5:拠り所の帰結するところ
夕暮れは、すでに宵の口に差し掛かっていた。
店に入った時より人通りは多く、みな帰路を急ぐため心なしか慌ただしい雰囲気だ。
その中を、ふわふわとした足取りで、俺は自宅へ向かっている。
ぐるぐると、いろんなことが頭の中を走り回っては記憶の棚をひっくり返すものだから、おぼつかない一歩を交互に出す作業を繰り返すだけ。
脳内で暴れまわる競走馬たちだが、全てが不審な今、逐一その様相を確かめざるをえない。
寒いくらいのそよ風に頬をくすぐられながらぼんやりと、冷えた空に浮かぶ月と、一緒に並ぶ空の傷跡を見上げる。
「なんだってんだ」
まず正確なことは、俺の存在が気づかれないうちに交わされた言葉。
「犠牲、か」
人一人を、と言っていた。
あの子は望んで、対価を払った、とも。
繋がるように思い起こされた言葉は、
「状況は解決に向かっている」
木花さんの言葉だった。
つまり『あの子』の『犠牲』で『解決』し、そのための『対価』は支払い済み、と。
まず引っかかるのは『あの子』が誰を指すかであり、
……石長さんのことだろうか。
自分の知る限り、彼女だけが、組織に近いためか記憶を保持したままだ。俺や夏澄のように記憶の改変を実施したが不完全だった、などといいう説明もなし。
最初に思い付いて、それ以外には考えられない候補だ。
蘇るのは、最初に大白納さんから嘘を感じたときの言葉。
……僕らも派遣されたばかり。書類だけ読まされて、現地で一人暮らししている彼女の世話もついでに頼まれた。
ここに嘘が含まれるなら、石長さんの現況には隠すべき懸案があり、加えて同席していた彼女自身が否定や指摘をしなかったことから、三人は秘密を共有しているということ。
そうなら、俺の想像もそう遠いものではないのでは?
だけれど、とも思う。
もし彼女が『犠牲』なのだとしたら、今のこの生活はなんなのだろう。
破滅が迫り、己が犠牲になることでそれが解決するというのなら、残りの貴重な時間を、はっきり言ってしまって俺のため無為に割かせてしまってはいないだろうか。
それどころじゃないだろう、とも思うし、もしかしてそうするしかないのだろうか、とも思う。
ひとまずの結論に至ったところで、
「臼杵くん?」
聞き覚えのある、どころか今しがた脳内で何度も繰り返されていた声が、遠慮がちに耳朶を打った。
「……石長さん? 帰ったんじゃ?」
宵に隠れているが、間違いなく、一度は挨拶をして別れた恋人の姿だ。
うかがうように前屈みだから、そのままでも豊かな胸がなお強調されて、感想は『暗くてよかった』だ。
「様子が変だったから、ついてきちゃった……ごめんね?」
「いや、謝ることじゃないよ。ありがとう」
「ううん、顔色も良くないし……臼杵くんの家まで送るよ?」
お言葉に甘えることにして、俺たちは並んで歩き始めた。
もちろん、手を繋いで。
※
「いいの?」
感謝の証に自販機から紅茶を買って手渡すのが精一杯で、
「ありがとう、ね?」
「いや、こっちこそ、だからさ」
あとは手を引かれるまま。
彼女が受け取ったときの顔すらまともに見られていなくて、それぐらい、頭の中がぐちゃぐちゃになっているのだろう。
夜道を歩く中、不意に視線を上げるとばっちり目が合うから、ずっと見つめられているほどに気を掛けられているのがわかるし、申し訳なくも思う。
けれども、思慮の迷路から抜け出すこともできないでいた。
俺の石長さんへの記憶は、間違いなく操作されている。
大白納さんが明言していたことだ。事故のようなものらしいのだが、確かに虫食いの状態にある。
これがなかなか不気味で、虫食いであることに一切の違和感を覚えないのだ。
それはもう、もともとそんなものなど無いかのように。
意識していないと疑問そのものが霧散しかねない状況は、恐ろしい、の一言だ。
なぜ疑問は失われることに恐怖するかというと、ある矛盾点まで一緒に飲み込まれてしまうような気がしてしまって。
大白納さんが口にした『綻び』のことで、たぶんこの一言に俺は嘘を感じたのだろうと思っている。
説明では、認識の阻害を施したのは破滅の姿を衆目に晒さないための措置であり、しかしイレギュラーが起こるたびに破綻しかねない危ういものなのだ。
最初の施行で石長さんがイレギュラーとなり、彼女を認識することが阻害されるようになってしまい、そこからドミノ倒しのように綻びが発生している。
夏澄の状況がそれだ。
だから、あの木花さんと大白納さんは個別に認識阻害を施しているのだ。
ならば。
綻びを厭うのならば、だ。
どうして、石長さん自身の認識に手を加えない?
どうして、俺の認識の綻びを正すことをしない?
大切な友人には、あっさりと施したというのに。
「あ、着いたね」
言われて顔を上げれば、すでに自宅前だった。
心ここにあらずで、道すがらの記憶もないということは、ここまで完全に手を引かれてやってきたということで。
意識したとき、手に力がこもっていることに気が付いて、
「あ、ご、ごめん!」
すぐに強ばった指をひらく。
大丈夫だよ、と笑顔を見せてくれるが、スポーツ経験者の男が遠慮なしに掴んで痛くないわけがない。
見せてもらおうと手を伸ばせば、すぐさま引っ込められて、
「悪いと思っているならさ、明日は明るい顔を見せて。ね?」
おどけた声に、俺はちょっと無理して笑顔を見せる。
石長さんは声をだして笑うと、
「じゃあ、明日ね」
挨拶を残して、国道の方向へ歩き出した。
その背中を確かめると、作った笑顔はすぐに溶けてしまう。
……石長さんは、どうして俺のことを好きだなんていうんだ。
人の心に疑いを持つ気はないし、好意はすごくありがたく思う。
だけど、状況がおかしいだろう。
破滅を解決するための犠牲であることを自覚していて、こんなにも俺のために時間を割いてくれるなんて、都合が良すぎじゃないか。
そりゃ人それぞれだとは思うが『なにかある』と考えた方が自然だ。
じゃあ『なにか』とは、という話になるが、
「……君は、いったいどこに帰っているんだ?」
彼女は、何者なのか。
認識阻害のせいで今にも消え入ってしまいそうな問いかけは、今朝まで夏澄が待ち合わせていたはずだったものだった。
……ああ、だから疑問が消えることがこんなにも恐ろしく感じていたのか。
恐怖の正体を再発見する。
これを失うことは俺にとってすごく嫌なことで、もしそうなってしまえば石長さんを好きでいる根拠が失われてしまう。
現状曖昧な石長さんの認識への、この疑問は、間違いのない自分の感情なのだ。
何もかも、好きだという思いまで認識阻害で塗りつぶされた上に書き込まれたものだなんてことが事実だとしたなら、耐え切れる自信なんかこれっぽっちだって。
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