3:石長さん

 音などなかった。

 だというのに、ひしゃげるような破音が聞こえる。

 なら、なにがひしゃげたのかと聞かれれば、それは肉のようでも、金属のようでもあり、ありていに言えばこの世のものとは思えない悲鳴だった。

 聞こえるはずのない絶叫が、押し広げられるひび割れからあがり、やがて空に穴が開く。

 向こう側がどうなっているのか、遠いものだからはっきりとは見えなくて、なによりもそこから這い出た動体に視線を奪われる。

 現れた『破滅』と呼称されていたものは、真っ白な花のつぼみのような姿だった。

 すぼまる花弁の先端がわずかに開いているようにも見えるが、やはり遠くてはっきりとしない。

 異邦人は、しばらくゆるゆると宙にとどまり、俺はその様子を見守ることに焦れて、

「ここからどうするんです?」

 問いかけた先、木花さんはやはり見上げたまま、眼鏡を直す。

「あれは、君を求めて世界を破壊する化け物だ。いずれ、君を見つけ出すために、世界を攫いはじめる。多様で、致命的な認識阻害をばらまきながらね」

「先輩! その話は伝えないって!」

 つまり、俺が犠牲になるのは、偶然によるものではなく、必然だったってことだ。慌てて言葉を遮る大白納さんは、きっと「最初から、余地もなく、死ぬために選ばれた」ことを隠しておきたかったのだろう。

 心遣いはありがたいけれども、今更だし、なにより予感はあった。

「なんだか、あのひび割れが俺のことを見ているような気はしていたんですよね」

 それに、どれだけ厳重な認識阻害も、俺には意味がなかったことも。

「臼杵君、君は……いいのかい」

「大丈夫ですよ、大白納さん。決まっていたっていうなら、なお気が楽です。けれど、なんで俺なんですかね。なんのとりえもない……ちょっと、人より遠くに飛べるだけですよ」

 木花さんが肩を叩き、空を指さす。

「秤にかけたのなら、世界よりもなによりも、君の方が重くて大切なのさ」

 動向をうかがっていたから、破滅がこちらに近づいていることは気がついていた。

 かなりの速度でまっすぐに俺の方に向かっていることがわかるし、近づくほどにシルエットははっきりしていく。

「ほら、彼女がきたぞ」

 ……え?

 その呼称に疑問を返すよりも、高速の破滅が目前に迫る方が速かった。

 すぼむ花弁の、わずかに開いた先端。

 確かに『彼女』だった。

 花のめしべのように、色味のない裸体の上半身だけを突き出している。

 その生気のない腕が迫る勢いに任せて、俺の体を抱き寄せてくる。

 眼前まで迫った『彼女』は、痛々しく慟哭し続ける、

「石長さん……⁉」

 石長・穂希の姿に他ならなかった。


      ※


 途端に、俺の体は慣性に連れ去られる。

 だけど、勢いがあったのは最初だけで、耳元を切る風はゆるゆると弱まっていった。

 石長さんの姿をした『破滅』が、俺を抱きしめた途端に勢いを減らしたのだ。

 両の腕は、色味の無機質さからは信じられないほど強く優しく、抱き寄せられた体も驚くほど柔らかかった。

 目の前にまで近づいた彼女の顔は、眉を悲愴に歪み、目元は涙に乱れている。

 世界を破滅に導く存在だなんて言われているにしてはあまりに弱々しい姿に、ああ、と納得が生まれた。

 この存在は、見たまま、石長さん自身で間違いないのだと思う。

 あの、黒服二人の言葉からわかるように、未来から過去に、失われたものを求めてやってきたのだ。

 失われたもの、というのは、おそらく俺自身。

 そうであれば、認識阻害が俺に影響しないことも、俺自身が犠牲になれば危機を脱せられることも、『破滅』が石長さんの姿をしていることも、今こうして掻くように抱き寄せられていることも。

 納得できるんだ。

 きっとこの石長さんも、こうして『未来の彼女』に奪われ、だから『過去の俺』を取り戻しに来たのだろう。

 そして、もう、最初の目的も見失っているんだ。

 俺を腕の中に納めても、痛々しい顔が何も変わらないから。

 ただただ、俺を求めることだけが、彼女の胸に残っているのだ。

 他のすべてが削がれるほどの摩耗だなんて、果たして、どんな旅路であったのだろうか。

 唇を交わしたあの石長さんとは違う石長さんではあるが、好きになった彼女には違いない。

 胸が締め付けられてしまう。

 だから『彼女』には申し訳ないけれど、仕方ない。

「きっと、次の自分もうまくやるさ」

 白い腰に腕を回して微笑む。

 とんでもなく、すげー良い目にあえるんだから。


      ※


「臼杵くん!」

 諦観、それもとんでもない甘さに沈む俺の肩が、柔らかく、しかし厳しく掴まれた。

 一瞬、恋人と同じ顔を持つ目の前の『石長さん』に呼ばれたのかと思ったが、声は頭上からで、

「力を抜いて!」

 間違いなく、いつも顔を合わせていた制服姿の石長さんだった。

 白い『石長さん』の肩で片足を踏ん張っている姿は、青空を背景にしているせいもあって、なんだか滑稽な格好なのに、すごく眩しくて、神々しさすら覚える。

 表情がすごく優しい笑顔で、もうそれだけで見入ってしまうほど。

 なぜ、とか、なにを、とかの疑問はその神々しさの後から追いかけてきて、

「私を信じて!」

 なんてことを言われても、状況もわからなければ、なにより『石長さん』が俺を抱く腕はすごく強いから、君の細い腕では引っ張り出すのは無理じゃないか?

 だが、俺の懸念に反して、体に回された腕はあっさりと緩められた。

 驚きに視線を下げると『石長さん』の顔から、悲愴は隠れて、ぽかんと目口を開けた驚きを表にしていた。

 まじまじと石長さんを見上げ、それから迷うように俺の顔へ、焦点の結んでいない瞳を落とし、

「ありがとう、臼杵くん!」

「いや、石長さん! どういうこと……!」

「事情は、木花さんたちにでも!」

 勝手に話を進めると、ずるり、と白い腕から俺を引き離して、

「好きでした! ありがとう!」

「待ってくれ! 石長さん、俺は……!」

 中空へと、放り出したのだった。

 いつのまにやら、二階よりも高いところに俺たちはいて、だから体は落下を始める。

 腕を伸ばせども。

 白い腕に抱きしめられ、抱き返して、そんな同じ恋人の顔をした二人の姿が小さくなっていく。

 腕を伸ばせども伸ばせども、離れていくばかりで。

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