第14話~開戦~
ボクは眠れずに、窓辺に座って黒い湖を眺めていた。
騎士王からあてがわれた寝室は、昔騎士王の息子が使っていた部屋で、少し埃っぽいが居心地のよい部屋だった。木製のベッドは肌触りがよくマットもいつも清潔で、部屋においてあるアンティークの品も上品で使いやすいものばかりだった。
ボクは足元に置いていた温かいミルクを一口飲み、息を吐いた。
もうすぐ春になる。
春になれば諸王が一斉に竜の国に宣戦布告し、戦争が始まるだろう。憂鬱に押しつぶされそうになって、ぐっと目をつぶった。
「苦しい…」
口をつくのはそんな言葉ばかり。なぜ苦しいのか分かっていた。だが、それを解決しようとは思わなかった。けれども、こんな寂しい夜は、その苦しさに押しつぶそうになる。
急に、こんこんと窓を叩く音が響いた。驚いて顔を上げると、ジユルが窓枠に座ってこちらを見ていた。
ボクはぎょっとして窓を開いた。すると、ジユルがボクに飛びついた。
「ベオグラード!会いたかった!」
そう言ってボクの頭をわしゃわしゃと撫でた。ボクは突然のことに口をぽかんと開けた。
「な、なんで…ジユルがいるんですか…」
「なんでってそりゃあ、あんたを迎えに来たからに決まってるだろ?遅くなってごめんな。色々と段取りがつかなくて…」
「ボクはてっきり見放されたのかと…」
ボクの言葉に、次はジユルが驚いた表情になった。
「まさか、そんなことするわけないだろ? …でも、そう思わせてしまったのなら、ごめん。あんたが竜殺しだって分かってから、騎士王からそれとなく立ち去るように言われたらしくて…。セラムが1人で帰って来た時は、本当にどうしようかと思ったよ…」
セラムが姿を消した本当の理由が分かって、ボクは少し気が楽になった。だが、一方でレイトと切り離そうとする騎士王たちの思惑を知り、陰鬱な気持ちになった。
ジユルは立ち上がり、ボクの手を引っ張った。
「それでヤレンさんとも話して、強引に連れ帰ることにしたわけ。ベオグラード、オレたちの家に帰ろうぜ。皆、あんたの帰りを待ってるよ。」
「でも…もう戦争が始まってしまいますし…。今さら逃げることはできません…」
「そんなことないって!こんな国のために、あんたが命を張る必要ないよ。それを言うなら、レイトのためにも命を張る必要はないけどね。」
「でも…」
それでも渋るボクをジユルが強引に立ち上がらせた。
「とりあえず、一旦帰ろうよ。ヤレンさんがあんたの帰りを待ってるんだ。大分お腹も膨らんで、もうすぐ生まれると思う。だからさ、会ってやってよ。頼むよ…」
最後は消え入りそうな声でボクに頭を下げた。ボクはいたたまれない気持ちになって頷いた。
「…分かりました。ヤレンに会いに行くということなら行きます。」
ボクがそう言うと、ジユルが嬉しいそうにニコッと笑った。その笑顔を見ているだけで、胸の中に温かいものが広がった。
*
「おかえり、ベオグラード。」
ボクが部屋に入ると、ヤレンが前と同じように壁に寄りかかってボクを出迎えた。冬と春の間の柔らかい日差しに金色の長い髪が輝き、憎悪によって黒く濁っていた青い瞳には今は憎しみはなく、母性のような優しい光が宿っていた。
そして、ヤレンのお腹は痩せた身体の半分を占めるのではないかと思わせるほど大きくなっていた。
ボクはその膨らんだお腹を見て立ち尽くした。少しの間霧の街を離れていたつもりだったが、こんなにお腹が大きくなるまで、ボクはヤレンをほったらかしにしていたのか。自責の念を感じて、ボクは拳を握りしめた。
動かないボクを見て、ヤレンは困ったように微笑んだ。
「どうしたの?そんなところで立っていないで、こっちにおいで。」
ボクは曖昧にうなづいて、ヤレンのベッドの上に腰を下ろした。ヤレンの手がボクの手の上にそっと重なった。
「ファセス一族だと言ってしまったんだってね。セラムから聞いたよ。」
「はい…。言ってしまいました。ヤレンは知っていたんですね。」
「もちろん知っていたよ。僕の国を亡ぼすと予言されていた一族の話は、父から昔話を聞くように聞かされていたからね。」
「やっぱり…」
ボクが苦々しく言うと、ヤレンが申し訳なさそうに目を伏せた。
「僕がもっと強く言うべきだった。あいつが気づいていないようだから、君を奪われることはないだろうと思っていたんだ。本当にごめん。」
そう言って頭を下げた。金髪がさらさらと肩から落ちる。ボクは首を振った。
「ヤレンのせいじゃない、これはボクの落ち度です。それにボクが竜殺しなら、必ず竜王を殺せるということですよ。いいことじゃないですか。だから、いいんです。これで、いいんです。」
ボクの言葉に、ヤレンは一瞬目を見張った。そして、「君は…」と小さくつぶやきかけたが、すぐに口をつくんでしまった。
なんとなく気まずい雰囲気が流れた。
ボクは話題を変えようと、ヤレンの大きなお腹をじっと見つめて口を開いた。
「ヤレン、その…触ってみてもいいですか?どんな感じなのか知りたくて…」
「ふふふ、いいよ。優しくね。運が良ければ君の手を蹴るかも。」
ボクはゆっくりと手を伸ばしてお腹に触った。はち切れんばかりぱんぱんに張った皮膚の感触に驚く。繭とも卵とも違う。この中に子どもが入っているのが信じられない。
すべすべとし皮膚には赤い亀裂がいくつも走っていた。身体を無理やり変形させて子の入れるスペースを作っているのか、とボクは恐ろしいような、神秘的で感動しているような、なんとも言いようのない感情に支配された。
ボクがおっかなびっくり触っている様子を、ヤレンがくすくすと声を出して笑った。
「そんなに恐る恐る触らなくても大丈夫だよ、ベオグラード。裂けたりしないからさ。」
「そうですね…。こんなに大きくなってヤレンは苦しくないんですか?」
「さすがに結構苦しいよ。内臓を始終圧迫されてるから、息も苦しいし、お腹もあまり空かないんだ。それに、この子、僕の内臓を蹴るもんだから、その度に吐きそうになるんだ。とんだ暴れん坊だよ。」
言葉とは裏腹にヤレンの声には、愛情が満ちていた。誰の子か分からないのに、ヤレンはお腹の子を愛している。
ボクはそれに気づいて、はっとした。そうだ。生まれてくる子どもに罪はない。
今までヤレンの命を脅かす存在としか認識していなかった。ボクは申し訳ない気持ちになって、心の中で「ごめんね」とつぶやいた。すると、お腹の中からぽこぽこと小さな足がボクの手を蹴った。
ボクがびくっと身体を震わせたのを見て、ヤレンが可笑しそうに笑った。
「蹴ったね。ふふ、君は運がいい。」
「とても驚きました…。こう言うのも変ですが、本当に人間が入っているんですね…」
「そうだよ。僕と同じ金色の髪をした赤ん坊がいるんだよ。どんな子かな、女の子かな、男の子かな、どんな目の色しているんだろう…なんて日がな一日考えていると、不思議とね、退屈しないんだ。面白いよね。我が子を待つなんて経験できないと思ってたから、ちょっと嬉しいんだよ。」
ヤレンが恥ずかしそうに笑った。
その言葉で過去が鮮明に脳裏に蘇った。初めて会った時、女性的なものを捨て、男性のような口調と振る舞いをしていたヤレンが、こんなことを口にするなんて想像できなかった。
ヤレンは身の毛がよだつような過去を克服し、己の感情に素直になったのだ。
その屈託の笑顔に、ボクは微笑まずにはいられなかった。
「良かった。ヤレンの笑顔を見て、ボクは何だかほっとしました。これで未練なく、ここを去れます。今まで本当にありがとうございました。さよなら、ヤレン。」
ボクがそう言って立ち上がると、ヤレンがボクの手を掴んで引き留めた。
「…だめだ!さよならなんて言わないでよ、ベオグラード!戻ったって、悲しい結末しか待っていないじゃないか!彼らは君を竜殺しなんて崇めているけど、あいつを殺せなかったら、君にすべての責任を押し付けて、君を殺してしまう…!それに、僕が子を産むまでという約束だったのに、これでは僕を差し出しても戦いが終わらないじゃないか…。今からでも遅くないから、戦争なんてせず、ずっとここいてよ…」
「それはできません。」
ボクがきっぱりとした口調で首を振ると、ヤレンの顔に絶望が広がった。
「なんで?なんでなんだ…」
「だって、僕は端からヤレンを差し出す気がないからです。ヤレンを守りたい。ジユルやイジュマ、セラムも守りたい。何もかも諦めきれないボクが、一番最初に諦められたのが、自分の命だっただけです。でも、ボクの命だけではやっぱり足りなくて、結局関係のない人々も巻き込んでしまいました。それは正直、後悔しています。」
「後悔しているのなら…」とヤレンがさらに強くボクの手を握った。
ボクはヤレンの手に己の手を重ねて、まっすぐヤレンの瞳を見た。
「だけど、何度も悩んで苦しんで後悔しても、ボクはヤレンを守れるなら、それでいいと思ったんです。ボクはヤレンが好きです。人として、家族として、とても好きです。ボクのエゴでしかないと分かっていても、本当なら死なずに済んだ命を犠牲にしても、ボクはこの道を進みます。」
「……僕はそんなの望んでないよ…。やめてよ、ベオグラード。迷惑だよ…。僕にそんな価値はないよ…。僕はただの死にかけた女で、それ以上でもそれ以下でもない。それに、僕はもうすぐ死ぬんだ。それが運命なんだよ…」
ヤレンの青い瞳が涙が溢れた。苦しそうに顔をしかめて泣いている。ボクはその涙を指で拭った。
「そんな運命、ボクが壊してみせます。それに、未来の事は誰にも分からないでしょ?ヤレンが子どもと幸せに暮らせる未来だって、きっとあります。ボクはそう信じています。」
ボクの言葉にヤレンが顔が歪んだ。
「君は…イズミルと…同じことを言うんだね…。本当に恐ろしい子だ…。僕は例え己が死んでもあいつを殺す人間を作っておきたかった…。そして、もう一つ、アドニを…アドニを救ってくれる人がほしかった…。ただ…それだけの願いだったのに…」
ヤレンはとめどなく流れる涙を拭いもせず、低く嗚咽を漏らしながら途切れ途切れに呟いた。
ボクは泣き続けるヤレンを黙って見ていた。ボクにはヤレンの涙を止めることができない。
ヤレンが涙で濡れた顔で、ボクを見た。
「僕は君に幸せになってほしいと思うんだ。当たり前のことを、当たり前に選ばせたい。もう遅いのは分かってる。取り返しのつかないところまで来ているのも理解している。それでも、ベオグラード。君はアドニが好きなんだろ?それなのに、僕なんかのために命をかけて本当にいいの?」
その質問に、ボクは心をえぐられるような痛みを感じた。身体の中が燃えるように痛い。今にも叫びだしそうなのを堪えて、ボクは無理して笑った。
「…その名前を出すのはずるいですよ…。確かに…ボクは…アドニが好きです。それは否定できません。」
「それなら…」
「だけど、ボクはあなたたちからもらった善意をなかったことにして、自分だけ幸せになることができないんです。それが、どうしても無理なんです。もっと我欲に忠実な人間だったら、こんなに悩むこともなかったのに…。笑っちゃいますね。」
ヤレンの口から悲鳴のような声が出た。
「僕は…父と母を殺したあいつに復讐したい、願わくばイズミルと共に生きていきたいと己の欲望に目がくらんで…君たちの未来を想像しなかった…。これが僕の行いに対する報いなんだね…。辛いよ…苦しいよ…。なんでだよ…。こんな結末はあんまりだ…」
ヤレンがボクの服に顔をうずめて、震える声で言った。ボクはそっと肩に手を回して、ヤレンを抱きしめた。
ボクにとって、ヤレンは姉とも母とも恋人とも違う。何にも代えがたい特別な人だ。
アドニを助けてくれた。
人としての在り方を教えてくれた。
そして、おそらくアドニが初めて愛した人。
その人を守りたいと思うのは、そんなにおかしいことだろうか?
前に、ヤレンがボクを「優しい子」と言った。
だけど、それは違う。ボクは優しいのではない。ボクがしていることは差別だ。
ただ、ヤレンのために生きているだけ。それだけなんだ。
泣き崩れるヤレンから、ボクはゆっくりと離れた。ボクを掴もうと弱々しく伸びた手をすり抜けて、ボクは背を向けた。
もしかしたら、今日がヤレンに会うのは最後の日になるかもしれない。離れがたい気持ちをぐっとこらえて、ボクは騎士の国に帰った。
*
春。
ボクは騎士王の率いる騎士2万と、草原で竜の国の兵士と睨み合っていた。竜の国はおそらく1万足らず。数だけで見れば、ボクたちが圧倒的に有利だ。
じわじわと両軍の距離が詰まっていく。先端がぶつかれば、いよいよ騎士の国も戦争状態に突入する。その先に待っているのは、ヤレンの言う悲しい結末だ。
だが、元から幸せな最後などなかったボクにとっては、そこまで悲観するようなことでなかった。元々、ボクの未来は殺すか、殺されるか、その2択だけなんだ。
ボクの目に、竜の国の宝石が映った。見たことのない男だった。
ボクはふうと息を吐いて、それから髪の紐をぐっと結んだ。そして、隣で馬にまたがり、ゆっくりと歩みを進める騎士王を見上げた。
「陛下。ボクが先陣をきります。よろしいでしょうか。」
「それは構わないが…大丈夫かね。」
「もちろんです。ボクは人形ですよ。」
「そうだったね。行ってきなさい。」
鎧兜の前を開き、騎士王がボクを見降ろした。ボクは頭を下げて、それから走り出した。ぐんぐんと加速し、あっという間に人の目では捉えきれないほどの速度になった。
そして、剣を抜き放ち、宝石の首に刃を走らせた。
一瞬の静寂。次の瞬間には、血が花のようにぱっと咲いた。
宝石のすぐ後ろに立っていた兵士が悲鳴を上げた。彼にはボクが瞬間移動してきたように見えたはずだ。
ボクは剣を振って血潮を落とすと、刃先を兵士に向けた。
動揺した竜の兵士たちが武器を持つ手に力を込めるのを感じた。ひりひりとした殺気。懐かしい緊張感に身体がカッと熱くなった。
途端、空を覆うほどの矢が出現し、ボクたちを殺そうと降り注いだ。ボクはゆっくりと目を閉じ、涙を流した。まるで、砂のように矢が消える。
「おおおおおお」と騎士が地響きのような叫び声をあげながら突っ込んできた。
ボクは柄を握り締めて走り出した。これからが本番だ。いかにして宝石を突破し、竜の王都を滅ぼすか。
それだけを考えて、目の前の命を殺した。
騎士の国との衝突が起こって数日後、周辺諸国もボクたちに続き、竜の国に攻撃を始めた。おそらく、竜の国の人間は誰も予想していなかったのだろう。あっという間に、戦争の火種が広がっていった。
1対10。
圧倒的な兵力の差に、竜の国は追い詰められて行くように見えた。だが、そんなに簡単に行くのであれば、ボクたちはとっくの昔に竜の国を亡ぼすことができていただろう。
ある日。
最前線でボクは今日も戦っていた。さすがに、連日の戦いで兵士たちに疲れが見える。だが、ボクの異様なまでの強さに、彼らはボクを戦いの神と讃え、ボクがいれば負けることがないと安心しきっているようだった。
ボクはその期待に応えようと、必死になって殺した。刃先は半日も経たず、ぼろぼろになった。身体にも疲労がたまっていた。でも、少しの休息を挟めば、また動くようになる。それに、宝石や人間はボクには遅すぎて相手にもならない。
いつものように宝石を殺そうと、刃を首に走らせた瞬間、何者かが急に現れてボクの剣を刀で受け止めた。思いもよらぬことに、ボクは一瞬動揺した。
その人物は、ボクを見てニヤッと笑った。
「夜、久しぶり!相変わらず辛気臭い面してるのかと思って期待してたのに、まあまあいい顔になってて心底むかつくんだけど…。なんかあった?」
「……あなたの顔に見覚えがあります。確か…秋でしたか?」
「お、名前覚えててくれてたんだねぇ。ちょっかい出し続けただけはあったっぽいね。」
あどけない顔をした栗毛の少年がニコッと笑って、ボクを見た。彼は人形だ。ボクは嫌な汗が流れた。
秋はボクの次に強く、父さんの手にも余るほど狂暴な子どもだった。今もボクをニコニコと見ているが、その目にはどんな風に痛めつけて殺してやろうかと、残忍な光が宿っていた。
ボクは刀をはじき返すと、秋から距離をとった。正直息があがっているし、何より全盛期に比べると速度が随分と落ちた。一方、秋は昔のままのように見える。昔はボクが圧倒的強かったが、今は互角か、若干ボクが劣るだろう。
ボクは息を整える時間を稼ぐために、秋に話し掛けた。
「驚きましたが、竜王が人形を買うかもしれないとは薄々思っていました。今回は秋だけですか?」
「うん、秋だけだよ。だって、夜の相手は秋だけで十分だからね。それに、他のところは宝石で十分でしょ。宝石ってとっても強いよね。秋、すっごく驚いた。本当は秋とどっちが強いか殺し合いしたかったんだけど、父さんに怒られるから我慢してるよ。えらいでしょ!」
「相変わらず戦闘狂ですね、あなた。」
「褒められちゃった、えへへ。敵の宝石なら殺していいって言われたんだけど…、宝石いないんだね。それでよく竜と戦おうと思ったよねぇ、笑っちゃう。」
クスクスと秋が愉快そうに声を立てた。ボクは、その通りだと思っていたので黙った。
秋が「あれ?」とボクの顔をじっと見つめた。
「怒るかなぁと思ったのに、つまんない奴。相変わらず、挑発には乗らないんだね。」
「挑発だと思いませんでした。そのくらいは言われ慣れているので。」
「ふーん、ま、いいや。それじゃあ、始めようか。息も整ったでしょ?せっかく戦うんだから、万全の状態で戦ってほしいんだよね。」
ボクはドキッとしたが、表面上は冷静さを保った。
「ええ、ありがとうございます。それでは始めましょう。」
秋が満面の笑みで突っ込んでくるのが見えた。ボクは剣を構え、大きく息を吐いて走り出した。
結果は互角だった。結局、日が沈むころに一時休戦となった。
秋の身体は切り傷だらけになっていたが、まだまだ余裕がありそうだった。一方、ボクは致命傷ではないが深い傷がいくつか入っていた。さらに、身体全体から血と汗が混じった嫌な臭いがした。
秋は身体が上下するほど荒く呼吸をしながら、途切れ途切れに言った。
「ここまで…秋と切り結べるのは…世界広しといえど…夜だけだろうね…。いやあ、とっても楽しかった…。ちょっと疲れたし…、また明日ね。」
ボクは応えることもできず、ただうなづいた。秋はふうと息を吐いて、よろよろと歩いて行った。
秋の姿が見えなくなったところで、ボクはしゃがみ込んで、地面に血を吐いた。
遠巻きに見ていた騎士がボクに肩を貸してくれたが、彼の目には失望が浮かんでいた。それが分かって、情けないやら苦しいやら、もうどうにかなってしまいそうだった。
これから、毎日秋が来る。正直、いっぱいいっぱいで、騎士たちを宝石から守ることができない。これではボクのいる意味がないと思った。
ぼろぼろのボクを騎士王は優しく出迎えてくれた。だが、彼の目にもある疑惑が浮かんでいた。
本当に、この少年は竜殺しなのか。
ボクはただうなだれた。
*
それから毎日秋は来た。
そして、その日を境にボクたちはじわじわと追い詰められていった。騎士の国だけではない。周辺諸国全体が少しずつ後退し始めていた。
理由は簡単だ。ボクが秋に勝てないからだ。
人間は単純な生き物で、圧倒的な切り札を手に入れたと思っている時は、恐ろしい怪物にも果敢に挑んでいくことができる。だが、切り札と思っていたものが、実はたいしたことがないと気づくと尻込みし始める。
ボクは対宝石には役に立つが、人形相手になるとまったく役に立たなかった。ただ、秋の相手をして喜ばせるだけの存在。
ボクを見る騎士の目がだんだんと冷たくてなっていった。そして、それを感じて、徐々に表情が消えていった。
人形の時のように無表情まま、朝起きて秋と戦い眠る。その繰り返しだった。
救いなのは、騎士王が完全にボクを見離さなかったことだけだ。
また、いつもの戦いが終わり、よろよろと血生臭い身体を引きずって、小川に血を流しに行った。もはや、誰一人、ボクに手を貸すものはいない。
ボクは小川の辺にしゃがみ、血の付いた身体を洗った。冷たい水が容赦なく傷にしみて痛くて仕方がないのをぐっとこらえる。その水面に映ったボクの顔は無表情のままだった。
「おい!ベオグラード!」
急に名前を呼ばれて、ボクははっとして顔を上げた。名前を呼ばれるのが久しぶり過ぎて、誰がボクを呼んだのだろうと辺りを見まわすと、対岸にジユルとセラムが立っていた。
その姿を見た瞬間、心臓が激しく脈打ち、熱い血が身体に広がっていた。冷え切っていた手先が、顔が熱くなっていく。ボクは声も出せず、口を半開きにして、川を越えてボクの方に歩いてくる2人を見ていた。
近づくにつれ、ジユルの目が泣き腫らしたように腫れており、セラムの顔も沈んでいることに気づいた。何かが起こった。それは、どうやらよくないことのようだ。
ボクの前まで来ると、2人は黙ったまま、ボクを見つめた。そして、セラムが話せよというように、ジユルを肱で小突いた。
ジユルが分かっていると言うようにセラムを睨み、それからボクの方を見て口を開いた。
「久しぶり…、ベオグラード。その…実は伝えることがあって、今日来たんだ…。」
「はい…、なんでしょうか。」
「その…あのな…ヤレンさんの子どもが…生まれた。元気な女の子だよ。」
その言葉に、思わず顔がほころんだ。本音を言えば、出産も立ち会いたかったが、それでも生まれたと知って嬉しかった。
「本当ですか!良かった…。名前は何と言うんですか?」
「…レナ。レナ・ブライトだよ。」
「レナ…。いい名前ですね。」
ヤレンの本名に似ているという言葉を飲み込んだ。ヤレンはヤナ・ブライト。そして、娘はレナ・ブライト。こうやって名と血が受け継がれていくのか…。
ボクは沸き立つような感動で、泣いてしまいそうなのを堪えた。
「それで、ヤレンは元気ですか?」
ボクの言葉にジユルの顔が強張った。その表情を見た途端、血の気が引いて行った。
ジユルがぐっと目を閉じて俯きながら、震えた声で言った。
「ヤレンさんは…ヤレンさんは…死んだよ…」
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