第三章:悲しすぎるあなたの真実
1:詰める
やらなければ。
となれば、必要なのは準備と覚悟だ。
その二つはタイヤのようなもので、揃っていなければどこかで不具合を起こす。前者が欠ければ挫折するし、後者であれば詰めを誤る。
競技の世界にいたから多少人より多く見てきたとは思うが、そればかりではなく、学園祭や受験などの学生行事のなかで散見してきたことだ。
もし、中学だった時の自分のクラスがもう少しだけ覚悟を決めていたなら、体操着喫茶の店員が全員男子という悲劇も避けられたはずだった。女子全員のボイコットも解決可能な問題だったし、カメラを片手に現れた一般の方々との乱闘も起こらなかっただろう。
つまり、準備と覚悟は必要なんだ。
今回、準備は簡単だった。
相手が俺を俺と認識する可能性を下げる、という程度のもの。
登校の際カバンに、私服の半袖ワイシャツと顔を隠す市販のマスクを仕込んでおけばそれで良かった。髪型を変えるための整髪料はやりすぎかとは思ったが、一応忍ばせてはある。万全を期してジーンズも用意しようとしたが、どうしても通学用のカバンには納まりきらないからこれは諦めるしかなかった。
残りは覚悟だが、こちらの方が難儀した。
大きな問題として、自分が何を望んでいるのかはっきりしないのだ。
やろうとしていることは決まっているのだが、その結論から、何を導き出そうとしているのかひどくふわっとしている。
もし、満点なら。
もし、零点なら。
最低でもこの二つの解答を持っておきたいところではあって、だけどはっきりと言葉にできるほど明瞭な先行きなんて見当もつかなくて。
だから、覚悟を一段下げる。
まずは結論を得よう。
石長さんの正体を得るために、友人が抱いていた疑問の解を手に入れる。
彼女はどこに帰っているのだろうか。
先のことはそれから考えるんだ。
この妥協が、詰めの誤りにつながるのかもしれないけれども、なに、中学の学園祭だって結局は愉快な思い出話にできたじゃないか。
きっと、最後には笑っていられるはずなんだ。
※
「じゃあ臼杵くん、また……来週だね」
夕日に照らされた輝く笑顔で、石長さんは金曜の帰り道にだけ使える挨拶で、約束を結んでくれた。
屈託ない眼差しの彼女に、企てを抱える俺は後ろめたさから、手と手をほどく際に、
「うん、また来週。気を付けてね」
「……初めて聞いたかも」
少しばかり、言葉が重くなってしまったようだった。
しまった、と、取り繕う言葉を語彙の棚をひっくり返して探しだそうとするが、
「あは、嬉しいな」
深まった笑みに、罪悪感が突きまわされて言葉を失ってしまった。
石長さんはもう一度こちらを見てから笑って、それから手を振りながら帰路へつく。
翻ったスカートが落ち着いて、彼女の靴音が行き交う車の音に飲まれていく。
夕暮れの国道は通行が多いから、排ガスの匂いがきつくて騒音もひどくて、他人の気配が紛れてしまう。そのうえ、行き交っているその他人の数が多いから、陰影もあって、特定個人をただの背景に落とし込んでくれる。
逢魔が時とはよく言ったものだ。
だから、カバンから取り出したものを身に着ける姿も、さほど目立つことなく、つつがなく成すことができた。
顔を上げれば、恋人の背中は少し遠くはなったが、見失うほどではない。
尾行を開始する。
靴音を、なるべく雑音に溶け込ませるように鳴らして。
※
彼女の足取りは、不可解の一言に尽きた。
国道を駅方向に向かうところまでは事前にわかっていたことだけども、そこから突然に小路に入り込んで、狭い生活道路を進み始めたのだ。
大通りに比べたら、当たり前の話だが人通りは少ない。だから、これまでよりも大きく距離を取って、見失わないように腐心する。
頼りない朱色の光は、わずかずつ、夜の深藍へ。
狭い道だから建物の影が帳となって、下から上へと塗り替えられていく。
細まった空に星が瞬くころに、漠然とだけど石長さんの行き先を掴むことができた。
……学校の方角じゃないか?
なぜ、と疑問を浮かべるが、それは辿り着くころに答えを得られるだろう。
だから、今は置き捨てる。
彼女が帰る場所を突き止めることで、何もかもが明るみに晒せるだなんて、そんな都合の良いことを考えているわけじゃない。
求めるのは、石長さんに関する虫食いになっている記憶を、少しでも取り戻したいということ。
胸に持つ『好きだ』という気持ちの拠り所を確かにしたい。
つまり、今の俺は、俺自身のことを疑っている。
見えているもの、聞こえているもの、思っていること、願っていることのどれもが、認識阻害にかき回されているかもしれないという恐怖がある。
だから確かめたいのは彼女の自宅というだけでなく、彼女が何者であるかということだけでなく、そこから得られるかもしれない自分自身の本心なんだ。
もしかして、全部を取り戻したなら『好きだ』という気持ちまで取り上げられてしまうのでは、という恐怖はあったけど、疑いの中にいるよりはマシだと思うし、学園祭の話じゃないが『最後には笑っていられるさ』という楽観論で以て今は押し込めている。
何もしないでいれば、もしかすると彼女は『犠牲』として失われてしまって、二度と会えなくなるかもしれないのだし。
後悔を待つだけなんて、嫌なんだ。
まばらな街灯に、己の単純な願いを慰められながら、歩みを進める。
石長さんの姿が、それなりに大きい通りに出たせいで車のヘッドライトに照らされた。
予想通り、学校前の道路に辿り着いたのだ。しかも、いつだったか朝に遭遇したのと同じ場所のはず。
彼女が学校方向に進むと、俺も見失うまいと小走りで追いかけ、その姿を探せば、
「……え?」
石長さんは、校門前のT字路を左に折れていた。
学校方向に戻ってきたことすら不可解であるのに、さらに向かっていく道路の行く先は、校舎裏に鎮座する小高い山、通称裏山に通じる。
ハイキングコースがあり、昼間なら運動部がランニングコースにしているが、街灯はなく夜に入り込むには勇気を持ち合わせる必要があって、
「どこにいくってんだ」
迷いなく進んでいく後ろ姿に、尾行していることを忘れて呟いてしまった。
※
目は、茂る木々と暗闇に。
耳は、微風に鳴る枝葉に。
それぞれ塞がれてしまって、先を行く背中を追いかけるのもやっとだ。
加えて、木の根っこやら小石やら雨などで自然に抉れた穴やらで、足場は悪い。
散歩であるなら、悪条件に過ぎる。
だというのに、石長さんは平然とした様子で悪路をすいすいと進んでいくから、足音を気取られまいと慎重な足取りの俺はその背中を幾度も見失いそうになっていた。
……嘘を吐いた。
慎重なのはその通りだが、暗がりへの恐怖から若干竦みがちになっているのもある。
だから、平然と歩み続ける彼女への不信やら恐れが沸き立って。
だけど今は、とにかく見失いかけるたびに彼女の足音や茂みを揺らす音を聞き分けて、なんとか後ろを追いかけるだけだ。
かなりの距離、上り坂を歩いたと思う。
時折木々がひらけると、我が学び舎を見ることができるのだが、想像以上に見下ろすことになっていて驚きもした。
どこまでいくのか。
もう暑い季節だからと選んだ半袖ワイシャツが、夜風に熱を逃がしきれず汗に湿り始めたころ。
前を行く気配が、茂みを掻き分けるような音を鳴らした。
いま俺たちが歩いてきた道は、運動部がロードワークのコースなのだ。路面が悪いだの文句をこぼしたが、それなりに踏み鳴らされているから、明かりがなくてもどうにか通ることができていた。
そこから茂みに入るとなると、道を外れて獣道を進むということ。
この暗がりの中を、だ。
もはやこの時点で、俺は疑問を抱くことを放棄していた。
疑いが積み重なりすぎて、いちいち胸に引っ掛けておくことが苦しくなったのだ。
眉根にぐっと力を込めて、闇への恐れを呑み込んで、道を外れる。
幸い、石長さんが掻き分けていた茂みはすぐに見つけることができて、おかげでたてる物音は最小限で済んだ。
息を潜めて、忍び寄るように、距離を詰めていく。
彼女の姿が見えた、と同時に風景が広がり、月明かりが注いだ。
そこは、若干の下草が生えるだけの、立木がまったくない開けた場所。
人工的に切り開いたわけでなく、たまたまできた穴場を、まあロードワーク中の運動部員たちがサボるために使っているうちに、ある程度の居住性を持つようになったのだろう。
ところどころに捨て置かれている、風化した菓子の包装や古い漫画雑誌がその証明だ。
そんな広場の端。
急斜面になっていて街を一望できる場所で、彼女は空を見上げて座り込んでいた。
視線を追えば、そこには『破滅』の姿が。
そうしてしばらく身動きしないでいるかと思えば、突然、傍らに置いてあったカバンを開いて、
……ペットボトル?
取り出したのは、紅茶のそれだ。
もっと具体的に言うと、先日にあの二人組と会った帰りに、お礼として渡したのと同じメーカーのもの。
石長さんはキャップを開けるでもなく、まじまじと見つめた後で、胸元に寄せたようだった。
俺はそこで、一切の確証はないものの、確信する。
あれは、俺が買ったものに違いない、と。
口を付けずに、そのまま持っていて、いま抱き寄せているのだと。
人に言えばただの思い込みだろう、と笑われるだろうし、俺自身だってそう言う。
だけど確信は揺るぎなくて、それがたとえただの思い込みだったとしたって。
彼女の好意は本物で。
きっと、疑わしくはあるけれども、俺の思いも本物だと信じたい。
少なくと、こんなにも思われることで得られている幸福感は本物のはずなんだ。
不信や、疑問、恐れはあるけれども。
だから、身を隠していた藪から立ち上がる。
ぼんやりと、これが詰めの甘さになるのだろうかと、自問しながら。
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