4:『のようなもの』

 網膜に張り付いた白みが、少しずつ夜闇に剥がされていった。

 立ち眩みの時のように、じんわりと背中に熱がこもって、思考と五感が緩やかに取り戻されていく。

 まずは、二の腕を掴む、震える指先。

 それから、夜風に揺れる木々のざわめき。

 最後に、眼前の極太メガネフレーム女子だ。

「約束通り、対価は用意した。まあ、完璧な恋人『のようなもの』ではあるがね」

 この時、俺の頭はまだぼんやりとしていて、紛い物の対価とか詐欺じゃないかな、なんて感想を頭の中だけでこぼす。 

 だいたい、突然に突き付けられた間違いのない真実群にかなり混乱しているんだ。

 犠牲ってのは、自分のこと。

 対価ってのは、石長さん。

 破滅ってのは、未来からきていて。

 その目的は、何かを取り戻すために、過去を書き換えている。

 目的を果たすまででたらめに書き換え続けるから、世界が滅ぶ。

 あと、目の前の二人は状況を完全に理解していて、喫茶店で俺に対して行った説明は完全に嘘だった、てこともわかった。

「認識を操作していても、記憶経験がゼロになるわけじゃないからね。なんとなく、俺の言葉に嘘を感じていたんじゃあないかな。そうじゃなかったら、まあさっきみたいな結論には至らないと思うんだよ」

「大白納君は嘘が下手だからな。認識阻害とか関係ないんじゃないか」

「……否定はしないし、子供相手に嘘が上手くなることを誇りたくもないですよ、俺」

 木花さんのずっと後ろ、半分茂みに隠れたままの大白納さんが、心底申し訳なさそうにこちらを見つめながら肩を落としていた。

 いい人だな、大白納さんは。だからこそ、目の前のやべー奴に振り回されている姿をよく見るのだろうけども。

 とにかく、状況の確認を重ねることで、思考と記憶が現実に追いつき始めていた。

「完璧な恋人『のようなもの』ってのはどういう意味です」

 最初の言葉に噛みつける程度には。



 どういう意味も、と木花さんは首をかしげて、

「恋人が欲しいと言われて、はいそうですかと君の理想通りの少女を連れてくるなんて、可能だと思うかい?」

 そりゃまあ、あんた方の組織規模が良くわからんからなんとも言えないけれども、普通に考えたら無理かな。

 ……じゃあ、この二の腕を柔らかく掴んでいる小さな手の持ち主は、何者だ?

 沸き立つ疑問に押しやられて、軽く振り返って石長さんの顔を確かめる。

 怪談よろしく化物にでも変わっているのかもと心はビクついたが、目に入ったのは相変わらず俺には過ぎたるほどに可愛らしい、恋人のおびえる顔。

 どっからどう見ても、ちょっと地味目ながら普通の美少女にしか見えないのだけども、

「我々の組織は、まあいろいろな『世界の平和を破壊する』ものを解決してきていてね、彼女はその成果物の一つなんだよ」

 内容は割愛するが、と眼鏡をかけなおして、

「その子は人間じゃない」

 だから、と続けて、

「人を一人犠牲にして、という『人』に含まれないんだよ」

「……彼女は、犠牲にならない?」

 つまり、これが例外的な措置に見えていてた理由なのか?

「まだ信じられないのかい? それなら……」

 それ以上の言葉は耳に届かなかった。

 なるべく平静を保っているつもりではあったのだけれども、当惑、困惑、不信、驚愕によって精神の均衡は相当に乱れていたようだ。

 疲労もあってか太ももがパンパンで、とどめは、

「あ、の、臼杵くん」

 こちらの腕を引く、怯える恋人の声。

 つい姿勢を変えようと踵を返したところで、

「あ」

 足を滑らしてしまった。


      ※


 風景が、月の微笑む夜空から切り立った斜面へ、またその逆へと目まぐるしく入れ替わる。

 まるで新しいタイプのプラネタリウムだな、なんて感想を漏らしながら、斜面を勢いよく滑落していく。

 そのうちに、これまでとは比較にならない衝撃が体に跳ねて、数度のバウンドを最後に回転も止まった。

 地面に叩きつけられたのだ。

 伏せるような姿勢のまま、呆然を抜けだせず、視線をあたりに泳がせる。

 茂みの深さは落ちてきた崖上と大きく違わないが、すぐそばに街灯が見えるのは道路が近い証明で、崖から転落を非現実的に受け止めていた俺に現実を突き付けてくる。

 なぜ不信を抱くかというと、

「臼杵くん、大丈夫?」

 恋人の深い谷のような胸元に頭を抱き寄せられていて、

「ああ……うん、まったく」

 これっぽっちも、頭も腕も足にも、ほんのわずかな痛みすらないからだった。

 理由はわかっている。

「石長さん、その体……」

 半透明な緑色のジェル状の溜まりが、彼女の下半身部分に生まれていた。代わりに、とでもいうように、下半身そのものは完全に失われて。

 彼女が庇ってくれたのだ。

 その、人間ではない体で、クッションになってくれて。

「良かった、怪我がなくて」

 微笑みは何事もないように優しくて、

「……臼杵くん」

 名前をもう一度、今度はためらうように恐れるように、だけど笑顔で、

「キス、してくれるかな……?」

 俺は迷わず、言葉を作るそぶりもなく、唇を重ねた。


      ※


「本当の意味で恋人になれたと思うの」

 顔を離して見つめあうと、君はやっぱり微笑む。

 目尻から流れる涙は薄い緑色で、だけど俺はもうそんなの関係なくて、渦巻いて溢れそうな感情を持て余しながら頷き返すと、

「おかしいね。どうして、臼杵くんも泣いているの?」

 頬を伝う温かさが、おかしいことなんてあるものか。

 なんせ、

「嬉しいんだ」

「え?」

「君が死ぬことにならなくて」

 見つめる先の瞳が驚きに開かれて、言葉に困っているのがわかった。

 隙を埋めるようにすぐさま言葉を作って、

「今までありがとう」

 それと、

「疑ってゴメン」

 短い謝罪だが、君の驚き顔が引っ込んで微笑みに戻ったから、許されたのだと思う。

 本当に。

 本当に、どこまでも都合の良い彼女だ、と思わず笑ってしまった。

 俺の頬が綻んだことで、石長さんも笑みを深く。

 詰めは甘かったけれども、笑いあうことができている。

 願わくは、君にとっていい思い出になってもらえるよう。

 失われる俺ができることなんか少なくて、だからこそ願わずにいられなくて。

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