第8話 心くん、数学を教えてくれる。

<前原陽菜(まえはら ひな)視点>


 教室に戻ると、いつも通りの授業が始まる。そう、私たちは受験生。勉強を疎(おろ)かにはできない。六時間目が終わるまでは勉強に集中しなきゃ。私は黒板をノートに書き写し、教科書にチェックを入れた。


「ふう。やっと終わったね」


 授業が終わると同時に振り向いた。後ろに座る心くんの顔を覗き込んだ。


「あっ。うん」


 慌てふためく男の子ってけっこうかわいい。特に心くんって母性本能をくすぐる。子犬みたいだ。誰もいなかったら顔を胸に押し付けて、むぎゅーって抱きしめたくなる。


「私、これから、体育館で新一年生歓迎会のピアノを練習をするんだけど、手伝ってくれないかなー」


 私は手を合わせて頼んだ。


「お願い!」


「うん。良いけど」


「良かったー。あんな広いところで、一人でピアノを練習をするのはちょっと気恥ずかしかったんだよね」


 私たちはカバンを持って体育館へと向かった。いつもは運動部で賑わっている体育館に今日は誰もいなかった。各部とも新一年生の獲得に向けて部室で作りものをする日だった。


 誰もいない体育館は静まり返っている。なんかちょっと怖い。こんな広い空間に私は心くんと二人っきり。本当は和樹くんも誘いたかったけど、さそったら恥ずかしくて練習にならない。


 二人で壇上に上がってグランドピアノをセッティングをする。心くんは響板を立てたり、角度を調整したり。椅子を出してくれたりとまめまめしく働いてくれる。やっぱり男の子がいるとはかどる。


 壇上から体育館全体を見渡す。小学校の時までピアノ教室に通っていたので慣れていたつもりでも、久しぶりだとけっこう緊張する。手が震える。鍵盤に指をのせて幾つかの音を出してみる。大丈夫。いける。


「聴いていてくれる」


「うん」


 私は昔習った課題曲を弾いてみた。段々と指の感覚が戻ってくる。やれそうだ。思ったよりも体が覚えている。心くんは私が奏でるピアノの曲を、リズムに合わせて首を上下に動かしながら真剣に聞いてくれている。


 私は心くん横顔を見つめながら鍵盤をたたいた。二人っきりの体育館にゆっくりしたメロディーが響きわたっていく。軽快なリズムを経てラストに向かう激しいテンポへ。気持ちも高まっていく。


 ふうっ。何とか弾き終えた。指先から力が抜けていく。私を見て心くんが言った。


「陽菜さん。すごい!何か、胸が熱くなった」


「ふふっ。ありがとう」


 同じ練習でも聞いてくれる人が一人でもいると全然違う。真剣になれる。私は調子に乗って、続けてもう一曲弾いた。心くんは素直に感動してくれる。何か、彼の前だと飾らずにリラックスしてピアノに集中できる。指先がスムースに動いた。


「心くんってさ。不思議だよね」


「えっ?」


「私ね。他人の前だと緊張してうまく話せなくなるんだ。でも、心くんとだとすらすら言葉が出てくるんだよね」


「うん・・・」


「何でだろう」


「・・・」


「心くん。多分、気付いていると思うけど、私ね。遠藤和樹(えんどう かずき)くんの事が昔っから好きなんだ」


「そうじゃないかなと思ってた」


「今日は、お昼に誘ってくれてありがとう」


「うん」


「楽しかったー。多分、今まで生きてきた中で一番かも」


「うん。僕も。楽しかった・・・」


 沈黙の後、心くんが私の顔を真っ直ぐに見つめて言った。


「僕もずっと陽菜さんのことが好きでした」


「心くん・・・」


「ゴメン!驚かして。陽菜さんは美人だし、僕なんかとはつり合わないのも知っている。迷惑だよね・・・」


「迷惑なんかじゃ・・・。ありがとう。うれしいよ」


 心くんの気持ちを思うと泣きたくなっちゃう。私は嫌な女の子だ。ずっと心くんの気持ちをもて遊んできた。やな奴。それが私。


「スッキリした。このまま卒業までグジグジした気持ちで過ごすのかと思っていた。はっきり気持ちを伝えられて良かった。陽菜さんと和樹とならお似合いだと思う。陽菜さんが幸せになれるんなら僕は陽菜さんを応援しないとだね」


 心くん・・・。強がっているけど両手が震えている。私は心くんの手を引いて引き寄せた。うつむいて黙って従う心くん。なんか、ちっちゃく感じる。心くんの頭を両手で抱える。あったかい。


 心くんを見上げる。今にも泣き出しそうな顔をしている。男の子なのに・・・。


「あきらめないで頑張ってみたら。私、和樹くんが好きだけど、心くんも嫌いじゃないよ」


「頑張ってもいいの?」


「うん。好きな人と結ばれるのと、好きでいてくれる人と結ばれるのってどっちが幸せなんだろうね」


「・・・」


「和樹くんはイケメンなのに性格もいいし、勉強もスポーツもできるから恋人になれたらいいなーって、ずっと思ってたけど。何でだろ。心くんといると素直になれるんだよ。私、嫌な女の子でしょ。ズルい女なんだ」


 私は本当にズルい女だ。一途な心くんを見ていると自分が恥ずかしい。こんな嫌な女の子をずっと好きでいてくれたなんて。


「そんなこと・・・。じゃあ、好きでいてもいいんだね。僕、陽菜さんに相応しい男の子になるように頑張るから」


「私も好きでいてもらえるように頑張んなきゃ。とりあえず、バカを克服してちゃんとした高校に行かないと・・・。心くん、数学を教えてくれる」

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