第11話~ほんの少しだけの希望~
ボクははっとして目を覚ました。気づかぬ内に寝ていた。
目の前にヤレンの顔があった。ボクに顔を向けてすうすうと寝息を立てている。ボクはヤレンの腰に手を回して抱きしめるようにして寝ていた。ボクはよく落ちなかったものだと、安堵した。
ヤレンの頬には涙の跡が残っていた。凛として美しかったヤレンの面影はなく、今は1人のか弱い少女に見えた。
ボクはゆっくりと起き上がり、自分が今どこを飛んでいるのか確認した。
既にどっぷりと日が沈み、空には星が輝いていた。地面は鬱蒼とした森が延々と続いており、もうすぐ霧の街に着くことが分かった。
朝日が昇ったのを見た記憶があるので、半日以上寝ていたようだ。
ボクはヤレンの隣に座り、自分の身体の状態を確認した。血が乾いてぱりぱりと音を立てて剝がれていった。幸いなことに切り傷一つなく、すべて返り血だった。
急に何かが咽喉を這い上がってきて、げほげほと咳込んだ。口を覆ていた手を離すと、黒々とした血が手にべったりと付いていた。
ボクは自分の服でそれを拭って、ほんの少し泣きそうなのを堪えた。死ぬのはどうでもいい。だけど、ボクの死で起こる悲劇が恐ろしい。
ゆっくりと竜が高度を下げ始めた。ぐっと重力が重くのしかかる。ボクはヤレンに覆いかぶさって、着陸の衝撃に備えた。一瞬、ふわっと身体が軽くなったかと思えば、重力に押しつぶされるような感覚が走り着地した。
急に竜がボクの服を口で掴み、ひょいっと持ち上げて地面に乱暴に落とした。驚いて見上げると、竜と目が合った。
「我が一族にあだなす少年よ。この哀れな子にせめて安らかな死を与えてやってくれ。」
それだけ言うと、ボクにヤレンを渡して飛んで行った。ボクは驚きのあまり、ただ頷くことしかできなかった。
我が一族にあだなすという言葉が頭の中で響いていた。その意味は分からないが、ボクの中に流れる血が沸き立つのを感じた。おそらく、それはボクの出生に関わることだ。
しばらくヤレンを抱えたまま立ち尽くしていたが、考えたところで埒が明かないと気づき考えるのをやめた。
家々の明かりは消え、辺りは静寂に包まれていた。ボクはヤレンの手を髪紐で縛って首に腕を通すと、背負って家を目指した。
ボクたちの姿を見たらジユルは何と言うだろうか…。イズミルがいないと気づいたら…。だが、歩みを止めるわけにはいかなかった。
すぐに家が見えてきた。出発した時とあまり変わっていないが、今は木々が青々と茂っていた。
深呼吸して扉を叩こうとした途端、扉が急に開いてジユルが現れた。ボクと目が合うと、ぴたっと動きを止めた。ジユルはボクの顔を穴が開くほど見つめ、それから顔をくしゃっと歪めておいおいと泣き始めた。人目をはばからず子どものように声をあげて泣く様子に、ボクは何も言えなくなった。
その声を聞いてイジュマが姿を現わした。イジュマはボクの姿を見て、へなへなと座り込んでしまった。
ジユルが涙を拭いて口を開いた。
「…1ヶ月近くどこ…行ってたんだよ。めちゃくちゃ…探して…たんだぜ。もうほとんど諦めかけてたのに…本当に良かった…」
「その…竜の王都に囚われていて…心配かけてすみません。」
「謝んなよ。あんたが生きてただけで十分だからさ。しっかし、酷い格好だな。悪臭が沁みついてるぜ。」
そう言われて、ボクは苦笑いするしかなかった。脱出するまでに何人の人を殺めたか。返り血で汚れているとはとても言えなかった。
ジユルがボクの背で寝ているヤレンに気づいた。
「あれ、ヤレンさんどうかしたの?寝てるみたいだけど…」
ボクはドキッとして口をつぐんだ。今は頭しか見えていないだろうが、ヤレンの格好はボクよりもさらに酷い。服と呼ぶにはあまりに貧相な布切れをまとっており、その布は血と汚物と精液で汚れてしまっている。
ボクが答えないのでジユルが怪訝そうに眉を寄せた。
「どうしたんだよ…?まさか…死んでるの…?」
「違います。違いますが…。正直、今のヤレンの姿は見ない方がいいです…」
ボクの答えに、2人が動揺しているのが分かった。イジュマが立ち上がって、ボクの顔を覗き込んだ。
「どういうことですか…?」
「その…ヤレンは拷問されていて…」
イジュマの顔から血の気が引いた。ボクが止めるのも聞かずに、ボクの背に回り込んでしまった。「ひっ」と短い悲鳴をあげて、イジュマが震えた声で言った。
「こんなに汚れて…傷だらけで…一体何があったんですか…」
ボクはそう問われても答えることができなかった。まさか男に犯されていたなんて言えるはずもない。
背負うために結んでいた紐をジユルが切り、イジュマがヤレンを抱きとめた。胸元が見えたのか、イジュマが小さく「噓…」と呟くのが聞こえた。
「ヤレンさん…女性だったんですね…」
ジユルが「うぇ!?」と素っ頓狂な声を出した。さすがに隠し通せるわけもなく、ボクはうなだれるしかなかった。
すると、2階から誰かが眠そうに欠伸をしながら下りてきた。そして、うんざりした声で怒鳴った。
「おいおい、何時だと思ってるんだよ。夜中だぜ、夜中。いい加減に…」
それはセラムだった。セラムはボクに気づき、はたと口を結んだ。まるで亡霊にでも会ったかのような青い顔になった。
「生きてたのかよ。はっ、お笑い種だぜ。そんなになってまで戻って来るなんてな。」
ボクの恰好を見て、乾いた笑みを浮かべた。ボクはセラムの言い草に怒りを覚えた。
「…うるさいな。少し黙っててもらえますか。」
「…驚いた。そんな口をきくようなガキじゃなかったろ?何があったか知らないが、随分と生意気になったもんだよ。兄貴が聞いたら泣くぜ?」
その言葉に胸がずきっと痛んだ。ボクがうなだれたのを見て、セラムが何かを察してボクの肩を強く掴んだ。
「おい!兄貴は、兄貴はどこだよ!」
激しく揺さぶられても、ボクは答えることができなかった。言わなければいけないと分かっていても、その言葉を口にするのが怖かった。
皆がボクに注目している。彼らはボクが予想通りの答えを言うのを恐れていた。だが、その沈黙も長くは続かなかった。
「…ごめん、セラム。イズミルは…殺されてしまった。」
いつの間にか、ヤレンが目を覚ましていた。全員の顔から血の気が引いた。
ヤレンは己の身体を引きずるようにして、セラムの前まで行くと土下座した。
「本当は僕が殺されるはずだったのに、何の因果か君の兄さんが僕の代わりに殺されてしまった。本当にすまない。」
セラムの顔が怒りに歪んだ。土下座するヤレンの襟首を掴んで睨みつけた。
「兄貴がてめぇの代わりに殺されただと!? 許さない。絶対に許されない!今ここで殺してやる!」
セラムの手にはいつの間にナイフが握られていた。ボクの身体がセラムを殺そうと臨戦態勢に入った。
イジュマが「やめて!」と叫んだが、セラムには聞こえていないようだった。
ヤレンは己を殺さんばかりに振りあがったナイフを見て微笑んだ。
「…いいよ。それで君の気が晴れるなら、僕のことを殺していい。」
その言葉にセラムの動きが止まった。信じられないと言わんばかりにヤレンを睨んだ。
「てめぇ…良く言えたな。殺さないでと泣き喚くのを期待したのに拍子抜けだよ、本当。最後に言い残すことはあるか、そのくらいの暇は与えてやるよ。」
「はは、君もなんだかんだ言って優しいね。そうだな…。今さら白状すると、僕はイズミルのことが好きだった。心の底から愛していた。イズミルに似た君に殺されるのも悪くないって思うほどにね。君の兄さんのおかげで、僕の人生はいいものだった。ありがとう。それだけは言っておきたかった。」
そう言って、目を閉じた。セラムはナイフを握りしめたまま、ヤレンの顔をじっと見降ろした。すぐに、かつんと音を立ててナイフが床に落ち、セラムが大声をあげて激しく泣き始めた。
「なんでそれを生きてる時に言ってやらなかったんだ!兄貴があんたに惚れてたことぐらい、全員が承知してたんだ!それなのに、あんたは…あんたは…。時を戻す術はどこにもないんだ!あんたがその一言を言ってやっていたら、兄貴は…」
怒鳴るようにセラムが言った。ヤレンは驚いて目を開き、顔をぐしゃぐしゃにして泣くセラムを眺めた。
「驚いた。君はイズミルのこと嫌いなのかと思ってたけど…。そうじゃなかったんだね。」
「当たり前だろ!? 兄貴はおれのたった一人の家族だったんだ。家族の幸せを願わない奴がどこにいるんだよ…」
セラムはぐっと拳を握りしめて、天を睨んだ。
「おれは神にとことん嫌われているらしい。父も母も殺されて、兄貴まで殺されるなんて、一体おれが何をしたって言うんだ!なあ、答えろよ!」
あっと思った時には既に遅く、セラムの瞳がきらりと輝いたかと思えば、空間にひびが入った。そのひびが左右にビシッと音を立てて広がっていく。
ボクは本能的にまずいと悟って、涙を流した。途端にひびが消えて、辺りは静まり返った。
能力を発動させた本人が一番驚いて、口をポカンと開いていた。
「は?今の…なんだ…?」
ボクは涙を拭って、目を伏せた。イズミルが死んだことで空いた穴を埋めるように、セラムが宝石になってしまった。言いようのない悲しみが襲ってきて、ボクは唇を噛み締めた。
*
次の日。
朝起きると、医者が来ていた。丁度、ヤレンの診察を終えたところだったらしく、ボクがイスに座ると医者がヤレンの状態について話し始めた。
ヤレンの身体は度重なる強引な性交により陰部が真っ赤に腫れていて、切り落とされた指は骨が見えた状態で放置されてたため状態が悪く、切られた足の腱も最早手の施しようがないと言われた。
ジユルが今にも吐きそうな顔をして、何とか最後まで聞いていた。ボクは分かっていたことだったが、ずんと心が沈んだ。
「そうですか…。ヤレンは何と言っていましたか。」
「ただ一言、そうとだけおっしゃって寝てしまいました。」
その光景が目に浮かぶようだった。ヤレンはもう自身に関心がない。生きることも死ぬこともどうでもよくなっているのだと分かった。
次にボクの身体を医者が診察し始めた。見た目は健康そのものだが、心臓の音を聞き、触診をするうちに医者の顔が曇った。
「あなた…大分無理をなさったようですね…。つかぬことをお訊ねしますが、今おいくつですか?」
「今は15です。もうじき、16になります。」
「そうですか…」
それだけ言って、黙ってしまった。ボクは医者の配慮を感じたが、はっきりさせておく方が良いと思って口を開いた。
「長くは生きられないんですよね?後、何年くらいですか?」
「…おそらく、後5年くらいだと思います。お若いのに…なんと言っていいか…」
「5年もあるんですね。良かった。もっと短いかと思っていたので安心しました。」
ボクの言葉に医者の顔が引きつった。
「あなたは20歳までしか生きられないんですよ…。それのどこが良かったんですか…?」
「ボクはもともと使い捨ての兵士ですし、それに5年もあれば、竜の王の首は充分狙えます。それが終われば、ボクはもう満足ですから。」
ボクがニコッと笑って言うと、医者がボクを憐れむように見た。
「あなたは…己に対する欲がないのですね。ですが、あなたが死んだら悲しむ人はいないのですか?」
一瞬アドニの顔が浮かんだが、ボクは気づかないふりをした。ボクが頷くと、医者はそれ以上言わずに薬だけ処方して帰って行った。
それからすぐに、ボクは今までの経緯を報告するために古城に向かった。本当はジユルが行くと言ったが、頑として譲らなかった。ボクはイズミルを死に追いやった元凶を、のうのうとのさばらせておきたくなかった。
ボクが来ても、アスシオンや長の顔色は少しも変わらなかった。ボクの説明を聞いて、アルメニアは激しく泣いていたが、アスシオンは口角をひくひくと痙攣させていた。ボクにはほくそ笑むのを我慢しているようにしか見えなかった。
ボクが話し終ると、アスシオンは神妙な面持ちで口を開いた。
「イズミルはレイトのために本当に良く尽くしてくれたよ…。彼には感謝しかない。」
「そうですね。ボクもです。最後にお礼が言いたかった。」
「だろうね…。しかし、イズミルと言うリーダーを失い、竜の子も今や使い物にならなくなった。これから、新しいリーダーを決めなければいけないね。」
「その件ですが、これからはボクがイズミルとヤレンの代わりをします。」
ボクの言葉にアスシオンの顔に動揺が走った。おそらく、アスシオン自身がリーダーとして宝石たちを使いたかったのだろう。
「いやいや、君は竜の子に連れてこられただけの部外者だろ?そこまでしてもらう必要はないと思うが。」
「いえ、ボクはイズミルとヤレンが死んだ後のことも考えて教育を受けていたので、まったく問題ないです。むしろ、ボクはそれが終わるまではここを離れるつもりはありません。」
ボクがニコッと笑うと、アスシオンの顔が強張った。イズミルを殺せば、すべてが手に入ると思っていたのだろう。
アスシオンがどうにかできないかと頭の中でぐるぐると思案しているようだった。
「しかし、君のような子どもにリーダーが務まるとはとても思えないが…」
「歳だけ見れば、ボクはまだ子どもです。しかし、10年戦場で戦ってきました。経験と能力は大人にも勝りません。何より、ボクは宝石です。必ずレイトに勝利をもたらすと誓います。」
畳みかけるように言うと、アスシオンは黙ってしまった。実際、アスシオンは長の家に生まれただけで、戦場の経験もなければ宝石でもない。ボクに勝てるところなど一つもなかった。
ボクは完膚なきまで叩きのめしたと思い、立ち上がった。
「そういうわけで、これからどうぞよろしくお願いします。ボクはレイト人が勝つためなら、どんなことでもするつもりです。邪魔をする者に与えるのは死のみです。どうぞご留意ください。」
ボクが笑みを浮かべながら言うと、アスシオンと長の顔に恐怖が広がった。ボクは彼らをみじめったらしく殺してやりたい衝動をなんとか堪えた。ボクはおかしくなりそうなほど激しい怒りに支配されていても、平然と笑うことができた。
ボクが立ち上がると、アスシオンと長は「これからよろしく」と当たり障りのない言葉をかけた。ボクを見る目はまるで怪物を見ているかのように怯えていたが、一方でどうやってボクを殺すか考えているようにも見えた。
*
イズミルが殺された日からボクの中で何かが変わった。
あんなに憂鬱だった会議も、辟易としていた事務作業もまったく苦に感じなくなっていた。ボクは寝る間も惜しんでヤレンとイズミルがしていた仕事を行い、空いた時間でセラムの訓練に付き合った。
セラムは空間支配系の能力者だった。竜の宝石だとフロムに近い能力で、空間を切り裂き、その割れ目から世界の裏側に入ることができる。うまくいけば、任意の場所まで自由に移動することができた。だが、能力自体は簡単に発動できるのに使いこなすことができない。
一度暴走すると周りの空間をすべてを切り裂いてしまうため、ボク以外はセラムの練習に付き合うことすらできなかった。
それでも少しずつセラムは成長していた。この2ヶ月で暴走は減り、長く能力を発動できるようになっていた。
今日もセラムは朝から荒野で能力を使いこなすための練習をしていた。
ボクは特訓している様子を少し離れた位置からぼんやりと眺めていた。半年前の冬、ここで自分が特訓していた時を思い出していた。自信なさげに、それでも一生懸命に涙を流そうとしていた頃が懐かしい。
「おい!ベオグラード!」
ボクは名前を呼ばれてはっとして顔を上げた。いつの間にか、うとうと船を漕いでいた。口から垂れた涎を拭って、セラムに謝った。
「すみません。うつらうつらしていました。どうしました?」
「お前が寝てるから声かけただけだよ。顔色もよくねぇしさ。今日はやめにした方がよくないか?」
「いえ、大丈夫です。続けましょう。」
「大丈夫…ね。お前があいつみたく潰れると、こっちが困るんだよ。今日はやめだ。帰ろう。」
そう言って、セラムがこちらに歩いて来た。太陽にあたって銀色の瞳が輝く。イズミルによく似た瞳だ。イズミルとセラムは歳が離れているので、セラムはイズミルの若いころにそっくりなんだろうと思った。
ボクがじっと見つめているのに気づき、セラムが鬱陶しそうに顔をしかめた。
「なんだよ。おれの顔になんか付いてんのか?」
「いえ、ただ単にイズミルに似てるなと思って見ていただけです。」
「そりゃあ、おれは兄貴の弟なんだから似てて当然だろ?頭大丈夫か、お前。」
「相変わらず、辛辣ですね。すみません、ちょっと昔のことを思い出していたので。戻りましょう。」
ボクはこぼれそうになった涙を袖でごしごしと拭い、立ち上がった。セラムはボクの涙に気づかないふりをした。イズミルならそっと肩を回してくれるだろうが、セラムは決してそういう気づかいをしない。それがボクには救いだった。
ボクたちが霧の街に戻ると、ジユルが苦々しい顔をして待っていた。ボクは人目で何か問題が起きたのだと悟った。
「どうしました、ジユル。顔色が悪いですよ。」
ボクがイスに腰かけながら言うと、ジユルは「ああ」と返事をして口を開いた。
「ヤレンさんが…妊娠した。」
驚きで、目の前が真っ白になった。心臓の音がやけに大きく聞こえて、自分が酷く動揺していることが分かった。すぐに視界は元に戻ったが、何だか景色が遠くに見えた。
セラムがボクの隣に座り、ジユルをまっすぐ見た。
「それは…本当なのか…?」
セラムの声は震えていた。ジユルは目を伏せて黙って頷いた。
ボクは今にも叫び出したいのを何とか堪えた。
「妊娠してどのくらいなんですか…」
「2、3ヶ月くらいだって話だぜ。正確には分からないけど、十中八九、あの時にできた子だろうね…」
一瞬、血と糞尿と精液の臭いが鼻をついた。暗がりの中で襲われているヤレンの姿がフラッシュバックして今にも吐きそうになった。
ボクは慌てて飲み込もうとしたが、間に合わず口を押えて家を出た。庭まで行くとげぇと吐いた。吐いた衝撃で涙が止まらない。ボクが顔をぐしゃぐしゃにして嘔吐していると、隣にジユルが座り「大丈夫?」と優しく背中をさすってくれた。
ボクは朝食べた物を全部吐き終わってようやく落ち着いた。ジユルが持って来てくれた水で口をすすぎ、はあとため息をついた。
「すみません…。せっかくの食事が台無しですね…」
「いいって。謝んなよ。最近あんた、ことあるごとに謝るよな。こういう時は、ありがとうって言ってもらう方が、こっちも気兼ねなくていいんだけどね。」
「そうですね。ありがとう。ジユル」
ボクが言うと、ジユルがニっと笑った。ボクは少しだけ気が楽になった。
ボクが家に戻ると、セラムがぶっきらぼうに「大丈夫か?」と気遣ってくれた。ボクは「ええ、大丈夫です。ありがとう」と返事して座った。セラムはふんとそっぽを向いたが、その顔は安堵しているように見えた。
ボクは水を一口飲み、改めてジユルを見た。
「それで、その…ヤレンはそれについて知っているんですか?」
「いや、まだ伝えてない。もしかしたら気づいてるのかもしれないけどね。最近、食事が咽喉を通らないみたいだし、ずっと寝てるから心配になって医者に診てもらったらこれだよ…」
ジユルがぐっと拳を握りしめて、うつむいた。そして、少しだけ迷うように口を開いた。
「えっとさ、怒らないで聞いてもらいたいんだけど…」
「なんですか?」
「医者にさ、ヤレンさんに産むか産まないか聞いてくれって言われてるんだ。」
その言葉に、ボクは言葉を失った。どうしてそんなことを言うのか聞きそうになったが、すぐに理解した。ボクは恐る恐るジユルに訊ねた。
「産むか…産まないか…ですか…。医者はどちらがいいと言っていたんですか?」
「医者は産まない方がいいと言っていた。ヤレンさんの身体の状態的に、お産には耐えられないんだとさ。中絶もリスクがあるけど、産むよりかは幾分かマシって話だったよ。」
ボクは頭を抱えた。
セラムが不愉快そうに眉間に皺を寄せてジユルに言った。
「なんだよ、それ。それじゃあ、なんであいつにわざわざ聞かないといけないんだ?医者に下ろすように言えば済む話だろ?」
「いやいや、さすがにそれは本人に許可をもらわないとだめだろ。どっちにしろリスクがあるんだぜ。それに、確か竜ってのは特殊な受け継がれ方をするって聞いたこがある。下手にオレたちが決めると、しっぺ返し食らうって。」
ボクは2人の会話を聞きながら、もんもんと考えていた。どちらがヤレンの為になるかなんてはっきりしているのに、どうしてこんなに悩んでしまうのだろう。
ボクはぐっと目を閉じて、覚悟を決めた。
「ボクが伝えてきます。どちらにしろ、ボクはヤレンの気持ちを尊重します。2人はどうしますか?」
「オレもヤレンさんの気持ちに従うよ。」
「おれは、あいつが何と言おうと産むのは反対する。そう伝えておけ。」
「…分かりました。お2人はここで待っていてください。」
2人が頷いた。ボクは震える身体に鞭打って、2階に上った。
コンコンと扉を叩くと、イジュマの声がした。
「あら、どなた?」
「ボクです。ベオグラードです。」
「ああ、ベオグラードさんですね。少し待っていただけますか?今身体を拭いているので。」
「あ、すみません。出直します。」
ボクが慌てて戻ろうとすると、ヤレンの声が響いた。
「いいよ。もう終わるから。少し待っていて。」
少しして扉が開いた。イジュマが桶を持って立っていた。
「お待たせしました。終わったので、わたしは水を捨てて来ます。」
そう言って、部屋を出ていた。イジュマの目は赤く腫れていて、泣きはらしたのだとすぐに分かった。
ヤレンはベッドの上で壁にもたれて座っていた。脇の下まで伸びた金髪が、窓から差し込んだ光できらきらと輝き、白く透き通った肌が金髪に映えて、まばゆいばかりに美しい。
しかし、その瞳には光が入らず、底を覗いているかのように暗く沈んで見えた。
ヤレンはボクを見て、無理して微笑んだ。
「久しぶりに来てくれたね。最近は特に忙しそうだけど、無理してるんじゃないかと心配してたよ。」
「なかなか顔を出せなくて、ごめんなさい…」
「責めたわけじゃないんだ。ただ、あまり根を詰め過ぎたらだめだって言いたかっただけだから。そんな所に立ってないで、こっちにおいで。」
ボクは頷き、ベッドの脇に腰かけるとまっすぐヤレンを見た。
「ヤレン、ボクはあなたに言わなくてはいけないことがあって来ました。」
「そうかなと思ったよ。何?」
ボクは一呼吸入れて、口を開いた。
「…ヤレン、あなたは妊娠しています。」
ボクの言葉にヤレンの目が大きく開いた。しかし、すぐに腑に落ちたと言わんばかりの表情になった。
「なるほどね…。通りでさっきイジュマが泣いていたわけだ。妊娠してどのくらいなのかな?」
「大体、2、3か月ほどらしいです。」
「そっか、2、3か月か…。それで君は僕に産むか産まないかを判断してほしいわけだね。」
ボクはそう言われて言葉に詰まった。ヤレンはボクを気遣って自分から進んで言ってくれたのだと悟り、余計に辛くなった。
ボクが黙ってしまったのを見て、ヤレンは困ったように眉を寄せた。
「そんな顔しないで、ベオグラード。自分の身体の状態は、一番分かっているつもりだよ。妊娠しているかもとは思ってたんだ。そして、僕が今子どもを産めるほど体力がないことも分かってる。それでも、僕は産むよ。」
ボクは愕然として、ヤレンの顔を見た。ヤレンは穏やかに微笑んでいた。
「誰の子か分からないし、正直言って産まない方がいいだろうけど、ほんの少しだけの希望を諦めたくない。」
「ですが…ヤレン死んでしまうかもしれないんですよ…」
「分かってる。でも、僕は竜だ。竜は子に受け継がれる。竜が子を生さずに死ぬと、ブライトの子の誰かが竜になるんだ。あいつの子に受け継がれるのは惜しい。せめて、僕の子どもが竜になってくれた方がまだいい。そのために僕は命をかけるよ。」
ボクは血が滲むほど唇を噛み締めた。胸が張り裂けそうなほどの悲しみに襲われて、涙があふれてきた。
「ボクは…ボクはあなたが生きていた方がずっといい!どうしてもどうしてもだめですか…」
「うん、ごめんね。これだけは譲れない。たとえ、誰が何と言おうとも僕は産むよ。」
申し訳なさそうに謝って、ヤレンがボクの頬に流れる涙を指で拭った。
「君が泣くと、この街にかかってる魔法が解けてしまうよ。」
「そうでしたね…。ごめんなさい。」
ボクは涙を拭って、鼻すすった。そして、ぎゅっとヤレンの手を握った。
「ヤレン、ボクが必ず竜の王を殺します。そして、あなたたち親子が笑って暮らせる日々を作って見せます。だから、絶対に死なないで。」
「ありがとう。ベオグラード。嬉しいよ。君は僕が思った通り優しい子だね。でも、僕のことだけじゃなくて、君自身のことももっと大切にして。それが、きっと君の大切な人のためにもなるから。」
ヤレンが目を細めて微笑んだ。ボクはこの美しい人を守りたいと思った。
ボクはヤレンのことが好きだ。どうしても救いたい。幸せにしたい。
しかし、幸せはあまりに掴みどころがなくて、ボクはちゃんと掴むことができるか不安になった。
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