫然として、首を横に振った。

「嘘だ…」

自分の口から洩れたのは一言だけだった。あまりに信じがたくて涙も出ない。ボクは自分の顔を手で覆った。

イズミルが死んだ。考えれば考えるほど、胸の奥が痛んだ。イズミルは優しくて穏やかで正義感があって、誰よりも皆を大切にしていた。そして、心からヤレンのことを愛していた。イズミルからはたくさんのことを教えてもらった。それなのに、ボクは彼の遺体に花を手向けてやることもできない。

あまりに無力だ。ボクは自分の無力さを許すことができなかった。

ボクは震えながら、もう一度アドニを見た。そして、消え入りそうな声で訊いた。

「…ヤレンは、ヤレンはどこにいるんですか。まさか、ヤレンも…」

その先はあまりに恐ろしくて、口に出すことができなかった。

アドニは目を伏せたまま答えた。

「…ヤナは生きている。」

その一言で、世界に色が戻ってきた。己を断罪するのは、ヤレンを助けた後だ。

「ボクはヤレンを助けにいきます。どこにいるのか教えてください。」

そう言って、身体を起こしてベッドから出ようとした。しかし、痛みが走って満足に起きあがることもできず、前のめりに倒れた。慌ててアドニがボクの身体を支えたので、ベッドから落ちることはなかった。自分が思っている以上に、ボクの身体はぼろぼろだ。簡単な動作さえ、今は誰かに支えてもらわないと満足にできない。

アドニは何も言わず、ボクの身体を起こして壁に寄りかからせてくれた。そして、まっすぐボクを見た。

「そんな身体でどうやって助けるつもりだ?お前はこないだまで生死の境をさまよってたんだぜ?そんなやつにやすやすと捕虜を奪われるようなへまはしないだろうよ。」

冷たい言い方に、ちくりと胸が痛んだ。だが、そんなことを言われて納得するほど物分かりは良くない。

「それなら…こうするまでです。」

そう言って己の心臓に手を当てた。どくんっと心臓が大きく脈打ち、リミッターが取れた。その衝撃で口から血が溢れたが、身体が動くようになった。

ボクはベッドから飛び出して、扉へ向かって走った。そんなに長くは持たないし、もしかしたら死ぬかもしれないが、ヤレンを助けられるならどうでもいいことだった。

もうすぐ扉に手が届く。その時、アドニがボクを抱きしめた。ボクは逃れようと必死に抵抗したが、ピクリともしなかった。

「離してください!アドニ!」

「だめだ!絶対に行かせない!」

「何でですか!?ボクのことなんて、どうでもいいでしょ!?ボクはヤレンを助けたいんです。邪魔しないで!」

もがくボクを壁際まで追い込み、アドニがボクに強引にキスをした。

突然のことで、ボクはぎょっとして固まった。アドニが瞳を閉じてボクの唇に己の唇を重ねている。そのキスは煙草の臭いがした。

ほんの数秒の出来事だったはずが、ボクには永遠に感じた。

アドニが唇を離し、ボクを抱きしめて耳元で囁いた。

「俺はお前が好きだ。」

「えっ」と声が出た。うまく意味が飲み込めない。

アドニが顔を近づけて呟いた。

「どうしようもなく、お前が好きなんだよ。だから、もうどこにも行くな。」

一瞬で身体の力が抜けて、ずるずると壁をずり落ちた。

言葉が出ない。そんなはずがないと否定したくても、ボクを見つめるアドニの瞳は、ヤレンを見つめるイズミルと同じだった。心から愛しそうに、大切そうにボクを見ている。

ボクが茫然としてうなだれていると、アドニがボクの顎を持ち上げて、もう一度唇に触れた。ずっと夢みていた光景が目の前にある。何度恋焦がれたか。必死になって我慢していたのに、アドニはやすやすと越えてしまった。

ボクがまったく抵抗しなくなったのを見て、アドニがボクを持ち上げてベッドに寝かせた。そして、ボクの上に馬乗りになった。黄色い瞳がボクを見下ろしている。

アドニがボクの顔にかかった髪を払い、ゆっくり顔を寄せて再びキスをした。次は強引にボクの唇をこじ開けて舌を入れた。煙草の味が広がる。むさぼるように何度も何度も舌を絡めた。

ボクは息ができなくて逃れようともがいた。それに気づいて、アドニがやっと唇を離した。ボクは「ぷはっ」と息を吐き、「はあはあ」と乱れた呼吸を整えた。

アドニがボクの服の裾から手を入れて、ボク下腹部に触れた。ボクはビクッと身体を震わせて、必死に首を振った。

「やめて…、嫌だ…。アドニ、お願い…」

言葉と同時に涙が溢れそうになり、歯を食いしばって耐えた。これでは、襲われているのと変わらない。それでも、アドニはやめようとしなかった。アドニの表情には余裕がなかった。ボクを無理やりにでも抱いて繋ぎ止めようとしている。

ボクは一瞬、迷った。ボクもアドニが好きだ。それに、この光景を何度も夢見ていた。だけど、ここで受け入れてしまったら離れがたくなってしまう。それは…。

ボクはボクの服を脱がせようと裾を掴んでいるアドニを見て、小さく呟いた。

「あの時、子どもには手を出さないって言ってたのは嘘だったんですか。」

ボクの言葉に、アドニの動きが止まった。

「どうしてそれを…」

「ボクは起きていました。何度もあなたがあの女性と…しているのを見ていました。意思と関係なくさせられるのは苦痛そうでしたね。」

ボクがせせ笑うとアドニの顔がひきつった。興奮して赤くなっていた顔がゆっくりと色を失った。

「すまん…」

たった一言だけ呟いて、ボクから離れた。ボクは離れていくアドニを目で追った。自分で拒絶したくせに、ボクはほんの少しだけ後悔していた。だが、これでいい。だって、アドニの気持ちに答えることはできないから。

まだ、唇の感触が残っている。それに下半身が熱を持って破裂しそうだ。

さっきリミッターを無理やり外した反動で、心臓が酷く痛んだ。ボクはゲホゲホと咳込み、気絶するように眠った。

それから、アドニは相変わらず、ボクの世話をしてくれた。だが、いつもの人懐っこい笑みは消え、口数は少なく遠慮がちにボクを見ていた。アドニは超えてはならない線を越えてしまった。もうあの頃には戻れない。

アドニにかいがいしく世話をされ、ボクは段々と回復していった。しかし、一度破壊された内臓はそう簡単には治らないらしく、ボクは日に何度か血を吐き、咳き込むようになった。

ボクは自分の寿命がだいぶ短くなったことを悟った。

それでも、毒に蝕まれて固くなっていた手足が前と同じように動くようになった。決行するには充分だ。

夜更け。

ボクはむくっと起き上がって、髪を結びベッドから出た。窓の外は真っ黒だ。ボクは夜目が利くので、すべてがはっきりと見えた。

ボクは窓を開けて、窓枠に立った。夏の夜の臭いがする。風に髪が揺れた。

すると、部屋の扉が開き、アドニが入ってきた。窓枠に立つボクを見て目を見張った。ボクは振り返って、アドニに微笑んだ。

「アドニ、お別れです。ボクを助けてくれてありがとう。ボクはヤレンを助けに行きます。だから、どうか、ボクのことは忘れてください。」

「…だめだ。今さらヤナを助けてどうする。それに、お前の身体はもう…」

「助けてどうする…ですか。ヤレンはイズミルの大切な人です。イズミルは死…んでしまいましたが、彼の残した愛をボクは守りたい。それにレイトの勝利にはヤレンが必要なんです。だから、助けにいきます。」

ボクが淡々と言うと、アドニの顔が歪んだ。

「どうしてそこまでして、レイトを勝たせたいんだ。あいつらは俺の家族を殺したんだぞ!」

「そう思い込みたいだけでしょ?あなたの家族を殺したのは、竜の王だ。だって、イズミルがあなたの父親を殺すメリットがない。それにイズミルは決して一般人には手を出さない人です。ボクはこの目で彼らを見て来ました。余程、竜の人間の方が卑劣ですよ。」

ボクが冷ややかな口調で言うと、アドニの瞳に怒りが浮かんだ。肩を怒らせて、ボクの方まで来ると、襟首を掴んで捻り上げた。首が締まって、息ができなくなる。

「黙れ黙れ!お前は洗脳されているだけだ!俺の家族を殺したのはレイト人だ!」

「そ…んなわけ…ない。気づいて…いるのに…それでも逃げないのは…その刺青のせいですか。」

ボクは途切れ途切れに呟き、アドニの右胸に触れた。アドニがビクッとして、手を離した。

ボクは離れようとするアドニの腕を掴んだ。

「ボクの力で、あなたを解放できないかやってみます。」

そう言って目を閉じて、懐かしい日々を思い出そうとした。

ヤレンとイジュマとジユル、それから、イズミルが座って他愛ない話をしている。ふと気づくとイズミルがヤレンに視線を向けていた。大切そうに、愛しそうに見ている。この光景が永遠に失われたと思うと、胸の奥がずきっと痛み涙が溢れた。

ボクがぼろぼろと涙がこぼす光景をアドニが啞然として見ていた。ボクはその涙で、この部屋にかけられていた魔法が消えていくが分かった。だが、蜘蛛の刺青は依然として残ったままだった。

分かっていたが、それでも涙が止まらなかった。ボクはとめどなく流れる涙を拭いもせず、アドニの腕から手を離すとゆっくりと後ずさった。

「やっぱり、だめでした。それはボクには解けない呪いです。だから、これで本当にお別れです。」

「嫌だ!行かないでくれ!ずっとそばにいてくれ…、頼む…」

アドニがボクに懇願した。だが、ボクは首を横に振った。

「あなたはボクに初めて微笑んでくれた人だし、感謝しています。だけど、あなたはボクの大切な人を殺してしまった。そして、これからも殺そうとする。そんなの耐えられない。だから、これで終わりにしましょう。…あなたに好きだと言ってもらえて、ボクは嬉しかった。それだけで充分です。さよなら。」

ボクの腕を掴もうと伸びた手から逃れるように倒れた。落ちていくボクをアドニが呆然と見ている。ボクは自分の瞳からまた涙がこぼれるのを感じた。この涙の意味は分からない。

くるりと回転して地面に着地した。このくらいの高さは大したことがないと思っていたが、思っていた以上に身体に負担がかかった。口の端から血がつうと垂れた。ボクはそれを拭い走り出した。

新月の夜の真っ暗な城をひた走る。どこにヤレンがいるのか、何となく分かっていた。おそらく、近衛兵の住居の地下に掘られた地下牢だ。一度だけそこにレイト人が収容されるのを見たことがある。

すぐに近衛兵の宿所が見えてきた。さすがに深夜なだけあって、かがり火は焚いてあるが、兵士はほとんどいなかった。見える範囲だと、入口に座っている男だけだった。鎧は来ておらず、平時の服装で腰に剣を吊っていた。暇そうに煙草を吸っている。

ボクは深呼吸をして、飛び出した。一瞬で人の目には捉えられないほど加速し、腰の剣を奪うと首に剣を走らせた。彼は自分が死んだとも知らずに血を噴き出して倒れた。ボクは音がしないように抱き留めて、ゆっくりと壁に寄りかからせた。

身体が一瞬で血に塗れて真っ赤になった。ぼたぼたと顎を落ちる血をもろともせず、男の身体を探って鍵を取り中に入った。

宿所はしんと寝静まっていた。ボクは足音を忍ばせて牢の入口を探した。地下牢の入口はすぐに分かった。一か所だけ扉が格子状になって、地下に続く細い階段が見えた。

ボクは奪った鍵を鍵穴に差し込み、音が出ないように開けようとした。そこで、扉に鍵がかかっていないことに気づいた。

ボクは扉を押して中に入った。階段に等間隔に設置された松明には火が灯っておらず、誰かが下りた形跡はない。だが、鍵を開けっぱなしにするとも考えれない。ボクは腰の剣に手を当てて、ゆっくりと階段を下りた。

長い階段を下りて行くうちに、だんだんと血と糞尿と何かが腐った臭いが鼻につくようになった。ボクは思わず口元を覆った。こんな悪臭が漂う場所に閉じ込められたら、普通の人間なら発狂してしまうだろう。

階段の終わりが見えた。ボクは慎重に下りて中を覗き込んだ。通路がまっすぐ壁まで続き、その通路の左右に牢屋が並んでいた。今のところ人影はない。

ボクは入口近くの牢屋を覗いて、うっと思わず顔をしかめた。手錠をかけられ息絶えたままレイト人の遺体が腐って悪臭を放っていた。甘い腐敗臭を思いっきり吸ってしまい、思わず吐きそうになった。

戻ってきたものを飲み込み、通路を進んだ。おびただしい死体がそのまま腐って溶けるのを待っていた。酸鼻をきわめる光景に眉間に皺がよった。

そこで、どこからか唸り声のようなものが聞こえることに気づいた。耳を澄ましてどこから聞こえるのか探った。どうやら、一番奥の牢屋から聞こえてくるようだ。

ボクは息を殺して進み、牢屋を覗き込んだ。最初に目に飛び込んできたのは男の背中。その背中が上下に小刻みに揺れている。そして、次に飛び込んできたのは綺麗な白い足。その足を男が掴んで、己の腰を振っていた。

思いもよらない光景に立ち尽くした。唸り声と思ったのは、この男の興奮した声だった。死が蔓延した牢獄で必死に腰を動かしている光景があまりに異様で、理解するまでに時間がかかった。

男が姿勢を変えたことで、今まで男の背中で隠れていた顔が見えるようになった。

襲われていたのは、ヤレンだった。

美しかった金髪が汚れ、虚ろに開かれた瞳は天井を見つめていた。さらに、口から細く涎が垂れ、ときより苦しそうにうめき声を上げた。

ボクは激しい怒りで目の前が真っ暗になった。気づいた時にはヤレンを襲っていた男の首を掴み、思いっきり壁に打ち付けていた。男は奇妙な声を上げて動かなかった。

捲り上げられた服から覗いた胸を見て、ボクは愕然とした。陶器のように白い乳房があった。さらに、下半身にも男のそれがない。ボクはそこで、ヤレンが女性だと初めて気づいた。

ヤレンはぐったりと横たわったままだった。瞳は開いているのに何も見えていない。もはや、逃げることを諦めているように見えた。

ボクはヤレンの隣にひざまづいて、肩を叩いた。

「ヤレン…、ヤレン!ボクです、ベオグラードです。分かりますか?」

しかし、ヤレンは答えない。呼吸はしているが、魂が抜けてしまっているようだった。ボクは精液で汚れたヤレンの身体を自分の服を脱いで拭い、それからぎゅっと抱きしめた。ヤレンの身体は芯から冷え切っていて、ボクの身体もあっという間に冷たくなった。

ボクは涙をこらえて、もう一度呼びかけた。

「ヤレン、起きてください!ボクたちを置いていくつもりですか!あなたが巻き込んだのに…。酷いですよ…」

こらえきれず熱い涙が頬を伝って、ぽたぽたとヤレンの顔を濡らした。その涙がヤレンの口に入った瞬間、ヤレンの瞳に光が戻った。

ヤレンがボクを見上げて、ほんの少し顔を緩めて呟いた。

「ベオグラード、生きていたんだね…。てっきり死んでしまったと思っていたのに…。君が生きていて良かった…」

ヤレンの青い瞳から涙が溢れた。ボクはこんな状態になってまで、ボクを案じてくれていたことが嬉しくて、でも悲しくて涙が止まらなかった。

ボクが泣いたことで、この牢屋にかかっていた魔法が消えた。逃げ出すなら今だ。

ボクは涙を拭いて、ヤレンに言った。

「ヤレン、立てますか。すぐに逃げないと…。」

だが、ヤレンは首を横に振った。

「僕は足の健が切られていて逃げることができない。君の足手まといにはなりたくないんだ。だから、僕を置いて逃げて。」

頭を殴られたかのような衝撃で目の前がちかちかと点滅した。確かに、ヤレンの足首には包帯が巻かれて血が滲んでいた。絶対に逃がすまいという強い意志を感じて身震いした。

しかし、そう言われて素直に諦められるはずもなかった。

ボクはヤレンに背を向けて、しゃがみ込んだ。

「それなら、ボクが負ぶっていきます。」

「そんなの無理だ。僕を抱えたままなんて、逃げられないよ。それに…、君はここでアドニと暮らす選択肢もあるはずだ。もう…僕のわがままに付き合わなくていいんだよ。」

すべてを諦めた顔でヤレンが言った。ボクはその言葉を無視して、強引にヤレンの手を掴んだ。そこで、右手の中指が欠落していることに気づいた。

「ヤレン…、これは一体、どうしたんですか…」

「ああ、あいつが僕から竜の力を奪うために切り落としたんだよ。あの指輪さえ手に入れば竜の力が手に入ると思い込んでいたんだ。竜は生まれ落ちた瞬間に決まるものだから、どうあがいてもあいつは竜になれやしないのね。」

ヤレンが嘲笑うように言った。その笑みが恐ろしくてボクはごくりと唾を飲んだ。しかし、すぐに笑みは消え去った。

「僕は歩くことさえままならない。もう何の役にも立てない。僕を助けても何の意味もないよ。」

だが、ボクはそれでもヤレンの手を掴んで起き上がらせると、背中に担いで歩きだした。ヤレンが驚いて降りようともがいた。

「聞こえてなかったの!?やめてくれ、降ろしてくれ!」

「嫌です。あなたはまだ生きているじゃないですか!イズミルが…、イズミルが守りたかったものを見す見す置き去りにして死のうなんて無責任ですよ!」

ボクが怒鳴るとヤレンの動きがぴたりと止まった。言ってはいけないことを言ったと思ったが、これでヤレンが少しでも生きようと思ってくれるなら、嫌われてもいいと思った。

ボクは階段を上って、外に出た。まだ、騒ぎにはなっていないようだ。しかし、気づかれるのも時間の問題だ。ヤレンの身体は軽いが両手がふさがった状態で戦闘は避けたい。

ボクは宿所を出て、走り出した。どうにかして霧の街まで帰らなければならないが、その方法が思いつかなかった。

その時、ヤレンがぽつりと呟いた。

「ベオグラード、城壁に上って。」

ボクは言われた通りに、城壁を目指した。宿所から城壁までは遠い。さすがに見つからないはずもなかった。

「な…、捕虜が逃げ出しているぞ!」

兵士の怒鳴り声で城全体が目を覚ました。ボクは小さく舌打ちをした。

「ヤレン、しっかりつかまっていてくださいね…」

そう言って、片手でヤレンを支えて、もう片方の手で剣を抜いた。血まみれになっても必ず生きて帰る。ボクの中で炎が燃えあがった。それは覚悟ともいうべきものだった。

立ちふさがるものは容赦なく切り伏せ、ボクは城壁を上った。宝石もいた気がするが、ボクの涙の前では皆ただの人だった。

城壁の一番上は見張り台になっており、兵士たちが待ち構えていた。正直、身体はとうに限界を超えていた。だが、まだリミッターを解除していなかった。最終手段として残していたのだ。

ここでリミッターを解除しようかと心臓に手を当てた瞬間、ヤレンがささやくように唱えた。

「我が竜よ。我が元へ来たれ。」

途端、強風が吹き、どこからともなく竜が姿を現わした。竜が容赦なく兵士たちの上に着地しようとしたので、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げた。ボクは地面を蹴って竜の背中に飛び乗った。すると、竜が翼を大きく広げて飛び上がった。

ボクは風圧で飛ばされないように必死にヤレンを抱きしめた。竜は雲を軽々と越えて、風に乗りどこまでもまっすぐ飛んだ。

風の冷たさに身震いしながら、さらに強くヤレンを抱きしめた。こうやって抱きしめていないと、ヤレンが消えてしまいそうで怖かった。それだけ、今のヤレンには生きる意志が感じられなかった。

ふとヤレンを見降ろすと、ボクの腕の中で泣いていた。そして、嗚咽を堪えながら呟いた。

「僕が本当は殺されるはずだったのに…。僕の代わりに…イズミルが…イズミルが、殺されてしまった…。イズミルがいない世界をどう生きて行けばいいのか分からないよ…」

その悲痛な声に、ボクは何も言えず黙ってしまった。

どんなに願っても時は戻せない。イズミルが死んでしまった過去は変えられない。

そして、ボクはイズミルの代わりにはなれない。


長い長い夜が明けて、朝日が昇った。

泣き疲れて寝入ったヤレンの額にそっと口づけをして、ボクは誓った。

必ずヤレンを守り、竜の王を殺すと。

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