4:理想の展開

 中空を、どこまで落ちるのだろうか。

 考えてみれば、中学時代のあの日に怯んだ状況だ。

 けれども、いまは微塵も死がよぎることなく、ただただ、彼女の離れていく姿に、心臓を掴まれてしまう。

 長く感じたのだが、いずれ終わりは訪れて、

「臼杵君!」

 グラウンドの固い土に衝突する直前に、大白納さんの想像以上に厚い胸板に受け止められることで、停止した。

 男二人は衝撃を分かち合って、息を詰め、グラウンド上にうずくまる。

「あ、ありがとうございます、大白納さん」

 呼吸を整えながら礼を言うと、命の恩人は横たわったままサムズアップを返してくれた。

 明らかに、俺よりダメージが大きいのだが、申し訳ないが構っている余裕はない。

 なにが。

 どうして。

 どうすればいい。

 解答を得るには、自分の手に何も握られていないことを自覚しているし、だから焦りが心にも、きっと瞳にも浮かんでいるのだろうし、

「くそっ」

 自然にこぼした声にも混じっていた。

 何もできないから、わずかずつに上昇を始める二人の姿を、伏したまま見上げるしかない。

「想定されうる状況の一つではあった」

 怒り、絶望、疑問に涙の色がついて歪んでいく光景に、真冬の北風みたいな声が振り下ろされた。

 気づけば、木花さんが視界に入り込んで見下ろしている。

 フレームの異様に太い眼鏡越しの瞳は相変わらず綺麗で、しかしどことなく沈んでもいるようで。

「不定形で姿を自在に変えられる彼女は、個体の生物的情報をも自在にできるんだ」

「?」

「キスを、ねだられなかったかい?」

 首を縦に振る。

 思い出すまでもなく、あの日、彼女全てを知った夜に。

 落胆だろうか。木花さんの肩は、少し落ちたように見える。

「唾液から、君の情報を吸い出したんだろう。体を復元させる際に、生体情報を君のものとして再構成したんだろうな」

「それは、どういう意味が……」

 わからない。

 ここまで頭がぐちゃぐちゃじゃなければ、察することぐらいできたのだろうか。

 わからない、わからない!

「彼女『石長・穂希』は、君『臼杵・翔太』となって、未来から訪れた『石長・穂希』の渇望を満たしてやるんだ。

 その余禄で、世界は救われ、君は助かる」

 は? と、やはり理解ができなくて、間抜け面を晒していると、

「いやはや、痛い目にはあったけど理想の展開じゃないですか。誰も死なないんだ」

 背後で、大白納さんの声。立ち上がれるほど、すでに回復したようだ。

 彼の上司は眼鏡をかけなおすと、瞳に見えていた沈みを消し、そうだな、と応えて、

「誰も死なない。誰『一人』死ぬことはない」

 それから、あからさまに俺へ視線をよこして、

「ここまで都合の良い彼女とは、思いもよらなかったよ」


      ※


 大白納さんの言い草に引っかかるものはあったが、決め手は木花さんの言葉だった。

 風が髪を揺らすさざめきすら血管がブチ切れる音と錯覚するほどに、頭に血が上る。

「ああ……あの二人、ゆっくり上がっていきますねぇ」

 のんきな男の声すら、怒りを煽ってくるから、握れもしないグラウンドの固い土に爪を立ててしまう。

「割れ目まで帰っていくんだろうが、さて、どれだけ時間がかかるものやら」

「時間によっちゃあ、大規模な認識阻害がまた必要ですねぇ」

 終わったもののように、二人は話している。

 すでに、視線は俺から外されて、無害となった『破滅』の姿に注がれている。

「それじゃあ、拠点の引き払いやらの手続きを進めておきましょうか」

「ワーカーホリックなのかな、大白納君は」

「そんな言い方やめてくださいよ」

 にこやかが過ぎるだろう。

 誰も死なない?

 誰『一人』死なない?

 じゃあ、彼女は、俺の恋人は、どうして空の上にいるんだ?

「ついでに病院の手配もしておきますよ」

 ふざけるな。

「そうだな。必要かもしれない」

 ふざけるな。

「報告書が楽でいいですね、こんか……」

「ふざけるな!」

 肺どころか、胃からすらすべての空気を絞り出した声が、緩んでいた初夏の風を切り裂いて、状況が開いた。


     ※


「ふざけるなよ! 良かった⁉ 誰も死なない⁉ 彼女は人間じゃないから『一人』には入らないって⁉ 

 じゃあ石長さんはどうなるってんだ! 『死ぬ』んじゃなきゃ、なんだってんだ!」

 叫びが空に呑まれきって静けさが顔を覗かせるまで、大人二人は声を出さない。

 大白納さんはバツの悪そうな顔で上司に目を送り、応じて振り返った木花さんは、

「なら、どうするんだい? 臼杵くん?」

 いつもの嗤うというのに相応しい顔をしていた。

 彼女は眼鏡をかけなおして俺に向きなおると、

「何か、できることはあるのかい?」

 問いかけ、

「それに二人はもう、あんな高いところにいるぞ?」

 指摘する。

 確かに、すでに校舎三階より高いところにいて、止まることはない。

 けれど、胸に渦巻く理不尽への憤慨が煙のように消えるわけもなく、

「それじゃあ! なら、指をくわえて見てろっていうのかよ!」

 もう一度、空気を割いて叫び訴えると、

「あ、臼杵君!」

 四つ這いの姿勢から、一気に走る姿勢にもっていく。

 クラウチングスタートなんか碌に練習していないけれども、辿り着かなければならない場所があるんだ。

 何もかも捨て置いて、俺は走り出す。

 彼女『たち』に至るために。

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