EP
見上げれば、晴れ渡る空に傷一つなくなっていた。
グラウンドに横たわって真正面に据える夏の空は、裾野をオレンジに彩り、紫に染まっていく。
昼が過ぎ、夕から夜へ塗り替えられていく時刻。
俺は気が付くと、一日の仕事を終えた太陽の背中を見せつけられていた。
丸々、半日は意識を失っていたのか。
腕を上げて左腕を確かめると、服こそ千切れるように失われているが、肌に擦れた跡すらなくきれいなまま。足、腰も同じ。
予感はあったんだ。おこがましいと、自分でも思うのだけれども。
ああ。
本当に、都合が良すぎる。
こぼれた涙をぬぐい、空に目を戻すと、
「今の空は、いったい君には何色に見えているんだい」
冬の夜の風のような、
「忘れないよう、焼き付けるべきだ。明日になれば空は塗り替えられてしまうからな。誰でもない、君自身の胸によって」
しかし、吹き荒ぶようではなく、粉雪を舞わせるような静かな声がかけられた。
宵に薄く伸ばされた影の足元が、転がる俺の傍らで立ち止まる。
「彼女は、俺を助けてくれたんですね?」
「たまたま君を好きになった不定形の変異生命が、たまたま君の肉体と同情報を持っていた。私たちは何もしていなくて、間違いなく彼女の判断で、君は助かった」
ありがたいことだ。肉体の損失は、石長さん自身の体で補填され、俺の命は繋がれた。
「ありがとうございます」
「何の話だい。礼を言う相手は違うだろう」
予感はあったんだ。どうしてそうなっているのか、わからないけれども。
体を起こし、軋む太ももに鞭打って立ち上がると、彼女と向きなおる。
いつものクソダサ極太金属フレーム眼鏡は外されており、夕暮れに染まる美しい顔は、
「ありがとう……どっちで呼べばいいです?」
石長・穂希。自分が愛した姿、そのままであった。
目元は冬のように冷たく、溜まっていた疲労が消えるわけでもないが、形そのものはズレもなく彼女のものだ。
冷たい頬を少し崩して、
「木花・映がいい。私は、どうしたって『君の石長・穂希』にはなれないからな」
はにかむような、悲しむような、憂うような、懐かしむような、そんな笑みを見せてくれた。
※
俺が小さな頷きで今後の呼びかける名前を確定させると、木花さんは首をかしげて、
「いつ、気が付いた?」
「さっきです。確信も確証もなかったけれど」
初対面、学校で追いかけられたとき、いつの間にか進路をふさがれていた。
石長さんが、どうしてか先回りするようにこちらの事情を把握していた。
夏澄と堤防で会った朝、偶然にも通りかかった。
なぜか、休日の学校入り口の鍵が開いていた。
二人きりで話せば、先回りでもされているかのような話をされる。
決め手は「そうだろう」と思わせる言葉だ。
「時間跳躍なんか『チープな案件』なんでしょう?」
「……はは」
あなたが、俺に言い放った言葉。
驚きから、噴き出すような笑いに移る顔は、
「ああ、そうだ。珍しいことじゃあない」
間違うこともなく『彼女』の笑顔に違いなかった。
ひとしきり肩を震わせると、柔らかい笑みで歩けるか、と手を差し出してくる。
甘えるようにすがって、痛みと喪失感でいっぱいの足を引きずっていく。
「状況は無限に派生する。例えば」
臼杵・翔太が十五メートルに怖気づいた場合。
石長・穂希が彼の恋人まで至れなかった場合。
臼杵・翔太の覚悟の結び目が緩くなった場合。
「例えば、君に見捨てられた『石長・穂希』とかな」
沈む言葉をこぼす横顔は、しかし柔らかな『彼女』の微笑みだった。
言葉の通りなら、俺に恨み言の一つもあるだろうに、と不思議に思って見つめていると、
「君は『私の臼杵・翔太』じゃないだろう?」
納得する俺に、メモの切れっぱしを差し出してきた。
「私のアドレスだ。辛くなったら連絡しろ」
受け取れば、
「その時は『君の石長・穂希』になってやれるさ」
この上なく、魅力的な笑みを見せてくれるから、
……ほんとうに、どうしてこんなにも、都合の良い彼女たちなんだ。
だから、俺も笑い返して、
「じゃあ、木花さんも辛くなったなら連絡くださいよ」
可愛らしい顔に驚きが浮かぶから、すかさず、
「その時は『あなたの臼杵・翔太』になってあげられますから」
胸にいる石長さんもきっとそう望むだろうし、なにより空のひび割れからやってきた『彼女』の慟哭を見てしまっては、捨て置けるわけがない。
木花さんは足を止めて、宵の曖昧な明りのなかで、やはり曖昧な笑みを浮かべて、
「全部、私たちの全てを救おうと?」
なるほど、解釈としてそうなるか。
「はは……本当に、私たちに都合の良い彼氏だな、君は」
曖昧なのは、照れ隠しなのだろうと思う。
頬が赤らんでいるように見えるのも、夕日のせいばかりじゃないだろうと決めつける。
俺とあなたは、笑って、歩みを止めることはない。
なっていったって、どうなったって、『あなた』がいて『俺』がいるんだから。
このうえなく、互いに『都合が良い』俺とあなたが。
都合の良すぎる彼女の秘密 ごろん @go_long
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