第6話~強くそして~

「さてと、それじゃあ、始めようか。」

 そう言って、ヤレンがボクの前に立った。

 ボクたちは霧の街から離れた荒野にいた。荒野と呼ぶにふさわしい荒れ果てた大地に、冬の乾いた風が吹き土埃が舞っている。ボクはこんな何もないところで、一体何を始めるのか不思議だった。

 ボクの疑問を察したのか、ヤレンが口を開いた。

「何を始めるんだろうと思っているね?簡単に言えば、能力を発動させる練習さ。まあ、まずは見てて。」

 そう言って、ヤレンがじっと近くの岩を見つめた。すると、ヤレンの青い瞳が一瞬輝いたかと思えば、まるで熱したチーズのように岩が地面に広がった。

 ボクは驚いて目を見張った。これは人間のできる諸行ではない。

「…ヤレンも宝石なんですか?」

「そうだよ。僕は能力者。人によって能力はまちまちで、僕みたいに物体を変化させることができる人もいれば、イズミルのように自然現象を操る人までいる。」

 離れた位置でこちらを見ているイズミルを指さした。イズミルが「その通り」と言うように頷いた。

「これをできるようになってほしいんだ。」

 ボクはヤレンの言葉にクラクラと眩暈がした。まるで、この世の理を相手にしているような感覚がした。こんな圧倒的な力をボクが生み出せるとはとても思えない。

 だが、それでもやるしかない。ボクは深呼吸して、ヤレンを真っ直ぐ見つめた。

「やってみます。ヤレンはどうやって、能力を発動しているんですか?」

「僕は心の中で溶けろって唱えるとできるよ。でも、人によって結構まちまちなんだよね…。イズミル!イズミルは、どうやって発動させてるんだい?」

「私は手のひらを空に向ければ、いつでも発動できる。」

「へー、そうなんだ。さっき言ったように本当に十人十色でさ、こうすればいいって明確なアドバイスはできないんだけど…。ベオグラードが力を使った時、何をしてた?」

 ボクは言葉に詰まった。

「ボクは…その…泣いていて…よく覚えていないです。」

「なるほどね。それなら、君の力は泣くと発動するんじゃないかな?今、ここで泣いてみせてよ。」

 さも当たり前のように言われて、ボクは困った。確かに前に比べれば、ボクは大分人間らしくなった。だけど、悲しいこともないのに泣くことはできない。

 ボクが固まって動かないので、ヤレンがやれやれと首を振った。

「悲しいことを思い浮かべるとかさ、やりようはいくらでもあるはずだよ。ほら、見てて。」

 そう言って、ヤレン何かを思い浮かべるように、ぼんやりと一点を見つめた。すると、たちまち青い瞳に涙がたまり、はらはらと流れ落ちた。

「ほらね。やりようはいくらでもあるんだよ。何でもいいから思い浮かべてごらん。」

 ヤレンが涙を零しながら、ボクに言った。

 ボクは必死に何か悲しいことを思い浮かべようとした。だが、どうも集中できず、泣くことができない。ヤレンの涙になぜか動揺していた。あの涙は悲しみの涙だ。

 ボクが試行錯誤している間、ヤレンはとめどなく涙を流していた。あまりに泣き止まないので、イズミルが声をかける。

「どうして、ずっと泣いているんだ。大丈夫か?」

 イズミルが心配そうに眉間を寄せて、ヤレンの涙を拭った。ヤレンは無理して笑った。

「大丈夫。ちょっと…やりすぎただけだよ。想像だって分かってるのに…本当にそうなったら、どうしようかって思ったら…ね。気持ちを落ち着かせてくるから、ベオグラードにアドバイスしてあげて。」

 ヤレンは涙を拭いながら離れて行った。その後ろ姿を見つめるイズミルの表情は苦し気で、ボクは何も言えなくなった。友を見つめる目ではない。もっと特別な者を見る目だ。

 イズミルはため息をつき、ボクの方を見た。さっきまで浮かべていた感情は消え去り、普段の表情に戻っていた。

「他の方法も試してみようか。私みたいに、手をスイッチにするのはどうだろう?」

 その後もしばらく色々とやってみたが、結局力を発動させることができなかった。

 泣きやんだヤレンが戻ってきて、困ったように眉を寄せた。

「全然、使えてなかったね。おそらく涙だとは思うけど、君の場合、涙を流すのがとても難しいみたいだ。その内できるようになると問題を後回しにできれば良かったけど…僕たちには時間がない。何がなんでもできるようになって。」

「…頑張ります。」

「良い子だ。努力は裏切らないよ。それに、やることがあるっていうのはいい。おぞましい過去に苦しむこともなく、目の前のことに集中できるからね。」

 ヤレンに言葉に、ボクはただ黙って頷いた。


 霧の街に帰ると、イジュマが用意してくれた食事をガツガツと食べて、少しの休息の後、ヤレンとゲームを始めた。

 テーブルの上には市松模様の盤上と、白と黒の駒が並べられたボードゲームが置かれていた。ボクはその1つを持ち上げて手のひらに置く。馬のような形をしていた。

 ヤレンがボクの目の前に腰掛けた。

「これは互いの駒を使って相手の王様を攻略するゲームだよ。交互に自分の駒を1回ずつ動かしていくわけだけど…」

 どの駒がどう動き、最終的にどうなれば勝ちなのかを淡々と説明した。ボクはそのルールを覚えるだけでも、頭が痛くなるほど必死にならなければならなかった。

 ややあって何とかルールを飲み込んだ。

 ヤレンが動かした駒を戻しながら、「どう?できそう?」と聞いた。

「おそらく…。」

 ボクの自信なさげな返答に、

「後はやりながら覚えて行く方が早いかな。それじゃあ、やってみようか。」

 そう言って、ゲームが始まった。

 1回目。当然の如く、ヤレンが勝つ。ボクもようやくルールを理解する。

 2回目。1回目よりも確実に腕前があがった。だが、それでもヤレンには遠く及ばない。

 3回目。序盤巻き返したが、最後は負けてしまう。

 4回目…。

 何度しても、ヤレンにはまったく歯が立たない。途中からボクはまるで巨人でも相手にしているかのような絶望的な力の差を感じた。

 4回目を終えたところで、ヤレンがボクにニコッと笑って口を開いた。

「まだ、続ける?」

 ボクは首を振った。その様子を遠くから眺めていたイズミルがやれやれと肩をすくめた。

「もう少し手加減してやったらどうだ。ベオグラードが2度と、君の相手をしてくれなくなるぞ。」

「最近、全く相手をしてくれないイズミルに言われると、説得力が違うね。ベオグラードには、この2か月で僕に張り合えるくらいには、強くなってもらいたいな。」

 ボクはその言葉に耳を疑った。どうやってこの巨人を倒せというのか…。

 ボクの表情がいくらか暗くなったのを見て、ヤレンがぽんっと肩を叩いた。

「そう思いつめなくていいよ。気楽に考えて。このゲームで、君には戦略と戦術を学んでほしいだけで、僕を打ち負かして欲しいわけじゃないからね。何冊か本を貸してあげるし、練習にも付き合うよ。君、読み書きはできる?」

「はい。できます。」

「良かった。それじゃあ、本を探してくるから、その間休憩にしておいて。」

 ヤレンが立ち上がり、2階に上って行った。ボクはハアとため息をついて、額を机に擦り付けた。疲れた。こんなに疲れるのは久しぶりだ。この1か月はアドニの部屋で何もせず暮らしていた。それにこんなに頭を使うのは正直初めてで、今にもパンクしそうだ。

「お疲れ様~。ほら、これでも飲みなって。」

 そう言ってボクの目の前に温めたミルクを置き、ジユルがニッと笑う。

「しごかれてんねぇ。大丈夫?顔死んでるぜ。」

「なんとか…」

「無表情のお人形のままではいられないみたいだな。顔にクソ疲れたって書いてあるぜ?」

 そう指摘されても、ボクはもはや無表情を作る気力さえなかった。

「ボクも人間なので…」

「ま、それもそっか。疲れには甘いもんが1番効くからさ、まあ飲みなって。」

 ボクはコクリと頷き、1口飲んだ。甘くて美味しい。確かに身体の疲れがほんの少し無くなった気がした。

「あんた、甘い物が好きだよな。」

 ジユルがニコッと笑う。ボクは持っていたカップを置いた。

「スキというのは、どんな感情のことですか?」

 ジユルがまるで地球外生命体でも見るかのような目でボクを見た。

「え、まじ?本気で言ってんの?」

「はい…」

「好きてのは、女に子と書く文字で、こうなんだろう…。いざ説明しようとすると難しいけどさ。例えば、今あんたはミルクを飲んで表情が緩むだろ?それは好きってことなんだよ。それと、ほらさ、恋人とかさ、そういう人に対して感じる気持ちのことも言うな。その人と一緒にいたい、その人といるだけで何というか満ち足りるというか…。まあ、そんな感情のこと!分かった?」

 恥ずかしそうに顔を赤くしながら、ジユルがボクに言った。ボクはコクリと頷く。ボクにもその感情は覚えがあった。

「あ、ベオグラードだけいいな。僕にも頂戴。」

 丁度下りてきたヤレンが言うと、ジユルは用意してますと、ヤレンの席にもミルクを置いた。

「ありがとう。ジユルは、本当に気が利くね。そこの端に座ってるお兄さんも見習ってほしいところだ。」

「はいはい、気が利かなくて悪かったな。」

 イズミルが面倒くさそうに答えると、可笑しそうにヤレンが笑った。

「冗談だよ、イズ。そんなに面倒くさそうにしないで。」

 いつもと違う呼び方に、ボクは何となく胸の奥がざわめいた。そう言えば、アドニもボクのことを「ベオ」と呼ぶ。愛称を付けるっというのには、何か特別な意味がある気がした。

 ***

 夢を見る。

 アドニが後ろからボクを抱きしめている。事あるごとに寒いからとボクを抱きしめてくれた。きっと寒いという理由だけじゃなかったんじゃないかと、今なら思う。

 人に抱きしめてもらったことのない、冷たいボクを憐れんでいたのかもしれない。

 どんな理由があれ、ボクはアドニに抱きしめてもらうのが、何だか心地よくて好きだった。

 そう好きだった。

 ボクはアドニが好きだった。

 誰かに好きだと思われたことのないボクは、アドニがくれた善意が宝物だった。

 だから、アドニの身体から血が流れて命が失われるというとき、ボクは涙を流した。苦しくて悲しくてやりきれない気持ちが、ボクを今日まで生かしている。

 ボクがアドニの顔を見上げると、アドニがボクに微笑んだ。優しくてまるで太陽のような笑顔。ボクは胸の奥がぎゅっと苦しくなった。これは夢で、もう2度とこうやって抱きしめてもらうことはできないのに、ボクはまたアドニに会いたいと思っている。でも、次に会うときがくれば敵同士であることも理解していた。

 アドニのことを考えると身体が熱くなって、たまに、あの快楽が脳裏をかすめた。好きという感情は不思議だ。

 アドニの顔が近づいてくる。これはボクの妄想だ。だけど、ボクはその妄想に何度もキスされた。額に、頬に、顎に、唇に。

 これが本当だったら、どんなに良かったろうと思う。

 全部、ボクの夢に過ぎない。

 ***

 ヤレンたちに稽古を付けてもらってから2ヶ月が経った。

 毎日ひたすら、能力発動の条件を探り、時にヤレンとゲームをし、空いている時間にはジユルやイジュマと雑談しながら、様々なこと教えてもらった。

 しかし、なかなか能力を発動させることも、ヤレンに勝つこともできない。ヤレンには焦らず1つ1つ着実にこなすように言われたが、それでも焦らないはずもなかった。

 徐々に冬が過ぎ、春になっていく。2か月というのは長いようで、あっという間だった。

 春が近づくにつれて、ヤレンとイズミルが家を空けることも増えてきた。レイトの現長に呼び出され、何やら会議に参加しているらしい。会議の後、酷く疲れた顔で帰ってくる様子に、ボクは不穏な空気を感じた。

 良く晴れた昼下がり、ボクがヤレンとゲームをしていると、この寒空にもかかわらず、額に汗をかいた青年が家に飛び込んできた。

「伝令です!イズミル殿はいらっしゃいますか!」

「ええ、いますよ。」

 イズミルが立ち上がり答えると、青年がぜいぜいと荒い呼吸のまま話し始めた。

「先ほど連絡があり、砂の街が竜の人間に襲撃されたとのことです!敵戦力は不明。ここから距離もありますし、お力をお借りできないでしょうか?」

 部屋の中の雰囲気が一変した。ひやりとした殺気のようなものに包まれた。

 ヤレンが持っていた駒をテーブルの上に置き立ち上がった。

「…思ったよりもずっと早かったね。仕方ない。いいよ、行こうか。」

「ああ、分かった。」

 そう答えて、イズミルが青年に言った。

「分かりました。我々、イズミル隊が出撃します。そう、長にお伝え願いますか?」

「承知しました!ありがとうございます!」

 青年は嬉々として去っていった。イズミルの表情は、何だか暗いような気がした。

 残されたボクたちは皆、イズミルに注目していた。イズミルは全員に頭を下げる。

「急に出撃になってしまって、すまない。」

「仕方ないっすよ。それに今始まったことじゃないですしね。」

「ありがとう。ジユル。おそらく、友軍の援助は見込めない。ここにいる5人で対処することになる。久しぶりの戦いだ。絶対に気を抜くな。何があっても必ず生きて帰るんだ。いいな。」

 全員が頷く。

 ボクは緊張で今にも吐きそうになった。ついにこの日が来てしまった。もし、この戦いでアドニを目の前にしたら、果たして正常なままでいられるだろうか。

 不安が顔に出ていたのか、ヤレンがボクにささやいた。

「君は、己を知って強くなった。大丈夫。今は力が使えなくても、きっときっかけがあれば使えるようになるよ。」

 ヤレンがボクに微笑んだ。ボクはその笑顔にほんの少しだけ、元気づけられた。


 ボクたちは身支度を整えて、霧の街の外れまで来ていた。ボク以外、誰も武器を持っていない。ヤレンとイズミルの力は知っていたが、ジユルとイジュマはどうやって戦うのか分からなかった。

 ヤレンが空に向かって唱えた。

「我が竜よ。我が元へ来たれ。」

 すると、強風が吹き、空から竜が降りてきた。相変わらず、金色に輝いている。ヤレンが手を伸ばすと短く鳴き、ヤレンの頬に頭を擦り寄せた。

 ヤレンが竜を撫でながら、ジユルに視線を向けた。

「確か、ジユルの力は1人くらいなら運べるんだったよね?」

「ええ、そうですよ。」

「それじゃあ、ジユルはイジュマと後ろから付いて来てくれるかい?急いで向かうには5人は重い。帰りは乗っていいからさ。」

「そういうことなら了解です!」

 ジユルは元気よく答えて、空中に指で文字を書いた。途端に風が立ち、ジユルとイジュマの身体を包んだ。それを見てジユルも宝石なのだと改めて実感した。ジユルは風を操る能力者だ。

 竜の背中に乗るのは、これで2度目だ。ボクは霧の街に来た時に座っていた場所に再び座った。

 イズミルとボクが乗ったところで、ヤレンが竜に飛ぶように命じた。竜は一言咆哮し、翼を大きく広げて飛び上がった。重力で身体が重くなる。

 竜はばさばさと翼を羽ばたかせて、ぐんぐんと高度を上げていった。後ろを振り返ると、霧の街があっという間に小さく霞んで見えた。

 高度が上がるにつれて、空気が冷え身体が震えた。それに呼吸もままならないほど飛ぶスピードが速い。それだけ緊急事態なのだと分かった。

 竜の背中に乗っているヤレンとイズミルの表情は険しく、最悪の事態も想定しているようだった。

 徐々に青々としていた大地が砂漠に変わっていった。

 ボクはもうすぐ始まるであろう戦いに身震いした。怖い。ボクは怖れていた。人形だったころは人を殺すのも血生臭い戦場に行くのも当たり前で、何も感じなかった。それに、ボクには大切な人もいなけば、自分自身が死ぬことにも興味がなかった。

 だけど今は違う。もしかしたら、自分の好きな人がいるかもしれない。もしかしたら、今ここにいる誰かが殺されるかもしれない。

 ヤレンはボクは己を知って強くなったと言った。だが、ボクは己を知れば知るほど弱くなってしまった。

 ボクはぎゅっと柄を握りしめ、恐怖を胸の奥にしまい込んだ。今は、これ以上考えてはいけない。ぐっと目を閉じて、ボクはひたすら頭の中でゲームの駒を動かし、明日どうやってヤレンに勝つかを考えた。

 どのくらいたっただろう。身体は芯から冷え切り、ボクはがちがちと歯を鳴らして寒さに耐えていた。

 すると、イズミルが全員に聞こえるように叫んだ。

「見えたぞ!1時の方向だ!」

 ボクは、はっとして言われた方向を見た。遠くに黒い煙があがっている。ボクは瞬間的街が燃えているのだと理解した。

 あそこで今、レイト人が殺されている。イズミルとスタアク兄妹の同胞が殺されていると思うだけで、身体中がかっと熱くなって、心臓が激しく脈打った。

 竜は方向を変えて、煙の上がる方に突っ込んでいく。だんだんと近づくにつれて、全容が見え始めた。何の変哲もないオアシスの家々に火が放たれて、激しく燃えていた。さらに、レイト人が倒れているのが小さく見えた。

 ボクはひやりとした殺気を感じて、ヤレンを見た。ヤレンの顔は無表情だったが、身体中から怒りがにじみ出ていた。

 低い声で竜に命じる。

「…生存者を探しに行くから、街の近くに僕たちを下ろして。」

 竜は一言鳴き、街のすぐ近くにおり立った。後ろから付いて来ていたジユルとイジュマも着地した。

 何かが焦げた臭いと血の臭いに満ちていた。ボクはその惨憺たる光景にゴクリと唾を飲んだ。身体が潰れてぐちゃぐちゃになっている者、火だるになって燃えている者、首から上がない者、周りを見回しても生きている者は1人もいなかった。老若男女問わず、すべてが殺されていた。

 ボクはこの光景を見てやっと気づいた。これは戦争ではない。一方的な虐殺だ。

 ヤレンが血が滲むほど、唇を噛み締めていた。酷い顔をしている。まるで、己が彼らを殺してしまったと思っているように見えた。

 ボクたちは街に踏み入った。もしかしたら、生存者がいるかもしれないという微かな希望を抱いて、家々を捜索した。しかし、念入りなまでにすべてが殺されていた。

 箪笥に隠された赤ん坊も、地下に逃げ込んだ女子どもも、すべてが鋭利な刃物によって惨殺されていた。1人も生かしてはならないという執念に、ボクはぞっとした。

 ヤレンが道端で打ち捨てられていた子どもを抱き、そっと子どもの胸の上に手を置いた。きらりと中指が輝き、金の指輪が現れる。ささやくようにヤレンが唱えた。

「我が名は竜、ヤナ・ブライド。我が盟約に従い、彼の者に祝福を与え給え。」

 だが金の炎は燃え上がらず、子どもの目は虚ろのままだった。さっきまで花でも摘んでいたのか、子どもの手には花が握られていた。

 ヤレンはそっと地面に子どもを寝かせて立ち上がった。ボクが見ているのに気づき、乾いた笑みを浮かべた。

「だめだね。やっぱり、死んで時間が経ってしまうと、もう僕にはどうしようもない…」

「ずっと思っていたんですが、あなたは本当は…」

 ボクが言い終わらない内に、何者かがヤレンに飛びかかった。ボクは一瞬で人間の目には捉えきれないほどに加速し刀を抜き放つと、その物体の首を切った。ぐるりと回転しながら落ちて行く頭と目が合った瞬間、ボクはぎょっとした。

 それは…さっきの子どもだった。

「どうして…?確かに、死んでいたはずなのに…」

 ボクは混乱した。死んだ者が生き返るわけがない。

 途端、今まで倒れていた遺体が次々と起きあがり、一斉に飛びかかってきた。さすがに刀だけでは捌ききれない。一か八か、ここで能力を発動させてみようとした途端、ひんやりとした空気が辺りを包んだ。あっという間に遺体が凍りつく。

 ボクは白い息を吐きながら、こちらに小走りで走ってくるイジュマに気づき、これがイジュマの能力であることを理解した。

「大丈夫ですか?お怪我は?」

「大丈夫だよ。助かった。ありがとう。イジュマ。」

 ヤレンに礼を言われて、イジュマが柔らかく微笑んだ。しかし、すぐにわらわらと寄ってくる遺体を見て、表情を硬くした。

「一体、何が起こっているのでしょうか…?この街の人は皆、死んでいたはずですが…」

「…竜の国には、遺体を操る能力者がいるんだ。それの仕業だろうね。これで僕たちを殺すつもりなんだ。この前の仕返しなんだろう。心底吐き気がする。」

 ヤレンの顔に憎悪が浮かんだ。

 操られた人々の目には、もはや何も映っていない。魂が抜けた空っぽの身体を人形のように操られて、したくもないことをさせられている様が昔の自分に重なった。

 ボクはぐっと柄を握りしめて刃を向けた。頭と身体を切り離せば動かなくなるのなら、ボクはただ切るだけだ。すると、ヤレンがボクの手の上に己の手を重ねて、刀を下に向けた。

「これ以上身体を傷つけたくないんだ。だから、ベオグラード、君が今ここで力を解放して、彼らを救ってみせて。」

 そう言われて、ボクは一瞬思考が止まった。ボクが救う…?

 今まで1回も成功したことがないのにもかかわらず、今ここでしろと言うのか。ドキドキと心臓が早鐘のように打ち、手に汗が滲んだ。呼吸が速くなり、目の前が霞むほどの緊張に襲われた。できない。ボクにはできない。

 ボクの足が緊張で震えているのを見て、ヤレンはハアとため息をついた。

「いいよ。そんなになってまでしなくていい。僕がやるよ。」

 そう言って、ヤレンが右手を前にすっと出した。すると、金の指輪がきらりと輝いたかと思えば、ヤレンの身体全体が金色に輝き始めた。風が立ち金髪を揺らす。ボクはあまりの眩しさに目を細めた。

 ヤレンの手のひらから、大振りの剣が現れた。柄に竜が掘られた金の剣だ。ヤレンはそれを握り締めると、地面に突き刺して唱えた。

「我が剣よ、その力を持って、彼らを解放せよ!」

 剣から光がびかっと柱のように上がった。一瞬辺りが金色の光に包まれ、痛いが糸が切れたように力なく倒れていった。光は街を覆うほどに広がると、すっと音もなく消える。

 ヤレンは剣と指輪を消すと、青白い顔で振り返った。

「…次は頼んだよ。ベオグラード。」

 その酷く疲れた様子に、ボクは己の無力さを恥じた。途端、ヤレンが、げぇっと吐いて座り込んだ。慌ててイジュマが駆け寄り背中を擦った。

「だ、大丈夫ですか!?」

「ちょっと無理し過ぎた。大丈夫。しばらく、休んだら、平気になるよ。それより、イズミルとジユルの姿が見えない。探してきて。」

「分かりました。ベオグラードさん、ヤレンさんをお願いしますね。」

 イジュマが走って行った。ボクは今だに吐き続けるヤレンの隣にしゃがみ、イジュマの真似をして背中を擦った。

「その…他にしてほしいことありますか?」

「…いいよ。ただ、隣にいてくれれば、それでいい。情けない姿を見せてしまったね、ごめん。」

「いえ…ボクこそ、すみません。何もできなくて恥ずかしいです。」

「そうだね…。まあ、仕方ないよ。僕もプレッシャーをかけすぎた。ごめんね。」

 苦しそうに顔を歪めながら、ヤレンが謝った。ボクは首を振った。

 ヤレンは目の前で死んでいるレイト人たちに視線を投げた。

「僕たちは兵士しか殺さないのに、あいつらときたら平気で一般人も殺すんだ。許せない。本当に許せない。僕はあいつを血塗れにして、這いつくばって命乞いさせてやるんだ。絶対に何があろうとも。どんな犠牲を出してでも僕はあいつを殺す。」

 ヤレンの瞳には憎悪が燃えていた。こんなに口汚く罵る姿を見たことがなかった。ヤレンの中に猛烈な怒りがある。ボクはヤレンの気迫に押されて、ゴクリと唾を飲んだ。

 すぐにイジュマが帰ってきたが、その顔は涙で濡れていた。

「ジユルが…ジユルが…!」

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