第16話 嬉しくて顔がにやけてしまう。
<木崎初音(きざき はつね)視点>
初音は、弥島心(やじま しん)の立っていた場所を見つめる。心か顔を伏せていたと思える布団の上に手を滑らす。表面が濡れて湿っぽい。心の涙がしみ込んでいる。
心・・・。
初音の心(こころ)はギシギシときしんだ。何だろう。この感覚。甘いのにせつない。嬉しいのに苦しい。
「まだ、間に合うよ。あんたのベッドの、すぐ横のカーテンを引いてごらん」
お婆ちゃんの言葉に従って左手で、カーテンをつまんで引いた。青々と茂った芝生が目に飛び込んでくる。生命の力がみなぎっている。芝生の間を縫う様に細い小道が続いている。
「病院の玄関を出て、バス停に向かう人は、必ずそこの通路を通るから。見張っていなさい」
私は、心が通らないか首を左右にふって探した。
「あんたの元気な声なら窓を開ければ、きっと届くよ」
お婆ちゃんが応援してくれる。私は窓を半分ほど開いて、心が通るのを待った。何だか恥ずかしい。何て声を掛けよう。
心!ゴメンなさい。ちょっと言い過ぎました。初音が悪かったんです。戻ってきてください。
・・・初音じゃないみたいだ。キモイ!てか、なんかムカつく。
おーい。心!悪かったよ。ゴメンなー。戻ってきなよー!
・・・良い感じだ。でも、軽すぎない?てか、ここで謝るのはどうなんだろう。心に謝る姿を、病院のみんなにさらす必要はない。
おーい。心ー!頼み忘れたことがあるから戻ってきてー。
・・・うん。これだ。これなら自然だ。頼まれたら断れない性格の心なら、お預けをくらった犬が許可をもらったみたいに喜んで戻ってくるだろう。
イェーイ!都合よく心が出てきた。初音は心に向かって叫ぶために、空気を深く吸った。
「おっ・・・」
呼びかけようとして、慌てて言葉を飲み込んだ。あれっ。心の後ろから、誰がついてくる。見慣れた制服は、前原陽菜(まえはら ひな)ちゃんだった。
うっそっ。陽菜ちゃん、いつ来たの?
それとも、心が陽菜ちゃんを病室の外で待たせていた・・・?
そんなはずがない・・・。
心はずっと初音の側にいた。もう一度、濡れた布団に手を伸ばす。心の涙のあとを感じる。きっと、後から見舞いに来た陽菜ちゃんとばったり出会って。心が陽菜ちゃんを引き止めたのだ。
今ならまだ間に合う。心を呼び止められる。窓の外をトボトボと歩く心と陽菜ちゃんの後姿が遠ざかっていく。でも、なぜか声を掛けられない。
「おや。まだ来ないかね。そろそろ通っても、良いろこなんだけどねー」
お婆ちゃんのベッドからは外が見えない。心配そうな顔をして声を掛けてきた。
「バス停じゃない方から帰ったみたい」
初音はお婆ちゃんに思わず嘘をついて、半開きの窓を閉めた。何でだろう。心臓に手をあててみる。心(こころ)が張り裂けそうだ。ただ苦しい。甘くも嬉しくもない。
三十分くらいたっただろうか。思考が滞(とどこお)ったまま、しばらく茫然(ぼうぜん)としていた。あの胸の痛みは何だったんだろう。幼なじみのドンくさい心と、学年でトップレベルと名高い美少女、前原陽菜ちゃん。正直、まるでつり合っていない。
てか、美女と野獣ならまだしも美女とモグラ?住む世界が違い過ぎて、そこに関係性があってはならないはずだ。そんな話は、物語の世界だけにしか許されない。それなのに・・・。
えっ!初音は、陽菜ちゃんに嫉妬しているの?相手は心だぞ。でも・・・。心は陽菜ちゃんが好きだ。でなきゃ、勉強を教え合ったりはしない。心は相当に頑張ったはずだ。テストの結果をみれば分かる。
初音は幼なじみの心を祝福すべきではないのか。心とは思えない頑張りようだ。二人が上手くいくことを応援すべきじゃないのか。初音は心に幸せになって欲しい。それは初音が心を『愛している』からだ。
思わず首を左右にふった。だって心だよ!いかん。骨折したことで気弱になっている。きっとそうだ。血迷うな!木崎初音。これは『愛』なんかじゃない。
「よっ!大丈夫か?真っ赤な顔をして」
「うわわわわわ」
遠藤和樹(えんどう かずき)くんが・・・。夢じゃない!あうっ。オシッコの袋。まだ見つかっていない。隠さなきゃ―。慌てて掛け布団をずらす。
「かっ、和樹くん。窓側に回ってくれる!」
「ああ。こっちの椅子のある方で良いけど」
「あっ。そっちはダメなんだ。ほっ、ほら。私、右側の角度の方が美人に見えるから」
「えっ。初耳だけど」
「いやっ、その。この間、占い師にそう言われた」
「そうなの」
こんな田舎街に占いなんているはずがない。完全に思考が混乱(パニック)している。それでも、和樹くんは気付いていない。初音は和樹くんを窓際に立たすことに成功した。
あの角度ならオシッコの袋に気づかれる心配はない。しかも、特典付き。窓から差し込む光を背にした遠藤和樹くん!後光を発する仏像より美しい。
「和樹くん。来てくれたんだ」
嬉しくて顔がにやけてしまう。
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