2:冬の夜の風のような
連れだって足を運んだのは、昨日の告白劇の会場だった。
人目のある場所で、並んでお弁当をつつくのはどうしても堪えられなくて、無理を言っての処置だ。
空は朝の晴天が続いていて、すこしばかり汗ばむくらいには日差しが強い。とはいえ、乾いた風がそよりそよりと吹いているから、心地よいくらいのものだ。
で、相変わらず空には傷の跡があり、目に入ると怪訝から見つめてしまう。
目が合う、というのはおかしな言い方だが、どうしても視線が吸い込まれてしまうのだ。
「臼杵くん? どうしたの?」
小さなお弁当箱から、蓋を皿代わりにオカズを取り分ける石長さんが、不思議そうに小首をかしげてくる。
黒髪が肩からはらりと垂れて、お弁当にかかりそうになるのを直前でかきあげると、見られちゃったみたいな顔ではにかむから、
……かわいい。
「あー……」
思わずこぼれそうになったが飲み込んで、だけども、空に傷が見えるだなんてバカ正直に口に出したら、その可愛い顔がどんな風になってしまうやら。
「天気いいなって」
「うん、そうね。梅雨も明けたし、暑くなってくるかな……はいどうぞ」
茹でたセロリ、海苔を混ぜた卵焼き、ミニトマト、焼き鮭の切り身の一部が可愛らしく盛り付けられた蓋を差し出され、
「足りないかもしれないけど、ごめんなさいね」
いやいや、まったくもってありがたいし、この感謝や嬉しさは他の方法との比較として高いというわけでなく、素直な気持ちだ。
だからこそ不安があるわけで。
「いや、すごくありがたいんだけど、石長さんこそ足りるの?」
「ん。私なら大丈夫……あ」
「え?」
「先生に呼ばれてるんだった!」
「え?」
「ごめんなさい! お弁当、全部食べちゃっていいから!」
「え?」
慌ただしく立ち上がる石長さんは、その姿勢からこちらに屈むような姿勢となって、俺の視線を誘導しようとする。
魔法でも使っているような膨らみに、視線が蛇のように食いつくのをこらえながら、
「いや、いいの⁉」
「うん、大丈夫だから! お弁当、お願いね?」
いうや駆け出し、翻るスカートがまたも俺の視線が蛇に!
「……うむ」
満喫したのち、とりあえず、彼女の手作り弁当も満喫することにした。
※
研ぎ、澄んでいく。
気持ちばかりでなく、視界ですら不純物を弾き飛ばして、向かう先だけが浮き上がる。
幾人にも踏まれて汚れた、白の踏切板。
幾人もが飛び込んでは涙を落した砂場。
幾人もの歓声とため息が渦巻く観客席。
全国大会の熱気は凄まじく、だからこそ自分の視野に収まるものを切り落とす必要がある。
走る。
最初は歩調を整えるように。
加速。
腰を押し出し、両脚すら置き去りにするように。
飛ぶ。
弓のように体をしならせ、どこまでも。
どこまでも、
「たった、三メートルだぞ?」
誰の声だったろうか。男だったか女だったかも覚えちゃいない。
だけど、たった三メートルには違いなかった。
西棟と旧校舎の、高さ十メートル程度の細い渓谷の狭間は。
踏切板は転落防止の小さな出っ張りに姿を変え、自分の足は竦んで立ち止まる。
視線を上げれば、踏み切ることを躊躇った出っ張り(後から聞いたところパラペットとかいうなんとも愛らしい名称だそうだ)に、同級生の彼は立ち尽くしていた。
幾度か空を見上げて、下を覗き込んで、それから何度か繰り返して。
彼は跳んだ。
目と鼻の先で。
ああ、俺は関係ないだろ?
ああ、俺に何ができたと?
ああ、俺が知ったことじゃ、
「たった、三メートルだぞ?」
ああ、そんなこと知っているんだよ!
※
声、それも夢の中のそれに驚いて、目を覚ました。
空は相変わらず青く、背中は痛い。コンクリートに転がっていたのだから当然だ。
体を起こすと弁当箱を確かめ、それから現時刻に思い至ったところで、
「もう二時だぞ? 授業をサボって昼寝かい」
大人の、低い女の声が額にぶつけられた。
冬の夜の風のような寒々しい声だ。
現時刻に思い至るから、なおさら寒気が一瞬で背中を嘗め回していく。
「誰です、あなた」
震えそうな声を抑え込んで、伺うような誰何を放った先には、声の通り女の姿。
タイトなダークスーツに身を包み、不自然に太い金属フレームの眼鏡で目元を隠した大人だ。一見、ビジネスマンやらOLを連想したが、張り詰めた雰囲気が肌に伝わってくるからすぐに訂正。
まるで、全国大会の決勝のスタートトラックのような。
常態でアスリートのピークと同じ空気をまとっているとか、まあまともではないだろう。
教員でもないし、自分の知り合いでもない。
なぜ校舎内にこんな不審者が平然としている不思議でならないが、しかし、存在すること自体には違和を感じないほど、堂々としたたたずまいだ。
声と同じく冬を思わせる、厳しく、静かな眼差しが、こちらの驚きを見飽きたように空へと移されていく。
ひびの入った、初夏の空へ。
「高い空だよな。一気に踏み潰されてしまいそうじゃないか」
にこりともしないとか、共感を得るための冗談ではないようで、
「君も、今までにいろいろなモノを踏みつけてきたろう?」
「なにを言って……」
「地面、アスファルト、芝生、トラック、スターティングブロック、あとは……隣のレーンを走るライバル、とか……いや、幅跳びの選手だったな、君は」
……まて、俺の中学時代を知っているのか?
自慢じゃないが、一応全国大会で上位成績者ではあるから、ネットで名前を検索すればあっさりと見つけ出されてしまう程度には有名だ。
とはいえ、警戒心は強まってしまう。
「踏みつけるのも、踏みつけられることも、抵抗はないものかい?」
抵抗って……競技の話だろ?
「勝つ人間がいれば、負ける人間もいるでしょ。抵抗もなにも、競争をしているんだから負けることが許しがたいなんて子供じみた話、ばかげているでしょ」
「君は、覚悟はできているということかい」
なんか、いまいち伝わってないな。
腑に落ちない感じだけは伝わったのだろうか、ちらりと冷たい視線をよこして、
「話を替えよう」
いや、それより、何者です?
そんな当たり前の問いだが、威圧感がすごくて問いに応える以外では言葉が詰まる。
「好きな人はいるかい?」
寒気が走る。
「好きな人が危機の時、君は命を賭して助けられるかい。そうだな……崖の向こうにいたとして」
例えば、と思案するように一呼吸おいて、
「たった三メートルほどの、ね」
冷汗が噴き出す。
「そういえば、ちゃんと返事はしたのかい?」
緊張を緩めようとしてか笑顔を見せるが、まさに嗤うというに相応しく、
「都合が良いねえ」
俺は、どうしようなく恐ろしくて、その場を駆け出してしまった。
※
いったいぜんたい、何者なんだよ!
昔のことは、まあいい。探ればわかる程度には有名人の自覚はある。
だけど、昨日の今日のことまで把握しているとか!
「わけわかんねえ!」
転がるように四階まで駆け下りて、満点の着地を決めてダッシュ。
時刻は五限目の終わりに差し掛かっていて、廊下には人気がない。特別室階で、授業数が少ないことも関係しているだろう。
もう一階下の一年教室階まで下がって教員に助けてもらうことも考えたが、授業をサボっている後ろめたさから、足にブレーキがかかってしまった。
なので、とにかく安全なところまで逃げなければならないのだけども、
「っ!」
進行方向の、俺が下りてきた南階段ではない、北階段から、黒服の女が現れる。
靴底を鳴かせながら踏みとどまり、様子を伺い、
「くそ!」
一歩を踏み出したから、俺は今来た道を駆けて戻る。
五限の終わりまで、あと僅か。
チャイムが鳴るまで逃げ切ればいいのだが、はたして先回りまでしてくるほど。成し遂げられるかは暗雲の先だ。
そうまで追いかける理由はなんだ。
心当たりは……
「石長さんか?」
自分の知らないところで恨みを買ったとかじゃなければ、ここ何年で変わったことなど、昨日に発生した突然の告白だけだ。
なれば、彼女を見つけて警告するなり、一緒に逃げるなりしなければ。
静まり返った特別教室階の廊下を、焦る足音が高鳴る。
と、差し掛かった科学室の扉が開いて、
「え?」
驚き顔の石長さんが。
何やら箱やらロール紙やらを抱えているから、日直の仕事の途中なのだろう。
なぜ、と、どうする、が交錯して、
「来て!」
「ちょ、臼杵くん⁉」
決意して、躊躇いに引かれたその手を取る。
守らなければならない、と思う。
だから、迷いはなかった。
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