4:空のひび割れ

 簡単に言うと、二人は『世界の平和を維持する機関』の一員なのだそうだ。

「臼杵君。君、空のひび割れ、見えているだろう?」

 学校を逃げるように抜け出した先、自宅からそう遠くない喫茶店で自己紹介と状況説明を承っている。

 若い男は大白納・権平おおしろな・ごんべいという仰々しい名前とは裏腹に、軽薄で物腰が柔らか。体つきは、細身ながら鍛錬の跡が、服の上からでもわかるほどだ。

「我々は、あれを解決するために派遣されてきたんだ」

 自己紹介の会場で選ばれた古めかしい喫茶店の店主も、組織の協力者であり、

「ざっくりというと、彼女……石長・穂希もその一人だ」

 木花・映このはな・あきらと名乗った怜悧な女が、隣に座って困り顔でアイスティを眺めている恋人を見やれば、こちらの怪訝な眉根に気が付いた大白納さんが、慌てて手を振って、

「や、勘違いしないでね。僕たちは君に目を付けていて、昨日たまたま彼女が告白したものだから、臼杵君のことを少し聞こうと思っただけなんだ」

「彼女は、協力員の家族、だったかな大白納くん」

 木苺のムースケーキをすくい取りながら、木花さんは淡々と語りかける。

 その口ぶりが引っかかって、

「なにか、他の可能性でもあるかのような言い方ですね」

「ちょっと、先輩! いやね、僕らも派遣されたばかりでさ。書類だけ読まされて、現地で一人暮らししている彼女の世話もついでに頼まれたわけで」

 一息で言い切ると、氷の泳ぐコーヒーをぐいと飲み干す。

 動作を急ぐ様子は疑わしい。が、嘘と断ずるには、言葉は理路が整っている。

 こちらは、うさん臭い二人にうさん臭い話をされて、しかもこちらを懐柔しようとしている様子に、どうしても警戒心を抱いてしまう。

 やけに友好的な訪問セールスマンに抱くアレだ。

「話を戻すけれども」

 一番にうさん臭い大白納さんが言うには、

「あのひび割れの向こうでは、とんでもないバケモノがこちらに這い出ようとしているんだ。無論、誰かが見たわけじゃない。うちの機関で所有しているいろんな計測器、観測機で調査した結果だ」

「とんでもないバケモノ、って……そいつが出てくるとどうなるんです」

 目撃者もいないのならば、どうなるかだってわかるわけがないはずなのだが、

「言ったろう、臼杵くん」

 木花さんは、その冷たい頬に、ほんのりと嗤いを刻んで、

「我々は世界の平和を維持する機関の一員で、我々が解決を望んでいる。答えは簡単じゃないか」

「はあ……」

 ピンとこないが、

「世界が滅びでもするんですか」

 女の笑みは、またほんのり深くなり、

「我々は、ヒビとバケモノの呼称を『破滅』としているよ」


      ※


 ……何を言っているんだ。

 正体は不明で、それが現れると破滅する?

 なんだかもう、宇宙人の秘密基地で、侵攻中だとか言われた方が信憑性はあるだろ。

 けれども、

「まあ、マンガとかアニメの話だよな、世界の破滅をもたらすバケモノだなんて。

 だけど、可能性はある。可能性があるなら、排除するのが僕たちの仕事なんだ」

 大白納さんもまじめな顔をするから、否定も茶化すこともできなくて。

「疑問に思わなかったかい? 君以外の誰もが、空のひび割れなんか見えていないこと」

 いや、まあ、疑問には思ったけれども、大事には捉えてなんかいなくて、破滅とかいう大仰な単語を聞かされた今だって、正直気持ちは変わっていない。

「あのひび割れには『そこにあることがごく当たり前である』というような具合の、認識を阻害する力があるんだ。だから、うちでも発見が遅れた次第でね」

「ちょ……え? じゃあ」

 俺が見えているのは、なぜ?

「なんでだろうね。正直わからないんだけど、だからこそ、事態の解決に繋がるかもしれないと判断して、こうして接触したし……協力をお願いしたいんだよ」

 わからないのか……

 と、引っかかるものがある。

 言われて考えてみると、自分自身はいつの時点であのひび割れを認識していた? 

 思い返しても記憶の始まりには辿り着けなくて、もしかして、

 ……俺が見えるようになったんじゃなくて、向こうが俺を見つけたから、とか?

 何気ない連想と、転換。

 けれども辿り着いた答えに、背中はじっとりとなめられて、

「どうした、臼杵くん?」

 ケーキを頬張る木花さんが、怪訝に覗き込む。

「いや、大丈夫です」

 ……気のせいだ。

 ……気にしすぎなだけだ。

 とは言い聞かせるものの、協力をふんわりと約束して退店する段になっても、もやもやは張り付いたままだった。

 手を付けることのできなかったアイスコーヒーと、やはり並んで手が付けられていないアイスティのグラスを覆う、幾多の水滴のように。


      ※


 黒服の二人と別れて帰路につくと、石長さんがまず謝罪と釈明を切り出してきた。

「黙っていてごめんなさい、突然だったから口を挟めなくて……」

 まあそりゃあいきなり手を引かれて走らされたのだから、ゆっくり説明とはいかなかった。

「こっちこそ、早合点で迷惑かけた」

「ううん、木花さんが変なこと言ったんでしょ? あの人、そういうところあるから」

 確かに、こっちの反応を面白がっている節はあった。

 だから逃れるためにダッシュしたのだから、責任は木花さんにあるだろう。俺は悪くないみたいだ。

 俺の罪というか、悪い部分があるとするならば、

「見てもらった通り、あの程度も距離も飛び越せない臆病者なんだよ」

 守りたい、という気持ちを達せられなかったことだろう。

「中学の時に、目の前で同級生が学校の屋上で飛び降り騒ぎが起きてさ」

 人が死んだ話だから、彼女の反応をうかがいながら話を進める。わずかにうつむき加減で、顔色はよく見えないが、あからさまに不快の色は見えないから

「そいつは旧校舎屋上にいて、俺はちょうど新校舎の最上階で授業受けていて。騒ぎになったとき、すぐに屋上へ駆けつけられたんだ。

 後から知ったんだけど、旧校舎側の屋上入り口はそいつが外から鍵をかけてたみたいで、俺が一番乗りだったんだよな」

 瞬くように、あの時の記憶が蘇る。

 衝撃に、無力感に。

 早まる動悸を拳で押さえつけながら、

「旧校舎と新校舎の間は三メートル弱程度で、パラペットがあるだけ。フェンスもなにもなくて、俺じゃなくたって、助走を取れれば簡単に飛び越せられる距離でさ」

 でも。

「跳べなかった。怖くて、跳べなかったんだ」

 躊躇っているうちに、ざわめきが悲鳴に変わったのを覚えている。

「それから、もう記録は落ちる一方で、未だに解消できていなくて……石長さん?」

 不意に立ち止まられたから、咄嗟に振り返る。

 と、胸に当てていた拳を、やんわりと両手で包み込まれ、

「大変だったね。それに……すごいと思う」

 すごい?

「跳べないなんって、当たり前だよ。そんな怖いこと、平気でなんかできるわけない。それよりも、もう何年もなるんでしょ? 後悔をしていて、いまだに悩んでいるなんて、すごく真剣に向き合っているんだと思う」

「……引きずっているだけだよ。そんな大したことじゃ」

「ううん。本当に弱い人なら、とっくに忘れたふりをして蓋をしてしまうよ。嫌な記憶なんて」

 だから、と続けて、

「臼杵くんはすごいと思うの」

 ……そうかな。

 少し、動悸が治まって胸が軽くなった。

 石長さんの慰めは、自分自身が欲しがっていた言葉だっただろう。

「……都合が良すぎるよな」

「え?」

 吐息に乗せた笑うような呟きは、彼女の耳には全体像が届かなったようで、首を振りながら頬にも笑みを浮かべて、

「いや、ありがとう、って」

 些細な嘘を、本心の言葉で隠した。

 石長さんも微笑んで受け入れると、胸を押さえる役割を終えた手を、自然と下げていく。

 でも、包んだ柔らかな両手の平のうち片方はほどかれることなくて、

「好きに、なってもらえそうですか?」

 今更の問いに、笑顔で、

「このまま帰ろう。すごく、そうしたいんだ」

 緩んできた拳を開いて、指を絡めなおした。

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