3:かつての取引

 事態は、明日にでも梅雨明け宣言が出るだろう、というそんな晴天の日の夕暮れに始まった。

 何気なく見上げた空に、見たこともない亀裂が走っていたのだ。

 俺は、様々に動転したけれども、まあ驚きを一番大きな感情として、

「なんだありゃ」

 家路の途中で、温いアスファルトに尻餅をつくことに落着していた。

 動けずにまじまじ見つめていると、目も脳味噌も驚きに慣れ始め、代わりに震えと同時に恐怖が沸き立ってくる。

 幸いというか、不幸なことなのか、住宅街は大体いつも静かで人通りは少ない。こんな情けない姿を目撃し助けてくれたのは、たった二人。

「臼杵・翔太くんでいいね?」

 黒服に身を包んだ男女だけだった。

 当然俺は、誰です? とガタガタと上下する顎でどうにか問いかけ、彼女は冬の北風を思わせる声音で『世界の平和を維持する機関』だと嗤い返した。

 応答は、

「は?」

 の一音が精一杯で、視線は再び、空の亀裂へ飲み込まれる。

「アレをそのままにしておくと、どうやら世界が滅びるらしくてね。信じられるかい?」

 やはり言葉にならない疑問符しか返すことができずにいると、さらに続けられ、

「アレは、過去に失われたものを取り戻すために、未来の地球からやってきているんだそうだよ。現実を書き換えるために、ね」

 張り詰めている神経では理解するにちょっとしんどい内容で、疑問符が増える一方。

 混乱する俺に構わず、くそダサい極太メガネフレームをかけなおすと、

「だから、亀裂が開いてアレがこちらに現れると、目的を達するために延々と、デタラメに現実を書き換え続ける。そうなると、まあ、考えてみなよ」

 交通信号の色が、個々人によって認識が変わってしまったなら。

 隣の人の表札が、自分と貴方で見え方が変わってしまったなら。

 目の前の宝物が、今と後でごみくずへと変わってしまったなら。

「しばらくすれば、世界は『そういうもの』として固着化するだろう。けども、まあ我々が『維持する平和』というのは、今この時点の『平和』なものでね」

 そして、世界をこんな危機から、

「どうやら、君の命で救えるらしい」

 その女の人はこちらを覗き込んで、信じられるかい、と口端を深くしてみせた。


      ※


 ちょっと聞き捨てならない言葉が発射されて、

「突然そんなこと言われて、はいそうですか、とはいかないでしょ」

 恐怖に、怒りと当惑が勝った。

「世界が滅ぶってのも俺が犠牲になれば解決するってのも、確証のある話なんです?」

「もちろん」

 なんせ、と肩をすくめて、

「時間遡行なんて『チープな事案』は、ノウハウが多いんだ」

「チープ?」

「珍しいことじゃあない、という意味だよ。だから解決案も持っている」

 それで、と腕を組みなおす。

「どうだい、礎になる覚悟はできたかい?」

 感想としては、この人頭おかしいのかな?

「なんで今の流れで、要求が通ると思うんです!」

「我々には選択肢がなくてな」

 説得の言葉を持ってないから死ね、とはちょっと乱暴だろうに。

 人の心がわからないのか、切羽詰まっているせいなのか。

 表情を見るに後者ではなさそうだが、じゃあ前者と決めつけてしまうと、途端に目の前の女性が恐ろしく見えてくるから保留としておこう。

「それで、どうすればこちらに従ってもらえる?」

「いやいやいやいや、それ俺に聞くんですか⁉」

 交渉する気がゼロのごり押しだけで、逆に不安になる。

 これ、俺が首を縦に振るまで延々続けるつもりなのか?

 正直たまったもんじゃないし、とにかくなんでもいいからと拒否する理由を探すと、

「だいたい、彼女もできないまま死んでたまるか!」

 自分でも思ってもみない単語が飛び出してきた。

 どうやら自分自身は結構に錯乱しているようで、状況ではなく今の言葉にううむ、と困惑していると、

「なるほど。それじゃ、取引をしよう」

「なんです。彼女を用意していくれるんですか」

「ああ、飛びきりのな。そして」

 女の人はおもむろに懐に手を差し込むと、

「君から自発的に協力してもらえるよう、努力しようじゃないか……よし、目は閉じておくといい。視覚的なトリガーは無いからな」

 雷でも落ちたかのような閃光と重い破砕音が響いた。

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