第21話 頑張りたい

<弥島心(やじま しん)視点>


 勉強道具を大急ぎでカバンの中にしまって、陽菜さんと二人で図書館の玄関を飛び出す。ギラギラとした太陽の光が眩しい。振り向くと図書館の窓の奥で必死になって勉強している沢山の受験生。二人で顔を見合わせる。


 降り注ぐ初夏の日差しが、陽菜さんの黒くて艶々した髪に天使の輪を作っている。ふわりと揺らぐ髪に光の子供達が戯れる。白くて小っちゃくてツルツルした陽菜さんの顔。長い睫毛とまんまるの瞳。僕に差し向けられた笑顔。なんて素敵なんだ。


「陽菜さん。行こっか」


 気持ちに追い立てられるかのように左手が出た。陽菜さんの手がスッと伸びてきて僕の手を取った。細いのに柔らかな手が僕の指を絡めとる。


「陽菜って呼んで。私もこれからは心って呼ぶから」


 恥ずかしそうにして陽菜さんは、僕の顔を見ずに前を向いて走り出した。


 電車を乗り継ぎ、僕達は海にきた。車内で色々なことを話した。互いの家族のこととか、趣味とか。陽菜さんはピアノを真剣に学びたいから音大に通うのが夢だと語った。初めて人に話すと笑った。そして恥ずかしそうに内緒だと付け加えた。


 将来の目標なんてまるで考えていなかった僕は、正直少し陽菜さんが大人に見えた。僕達は少しずつ大人になっていく。まだまだ中三。でも、もう中三。来年には高校生だ。


 海水浴シーズンにはまだ早く、海はガラガラだった。海の家は閉まっているし、賑やかな家族連れもいない。二人っきりの浜辺。


 僕達は靴を持って裸足で砂浜を歩く。海水に濡れた砂がひんやりと心地いい。陽の光を受けてキラキラと輝く海。波の音が耳をさらっていく。


「ねっ。心」


 急に真顔になった陽菜さんが立ち止まって僕を見つめる。呼び捨てで呼ばれると何だか気恥ずかしい。まして陽菜さんを呼び捨てで呼ばなきゃいけないなんて・・・。でも、勇気を出す。水平線の向こうから吹いてきた潮風が僕の心を後押しする。


「何?陽菜」


「ふふっ。名前だけで呼ばれるのは小学校以来かも。何か嬉しい」


 ふと、初音と和樹のことを思い出す。幼なじみの二人は、いつも僕のことを呼び捨てだ。だから何の疑問もなく僕もずっと呼び捨てにしている。


「あのね。心は初音ちゃんと和樹くんが付き合い始めたって知ってる?」


 陽菜さんの突然の質問に心が激しく高鳴る。


「えっ。陽菜さん。知ってたんだ」


「さん付けに戻っているよ。心」


「ごめん」


「お似合いだよね。和樹くんと初音ちゃん」


「・・・」


「あれっ。浮かない顔して。心は初音ちゃんのことが好きだったのかなー」


 意地悪そうに笑って、陽菜さんの手がスッと伸びてくる。僕の鼻をギュッとつまむ。・・・?


「そんなこと・・・」


「私ね。和樹くんが初音ちゃんと付き合い始めたって知った瞬間、正直裏切られた気がした。でも、何でだろ。その後、すぐにホッとした」


 陽菜さん・・・。


「でねー。不思議なんだ。二人、お似合いだなーって応援したくなった。初恋がかなわなかったのに変だよね。私、人を好きになるってことを知らなかったんだなーって思った。憧れることが人を好きになることだって思っていた。よく考えたら、私、和樹くんのことを全然知らないんだもの」


「僕だって、陽菜・・・のこと知らずにずっと憧れてるけど」


「よしよし、ちゃんと陽菜のことを呼んでくれた。でも、まだぎこちないかな。私ね、和樹くんと初音ちゃんが付き合いだしたから、やけになって心と海に来たわけじゃないよ。最初はね、心を利用してでも和樹くんに近づきたかった。中三だから、みんなと過ごす最後の年だから。自分の気持ちをちゃんと見届けたかった。でもね。そうじゃないと分かったの」


「・・・」


「心はね。とっても優しい。自己評価が低すぎるけど頑張り屋さん。こんなズルな私なんかのためにずっと頑張ってくれてる。私、心といると落ち着くんだ。心がほわってなる。本当にズルいよね、私。私のこと好きって言ってくれた心に甘えてた。ふっておきながら、頑張れなんて言うのは無責任で無茶苦茶だよね」


 そう言って陽菜さんはうつむいた。陽菜さんの真っ白な足がそっと砂を蹴っている。僕の心臓は生まれてから最大級の鼓動を奏でている。勇気を出せと!


「でも、僕は好きでやってるわけだし、一緒に勉強するのはすごく楽しい。陽菜のことを一つ知るたびにどんどん好きになる。陽菜は僕の・・・。その・・・。天使だ」


「・・・」


 うつむいた陽菜さんの目から涙が零れ落ちる。透明な滴は彼女の脚元の砂に小さな後を残した。


 陽菜さん、ゴメン。僕なんかが、こんなことを言ったら困るよね。でも・・・。言わずにはいられない。


「初音のことはたぶん好きだと思う。和樹と付き合うと知って、何故だか涙が止まらなかった。保育園からの腐れ縁だと思っていたけど、初めて気づいた。でも、陽菜のことが好きと言う気持ちとは全然違う。僕は陽菜だから頑張れる。前を向いて行ける。うん。僕は陽菜が大好きだ」


「心、ありがとう。なんか、涙が止まらない。私も心の為に頑張りたい。心の為に・・・」


 そう言って、陽菜さんは僕の顔を真っすぐ見つめてきた。初めて見る陽菜さんの泣き顔。涙で潤んだ瞳に吸い込まれそうだ。


 僕を見据えたまま陽菜さんが近づいてくる。顔と顔との距離が三十センチを切り、二十センチを切り・・・。それでも彼女は止まらない。つま先立ちになって近づいてくる。


 十五センチ。


 十センチ。


 七センチ。


 五センチ。


 彼女の瞳がゆっくりと閉じていく。


 僕の唇にふわりとした柔らかなものがそっと触れた。いちご大福ともマシュマロとも違うそれ。いつの間にか、僕の手が勝手に伸びで陽菜さんをギュッと抱き止めていた。


 時間が静止して、潮騒の音だけがゆっくりと鳴り響いた。

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