第四章:都合の良すぎる彼女たちの秘密

1:結び目は固く

 その日が来ることは、石長さんと唇を交わしたあの日からわかっていたことだった。

 だから、日曜の朝一から携帯電話で呼び出された時に、驚きもなく、手抜きの朝食をいつも通りに平らげた。

 覚悟が、ちゃんと結ばれていたんだと思う。

 好きな人のためなら、どこまでだって好意を積み重ねられる。

 顔を洗って、鏡で見慣れた顔を見つめながら、タオルを探す。

 少し、いつもより目元がきついだろうか。

 まあ、リラックスとはいかないだろうさ。

 けれども、自分の役割は、誰かに代わってもらえるものでないらしいし、何よりも誰よりも、おそらく自分よりも、石長さんを助けたい。

 大丈夫さ、と頷いて、タオルで濡れた頬を撫でまわす。

 息をついたところで、携帯電話が着信を教えてくれた。

 ああ、と鳴らすままにして玄関に向かうと、お気に入りのスニーカーに足を通す。

 毎日ロードワークに付き合ってくれてきた、現相棒。

 今日という日が来たのなら、通学用やましてお出かけ用のおしゃれな奴らじゃあなくて、こいつと一緒だと決めていたんだ。

 靴紐を結び終わるころには、携帯電話は歌うことをやめていた。

 明り取りからこぼれる朝日に、今日の熱気を確かめながら、ドアを開く。

 相変わらずの黒背広姿な二人に、小さな会釈で朝の挨拶とすると、やはり小さな会釈を返されて、横付けされていた車のドアが開かれた。

 招かれるまま、俺は乗り込む。

 一度、空に横たわるひび割れを見上げて。

 この命と引き換えて、世界……いや彼女を救うために。


      ※


「気分はどうだい、臼杵くん」

 後部座席に並んで腰かけた木花さんは、懐から取り出したジャムパンを頬張りながら、こっちに目線を投げてよこす。

 日曜の割と早い時間帯なので、車は指を折って数えられるほどしか視界には入ってこないから、爽やかではある。

 それ以上に、心が高揚していたから、

「わりと最高ですけど、モグモグしながら話しかけられて急降下ですよ」

「そうか。なら君も食べるかい?」

 なんでタイトスーツの懐から、今度はアンパンが出てくるんですかね。

 人肌のアンパンとかテンション下げかねないブツは丁寧にお断りして、

「大白納さんに差し上げたらどうです」

「彼は食欲がないそうでね」

 運転席の後ろ姿が首を振って、

「子供を犠牲にするなんて朝に、食欲なんてありませんよ。だいたい、碌々眠れてもいない」

 おや、と頭をかしげて木花さんに視線を返せば、空になったジャムパンの包みを折り畳みながら嗤っていた。

 まあ、言うまでもなくわかっていることなんだ。

 正常なのは大白納さんで、こっちのクソダサ眼鏡女がイカレていることなんて。

 けれども、今更それを言ったって覆るものなんかないのだから、俺の心情はイカレ側にいる。

「大白納君、他に手はないことを何度も確認したろう」

「わかってますよ。だけど、納得するかは別問題でしょう」

「それはそうだ。君の信条やら気持ちを否定するわけじゃない。だからこそ、表に出すべき言葉は考えるべきじゃあないかい?」

 当の本人の目の前なんだ、という言葉を添えると、大白納さんは肩を落としてそれ以上は口をつぐんだ。

 しばらく、車は言葉のないまま走り続けて、誰もいない赤信号につかまる。

 木花さんはアンパンの処理にかかり始めて、手持ち無沙汰な俺は少し悩んだけれども、些細な疑問を口にした。

「彼女……石長さんは、どうしてるんです?」

「どうもうこうも、下半身が潰れたのを見ただろう。無論、アレで致命となるわけではないが、失われた体積もあるし再構成には時間がかかる」

 今はあの喫茶店で休んでいるよ、と事もなげに告げた。

 石長さんは『不定形で姿を自在に変えられる』存在なのだと、あの日のあの後に説明された。それで、俺の完全な理想の、さもすれば都合の良すぎる姿をとれたのだと。

 しかしな、と彼女が突然笑うものだから、むっとして反射的に理由を問えば、

「臼杵くんが、これっぽっちも石長・穂希に疑いを持っていなかったとはね」


      ※


「え?」

 唐突に何を言い出すんだ。

 あんたらから示唆されて、さらに俺を庇った姿を見るまでは、一切合切、相対性理論を信じるかの如く疑いなんかなかったわけだけども。

 アンパンに噛り付く木花さんに眉を上げて不審をアピールすると、彼女も横目で同じように眉を上げて見せる。

 いや、そんな可愛い仕草は求めてなくて、疑問に答えてほしいんだけど。

 ふむ、と頷いて、座席に転がしていた紙パックのカフェオレを手に取りながら、

「食事、しているとこを見たことあるかい?」

 ……ん?

「石長・穂希が、何かを口にしていたのを見たことがあるか、と聞いているんだよ」

「そりゃあ毎日、一緒にお昼を食べていたし、なんならお店で紅茶も……」

 待てよ、と記憶を掘り返す。

 自分と、彼女と、食べ物が一堂に会する機会は多々あったが、はて、それらが彼女の小さな口に消えていた様子を一度でも見た記憶があるだろうか。

 手渡した紅茶のペットボトルも、未開封のままだったようだし。

「当初の体積で変異を確定させていてね。体内に異物が入って体積が増えると、変異が不安定になってしまうんだ。だから食事はできなかったんだよ」

 手についた餡を舐めとりながら、

「君の理想通りの彼女でいるためにね」

 ……本当に、都合が良すぎるよ、石長さんは。

 申し訳なくて、ありがたくて、

「ありがとうございます」

「なにがだい」

「覚悟の結び目がね、少し固くなった気がしますよ」

 なによりだ、と木花さんは『笑顔』を見せてカフェオレに口を付ける。

 そんな横顔がなんだか、焦れるように、寂し気な、柔らかそうで、かといって色味はなく。

 まだまだガキで、持ち合わせる言葉の少ない俺には到底言葉にできない表情をしていた。

 いつかわかる日がくるのだろうか、なんて心の中でうそぶいてから気がつく。

 明日のことを考えるとか、決意が緩んでいるじゃないか。

 思わず笑ってしまったところで、車は赤信号から解放され、走り始めたのだった。

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