第12話~生贄~

 ヤレンはいつも部屋のベッドに座り、窓の外を眺めていた。

 ぼんやりと遠くを見つめるヤレンは、この世の物とは思えないほど美しかった。つわりでやつれていた時もあったが、つわりが落ち着いた後、徐々に下腹部が膨らんでいく様子は神が子を身籠ったような神聖さがあった。

 ボクは仕事がない日はヤレンの部屋に居て、ヤレンの暇つぶしの相手になった。ヤレンはボクが来るといつも申し訳なさそうに、でも嬉しそうに微笑んだ。

 セラムでさえも、たまにヤレンに菓子や本を届けていた。

 今日も仕事が終わってヤレンの部屋に行くと、セラムがヤレンの寝顔を眺めていた。ボクに気づき、気まずそうに顔をしかめた。

「お前…せめてノックしてから入って来いよ。」

「すみません。まさかセラムがいるとは思わなくて…」

 ボクが声を落として謝ると、セラムはふんと鼻を鳴らした。だが、今さら出て行こうと思わなかったようで、イスに座ったままだった。

 ボクは迷ったが、何となく隣に座ってもいい気がして、イスを引っ張り出して腰かけた。ボクとセラムは押し黙ったまま、ヤレンの顔を眺めた。布団を抱き枕にして、ヤレンはすうすうと寝息を立てていた。

 セラムはその無防備な寝顔を眺めながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

「前はさ、兄貴が竜の人間の、しかも男が好きなことが許せなかったんだ。だけど、こいつが女で、しかも兄貴のことが好きだったって分かったら、もうどうでも良くなった。おれは一体、何に腹を立ててたんだろうな。」

 ボクは一瞬答えるべきか迷った。だが、すぐにセラムはただ独り言のように己の心情を吐露しただけだと気づいた。

 セラムは髪をかきあげて、横目でボクをちらっと見た。そして、少し迷う動作をした後、口を開いた。

「前からずっと気になっていたんだが、もしかしてお前こいつが好きなのか?」

 予期せぬ質問に動揺した。

「え?何でそんなことを聞くんですか。」

「何でって、普通好きでもない女のために、そこまでしないだろ?お前は兄貴の代わりにでもなるつもりなのかよ?」

 ボクは黙り込んだ。男と女は普通、恋愛感情がないと動かないものなのだろうか。ボクには分からない。だけど、ボクは一つだけ確かに理解していることがあった。

「…ボクはヤレンのことが好きです。でも、この好きという気持ちは仲間や友達に感じるものでしかないです。それにセラムは知らないかもしれませんが、ボクがヤレンを助けているのは、ヤレンがボクの大切な人を救ってくれたからなんです。ボクはその恩返しをしているだけです。」

 セラムが信じられないというようにボクを見た。

「恩返しって、お前はそんな理由で命削ってたのかよ!? お前は底抜けのお人好しか!?」

「声が大きいですよ、セラム。それに、そんな、何て言ってほしくない。ボクにとっては、自分の命をかけるほどのことだったんです。ボクはボクの選択を後悔してないですし、これでいいんです。」

 ボクの言葉にセラムが口を一文字に結んだ。ボクの顔をじっと見つめ、呆れたと言わんばかりに肩をすくめた。

「随分とまあ、お前はお優しいんだな。その大切な人ってのは、どうなったんだよ。お前に涙を流して礼でも言ってくれたのか?」

「まさか。そんなことするはずがない。ボクがヤレンを助けている理由も知らずに、あの人はボクが洗脳されていたと思っていたんですよ。笑ってしまいますよ、本当に。」

 ボクがせせ笑うとセラムの表情が曇った。

「お前…なんでそんな泣きそうな顔してんだよ。情緒不安定にもほどがあるだろ。」

 ボクはそう指摘されるまで、自分の感情に気づいていなかった。流れ落ちそうになった涙を拭って、ボクは笑った。

「おかしいな…ボクはこれでいいと思ってるのに…。きっと、ボクの心が壊れて誤作動を起こしているだけなんです。だから、しばらくしたら元通りになります。」

「はあ?お前は人形かよ?そんなに簡単に治るわけないだろ?お前は傷ついているんだよ。その傷を癒す努力をしない限り、お前はずっと壊れたままだ。おれにとっちゃどうでもいいことだが、リーダーが不調をきたすと周りが迷惑する。どうにかして治せ。いいな。」

 それだけ言い放つと部屋を出て行った。ボクは暗い面持ちでヤレンを眺めた。

「それが出来たら、どんなにいいか。」

 気づかぬうちに呟いた言葉が苦しくて、ボクは顔をしかめた。どんなに願っても、その傷を癒すことはできない。ボクはこのぼろぼろの身体を引きずって生きていく選択肢以外ないのだから。

 *

 ボクは寒空の下、今日も街の見回りをしていた。隣にはジユルが浮かんでいる。

 ボクが霧の街に戻って来てから、2回虐殺があった。セラムの力が使えれば間に合ったかもしれないが、ボクが着くころにはすべて灰になっていた。

 ジユル曰く、半年で2回だけというのはかなり少ない方らしい。ボクが王都で大分宝石を殺してしまったので、あちら側も人員が足りていないようだ。

 それでも、徐々にレイトは追い詰められていた。ヤレンから教えてもらったレイトの街の数は20か所。その内、2か所が焼かれ、残りは18か所だ。総人口は5万人ほど。竜の国が本気を出せば、一瞬で殲滅されてしまう数だ。

 もうすぐ、冬季の停戦に入る。竜の国は、その期間に新しい宝石あるいはボクのような武器を必死にかき集めるだろう。

 ボクは根本から作戦を練り直さなければいけないと感じていた。例え、ボクの力が宝石の力を解くものでも、それはレイトを守るには足りない。

 もんもんと考え込んでいると、ふと煙の臭いがして、ボクはきょろきょろと辺りを見まわした。

「何か…燃えているような臭いがしませんか?」

「え?あー、確かに言われたらするかな…。見回りのついでに、ちょっと見に行ったほうがいいかもね。」

 そう言ってジユルが方向を変えた。

 イズミルが死んだ日も、こんな風に何かが燃えるような臭いがした。

 激しい痛みを思い出して身体が震えたが、それでも何が燃えているのか見に行かないわけにはいかなかった。

 すぐに煙があがっている場所が見えてきた。森の一か所、丁度木がまばらになっているところから細く煙があがっていた。ボクとジユルは顔を見合わせた。

「これは狼煙?」

「おそらく、そうでしょうね。ここからでは誰が燃やしているのか分かりませんね…。上から行くと気取られる可能性が高いので、少し離れた位置に降りて歩いて見に行きましょうか。」

「了解」とジユルが短く答え、ボクたちは森の中に着地した。木々の隙間から漏れる光は弱々しく、辺りはしんと静まりかえっていた。冬を越えられない生き物は死に絶え、残った生命が息を殺して冬を待っていた。

 ボクは口元までマフラーを引き上げて狼煙の方へ歩いた。ごつごつとした木の根を乗り越え、行く手を阻む枝を切って進んだ。すぐに焚火のような臭いがし始めた。前は生き物が焼ける臭いだっただけに、ボクはすっかり油断していた。

 斜面を上り、目的地を木の陰から覗いた瞬間、時が止まった。

 そこにはアドニがいた。アドニが焚火を眺めながら、煙草を吸っていた。

 ボクは動悸が激しくなって、立っていられずしゃがみ込んだ。アドニの姿を見た衝撃で心臓が痛い。それに目の前がちかちかと点滅して、焦点が合わない。

 アドニは煙を吐くと口を開いた。

「ベオ、いるんだろ?出て来いよ。」

 ボクはびくっと肩を震わせた。まさか気づかれているとは…。身体中から変な汗が噴き出した。

 ボクは震える身体を押さえつけ、大きく息を吸い込んで立ち上がった。ここで逃げるわけにはいかない。

 ボクはぐっと拳を握りしめ、ジユルを見た。

「ジユルはここで待っていてください。ボクが話してきます。」

「え!? 本気!? 絶対罠だってこれ!」

「説明はできないんですが、これは罠ではないと思います。ですが、万が一のことも考えて、ジユルはここにいてください。」

 ボクはそれだけ言うと、木の陰から出た。すぐにアドニと目が合った。ずきっと胸が痛む。

 アドニは煙草を地面に捨てると、ボクをまっすぐ見た。

「久しぶりだな、ベオ。少し見ない内に背が伸びたな。それに顔立ちが大人っぽくなった。」

「アドニは…何だか疲れていますね。」

「はは、そうだな…。俺は疲れてるよ。連日、馬車馬のように働かされて参ってるんだ。」

 アドニがやれやれと言うように首を振って、無理して笑った。その顔は生きることに疲れて見えた。

 アドニが話しを続けた。

「今日来たのは、レイト人と交渉するためだ。お前ではなくレイト人と話がしたい。そこの木の陰に隠れている奴でいい。連れてきてくれないか?」

「なぜ、ボクではいけないんですか?ボクはレイト人ではないですが、もはやレイト人の行く末を担うものです。ボクに話せないことなら、ボクたちはここを去ります。」

「…そう言うと思ったよ。それなら遠慮なく言うが、レイトと決着をつけるために王都に武器が集まりつつある。このままだとお前は来春の戦いで確実に殺される。そこに隠れているレイト人もろともだ。だが、一つだけ、その一つの条件を飲むのであれば、竜王はレイトから手を引くと言っている。それを伝えに来た。」

「…どんな条件なんですか。」

 ボクはアドニの口からどんな言葉が出るのか恐ろしくて目まいがした。だが、それを内側に押し込めて、表面上は隠した。

 アドニはじっとボクの目を見つめた。

「条件はただ一つ。ヤナを差し出すことだ。そうすれば、お前たちを見逃してやる。」

 その言葉に頭を殴られているような衝撃を感じた。一瞬お腹を擦りながら、遠くをぼんやりと眺めるヤレンが頭に浮かんだ。

「そんなこと、できるはずがない!その条件を飲めば、ヤレンは殺されるかもしれないんですよ!それを分かってて言っているんですか!? 」

「ああ、分かってる。それでも、女一人の命で何万という命が救われるんだ。何より俺はお前が助かるのなら、それでいいと思っている。」

 アドニの顔は苦し気で、ひどく辛そうだった。だが、それでもアドニの言葉に嘘は無かった。ボクは春の夜、ヤレンがアドニについて話してくれたことを思い出した。一瞬で身体がカッと熱くなり、気づいたらボクはアドニに怒鳴っていた。

「ヤレンはあなたを兄のような人だと言っていたのに!どうして!? どうしてそんなことを言えるんですか!? あなたはヤレンが大切じゃないんですか!?」

「大切だったよ。それは嘘じゃない。ヤナが赤ん坊の頃から俺はいつもそばに居て、ヤナの話し相手をしてきた。俺はヤナを愛したし、ヤナも俺を愛した。だが、俺たちは結局別々の道を歩んだ。その果てにヤナはイズミルを選び、俺はお前を選んだ。俺にはお前を守るためなら仕方がないと諦められるくらいの気持ちしか残ってない。」

 淡々と話すアドニの声がひどく遠くに聞こえた。なんでそんなに淡々と、まるで昔話でも話すように言えるのかボクには分からなかった。愛というものはそんなに淡泊なはずがない。

 ボクはキッとアドニを睨んだ。

「そんなことで守られたって嬉しくない!余計なお世話です!もうボクのことは放っておいてください!ボクの命ならいくらでもあげますから…ヤレンだけは絶対に無理です。」

 怒りで歯止めがかからなくなって涙がぼろぼろとこぼれた。視界がぼやけてアドニの顔がよく見えない。必死になって拭ってもあとからあとから流れ落ちた。

 アドニは大きくため息をついた。

「交渉決裂と竜王に伝えてもいいが…。もう一度、冷静になってよく考えろ、ベオ。ヤナを差し出せば、レイト人は迫害されることも虐殺されることもなくなるんだ。たった一人の命で、すべてが救われるんだぞ。」

「…考えるまでもない。ボクはその条件を拒絶します。きっとそこにいるジユルだって同じことを言いますよ。」

「だが、それはレイト人全員の意見じゃない。それに拒絶したところで、どうやってレイト人を守るつもりだ?」

 そう問われてボクはぐっと唇を噛み締めた。策がないわけではない。ずっと考えてきたことがある。だが、それがうまくいく保証はどこにもない。

 畳みかけるようにアドニが言った。

「とにかく、ここで結論を出すな。竜王は春まで待つと言っている。ゆっくり考えろ。いいな。」

 それだけ言うと、アドニは焚火を消した。そして、名残惜しそうにボクを見た。

「本当は今すぐ連れて帰りたいところだが…。竜の国に連れて行ったところで、ぼろぼろになるまでこき使われるのが目に見えてる。いつか俺が解放されたら、何年かかろうとも必ず迎えにいく。だから、それまで生きていてくれ、ベオ。」

 ずきっと胸が痛んだ。ボクは後5年しか生きられないのに、アドニは知らないのだ。ボクは息ができなくなって泣きながらうずくまった。

 アドニが背を向けてボクから離れていく。本当は今すぐにでも、追いかけてその胸の中に飛び込みたいのに、それができなかった。

 やがてジユルがボクの肩に触れた。そして、優しくボクを抱きしめた。ボクはその胸に顔をうずめて声を上げて泣いた。ジユルは黙ってボクが泣きやむまでずっと抱きしめた。ボクはその温かさに、今はただ頼ることしかできなかった。

 *

「泣きはらした顔してどうしたの?」

 ボクが戻ると、珍しくヤレンが1階に下りてきていた。ボクのことを心配そうに見ている。ボクはドキッとして、目を泳がせた。

「いえ…なんでも…」

「相変わらずベオグラードは嘘が下手だね。君が何か隠しているのはすぐ分かるよ。君が話さないなら、ジユルに聞くだけだよ。ジユル、何があったのか教えて。」

「え…オレですか。参ったな…」

 ジユルが頬を掻いてボクを見た。ボクは話すなと言うように、ジユルを睨んだ。しばらく押し問答を繰り返して、結局ジユルが根負けしてぽつぽつと話し始めた。

 話が進むにつれて、ヤレンの顔が暗く沈んでいった。自分の命で何万という命が救われる事実は耐えがたいはずだ。

 ジユルが話し終えると、ヤレンが冷笑を浮かべた。

「僕を差し出せば、レイト人を見逃すなんてね…。あいつがまだ僕に執着しているとは思わなかったよ。本当に気色悪い。だけど、僕1人で何万もの命が救われるなら、条件としては悪くないね。」

「…本気で言ってるんですか。ヤレン。」

「そんな怖い顔しないで。もちろん、本気だよ。だけど、少しだけ猶予が欲しいかな。」

 ボクはてっきり今すぐ竜の国に行くと言い出すかと思って身構えていただけに驚いた。ヤレンがボクを見上げた。

「あいつは僕をご所望だ。だけど、僕の子どもまでくれてやる必要はない。だからさ、申し訳ないんだけど、僕が子どもを産むまでは僕のために戦ってくれないかな?」

 その言葉に熱いものがこみ上げてきた。ボクは胸いっぱいになりながら、何とか頷いた。

「…当たり前じゃないですか。ボクはボクの命にかけてあなたを守ります。」

「…ありがとう、ベオグラード。」

 ヤレンが目を細めて微笑んだ。

 ボクはジユルに支えられて2階に戻っていくヤレンの背中を見送りながら、今までずっと考えて来たことを実行しようと決めた。もしこれがうまくいったら、ボクはヤレンとレイト人両方を救うことができる。しかし、失敗したらどちらか一方を失う。

 その時、ボクは果たしてどちらを選ぶのだろうか。

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